第三章

 早朝、品送りに向かう者達は、まだ夜が明ける前から踏鞴場正門前に集まっていた。

 稜線の先、東方の空が微かに色味を帯びてきてはいたものの、暗い上空には未だ星々もまばらに残っている。鳥のさえずりも始まらない刻限だ。ここ何日かの日中の暑さからは程遠いこの朝の冷え込みに、人々は肌寒ささえ覚えていた。

 しんとした早朝の静けさの中、準備を終えた男達は出立の合図を待っていた。

 見送りは少なかった。彼らに同行せずこの地に残る者達も、ただ何もせず留守の番をするわけではない。踏鞴場に村を築き上げるためにも、引き続き多くの汗を流さなければならないのだ。それを思えば、見送りよりも身体を休めたいというのが正直な気持ちであるうえ、それは送りに出る側も重々承知のことだった。もちろん、中には一行の出発をその目で見送るため、疲れた身体にむち打ち門前までやってくる者もいた。トキなどはその中心だ。だがそんな者達も、疲労と眠気とで口数は少ないのだった。

 送りに出る者は総勢二十名ほど。エボシとその世話役として女性が一人同行するが、それを除いた他は皆が男だ。今や彼らは踏鞴場にいる男衆のほとんどでもあった。そしてそれに加え、ヤックルと牛一頭が荷を運ぶ。牛にはもちろん荷車を引かせ、ヤックルにも荷車ほどではないが鉄や侍達の刀が背に載せられている。以前は牛も頭数があったため、荷車ではなく小分けして直接に牛の背に荷を積んでいたが、今回は一頭の背に全て載せるには荷が多過ぎるため、荷車を使うことになった。牛飼いを中心とした男達も数人ずつに分かれ、それぞれの班が分担して小さな荷車を引いて歩く。荷車の車輪には、下り坂でも速度を制御できるようにテコを用いた制動機が設けられているうえ、引手が取っ手を下げれば、備え付けられた脚が地面に突っかかり止まることができるようになっている。それでも長い山道を重さのある荷を引いて降りるのは非常に危険な作業であることに変わりはなく、特に荷車の前方で荷を引き、針路を取る者は荷に押し潰されかねないため、まさに命懸けの仕事であった。下り道では、テコの操作も荷車の引手も十分に慣れている者が担う必要があったため、当然のように素人であるアシタカが出る幕は無い。そこで、彼と他のあまり荷引きに慣れていない者は、各々が背負子にできるだけの荷を積んで歩くこととなっていた。

「行ってくる。後のことは頼んだよ。」

踏鞴場に残る女達を前に、留守を頼むエボシ。彼女らの中心にいるトキは見送りの言葉をかける。

「任さて下さい。どうかお気をつけて。」

頷いたエボシは、荷作りを終えて待機している一行に向き直る。そして皆を見渡すと、「出発だ。」と呼びかけた。その一声に、傍らにいたゴンザも「出発だ!」と一行に向けて繰り返す。ゴンザの声を合図に、牛を引く者、荷車を引く者、背負子を担ぐ者、皆が一斉に動き出した。

 荷車の車輪のガラガラという音と共に、エボシ率いる男達は遠い人里にある町を目指し歩きはじめる。先頭にはエボシと近従の女。その傍らにゴンザ。二人を筆頭に、背負子を担ぐ者達、牛が引く荷車、男達が引く数台の小さな荷車と一列になって続き、最後尾にはアシタカとヤックルが付いた。

「あんたも気を付けるんだよー!! また崖から落ちるんじゃないよー!!」

出発して間もない一行の背後から、夫へと向けたトキの大声が聞こえてくる。

「おおぉーう!! 分かってらーい!!」

隊列から甲六の返事がした。トキと甲六のやりとりに、居合わせた者達から笑い声がもれるのだった。

見送りを背に、一行は踏鞴場を後にした。


 出立から程なくして、東の方角から朝日が顔を覗かせる。陽の光で辺りが明るくなればなるほど、彼らが歩む山あいの道の様子がはっきりと浮かび上がってくる。

 その道は、荷車一台とその両脇に人が一人付いて歩ける分の道幅しかなく、とても荷車同士がすれ違うことなど出来ない一方通行の道であった。起伏にしても道幅にしても、アシタカからすればお世辞にも良い道と言えるものではなかった。

 聞けば、もともとここには、この地を狙った最初の踏鞴師が開けた簡素な古道があったらしい。その踏鞴師は結局、モロやナゴの守の激しい抵抗に遭いこの地を去り、その後も何人もの踏鞴師がその道を使って山に踏鞴場を建てようとしたが、どれも失敗したという。そんな中、突如としてこの地に姿を現したエボシは、まずその狭い古道を拡大して牛や荷車が通れるようにした。そうすることにより、一度に大人数でより多くの物資を運ぶことができるようにしたのだ。そのため、食糧や資材、人員を多数の護衛を伴いつつ大量に運搬することが可能となり、モロやナゴの守一族の襲撃を退けつつ、短い期間で大踏鞴を完成させたというのだ。

 だが、当然に長距離の道...それも山奥の道を突貫で拡大するというのは多大な労力を伴う大仕事であったため、出来上がった道はかなり荒れたものだった。山道を造るうえで最も重要な排水についてもあまり考慮せずに造っていったためか、降雨時には雨水が道の上を流れて地面を削り、あちこちで泥沼化したり、酷い時は路肩や山側の切り取り面が崩れてしまうこともあるらしい。それもあってか、出立前には皆が雨のことを心配していたのだった。幸い、この日は雨の降る様子は微塵もなく、よく晴れた良い空模様であった。

 一行は、狭い山道を黙々と進む。彼らの歩む道の近くには川が流れていた。その川というのは、踏鞴場のある湖から流れ出ている川だった。時には傾斜のなだらかな野原を、時には山の谷間の崖のような場所を通り抜けながらも、彼らの耳には常に水の流れる音が聞こえてきていた。傍らから聞こえてくる川のせせらぎは清々しい音色であったが、一方で彼らの歩く道の周囲はどこも荒涼としており、かろうじて生きている小さな木がまばらに立っているだけだった。こういった道に面した山の木々は、大踏鞴で製鉄をするための炭や、生活に必要な薪、さらには建材などにするためにほとんどが早い段階で伐採されていた。伐採からの月日が経っているからなのか、シシ神の力がここにまで及んでいるからなのか、たくさんの幼木が育ってはいたものの、ここもまた踏鞴場周辺の山と同じように樹木の少ない禿山であった。とはいえ、そのような道沿いの光景も、踏鞴場近辺の惨状を目にしたことのある今のアシタカにとっては、特に珍しいものではなかった。

 ところが、一行の後に付いて山道を下(くだ)り続けていると、次第にそれまで目にしてきた伐採跡地とは異なる風景が目に入るようになる。そこでは、木々は確かに残っている…が、それらの皆全てが焼け焦げたように真黒な姿で乱立しているのだ。ただ枯れたのではなく、炎に焼かれて朽ちたようだ。そんな木々が並ぶ異様な光景を、アシタカは不思議に思い、立ち止まって眺めるのだった。

「山火事じゃあないですぜ。」

荷を背負ったまま足を止めていたアシタカに気が付いたのか、背負子を担ぐ男が振り返り、彼に声をかけた。

「山犬や大猪達が襲ってきた時に、森ごと焼き払って追い払ったんだ。」

そう言った男は、目の前の焼け焦げた山を見上げながら続ける。

「奴ら、前はよく森に身を潜めて待ち伏せしてたもんです。だけど、エボシ様もそんな奴らのやり方が分かってからはもう、あらかじめ森の木を焼き払うようにしたんです。そうすれば見通しがよくなって奴らも身を隠せない。それに、奴らが近づいて来れば遠くからでも見えるんでこっちも守りやすいんです。」

話を聴くアシタカは、彼の故郷では到底考えられないようなエボシの大胆な行動に驚くほかなかった。

「…恐ろしいことだ。」

「俺らも最初のうちはそう思ってました。エボシ様はやることが普通じゃねぇ…。以前はこんなことも平気でやってのけるお方だったんだ。この前のシシ神の一件以来、ずいぶん丸くなったもんですよ。」

男は最後にそう言うと、アシタカに背を向け、再び前を向いて歩き出す。

しばらく立ち尽くしてその異様な光景を眺めた後、アシタカもまた隊列を追ってもう一度歩きはじめるのだった。


 この日、一行はほぼ休む間もなく一日を通して歩き続けた。酷い悪路のため、たびたび荷車が往生して後続が止まってしまったこともあり、あえて休息を取ったのは片手に数えられる程度だった。

「分かってはいましたが、なかなか進みませんでしたな。」

あれほどに快晴を演出していた太陽もいつの間にか沈み、夕暮れ時も当に過ぎた薄暗闇の中でこの日の目的地にたどり着くと、ゴンザがエボシに言った。

「今日この場に着いただけでもまだましだ。」

エボシも、到着した端(はた)から次々に地べたに座り込む男衆を見てそう呟くのだった。

 そこは、普段の荷送り時であれば夕暮れ前には既に到着しているはずの野営地だ。この日一晩、ここで野宿をすれば、明日は町へと辿りつける。この山間の野営地がちょうど道中の中間地点であり、最も危険な箇所はすでに抜けていた。

 野宿といっても、夜空の下で眠るわけではない。ここには粗末な山小屋が数軒建てられている。道の拡幅と同時期にエボシがあらかじめ野営地として整備したもので、エボシや同行した女達はもちろん、牛飼いの者や護衛の者達皆が泊まるためのものだ。今回はエボシとお伴の女の二人がその中の一軒に入り、残りの小屋はゴンザをはじめとする男達が入る。とはいえ、男衆は夜間の見張りも任されているため、交代で小屋に入り寝ることとなった。

「それにしても、ゴンザ様も報われねぇなぁ…。」

その晩、幾人かに分かれ、小屋の外でそれぞれ焚火を囲んで簡単な夕飯を取っていたところで、牛飼いの一人が言った。

「報われない?」

同じ焚火を囲んでいたアシタカが、一体何のことだろうかと不思議そうに繰り返した。

「あれですよ。あれ。」

男は顎で視線を促す。その先には、エボシが宿を取っている山小屋と、その戸口の外で胡坐をかき、まるでお不動様のような顔つきでエボシの眠る小屋の番をするゴンザの姿があった。

「なんだ、どういうこった。」

傍らで、早々に飯を食い終え満足気に横になっていた甲六も、持ち前の好奇心から話に加わってくる。

「旦那も甲六も鈍いなぁ。」

先程の男はそう言って呆れると、ぽかんとした二人に構わず続ける。

「ゴンザ様はエボシ様を好いてますぜ。」

「えぇっ!」

甲六は悲鳴にも似た奇声を発し、この野営地にいる全員を振り向かせてしまう。

「馬鹿! でかい声上げるなって!」

男はすぐに声を潜めて甲六を静めにかかる。

「…お、おう、悪りぃ悪りぃ。」

謝る甲六に続いて、今度はアシタカが驚きをもって尋ねる。

「そうなのか?」

「えぇ。そうです。そうに決まってる。」

「それは気がつかなかった…。」

彼はそう呟くと、エボシの休む小屋とその外に居座るゴンザを遠目に眺める。

「いつからだ? え?」

甲六が興味津々に尋ねた。

「始めっからさ。薄々そうじゃないかと思ってたんだがな…。」

「いや、違ぇな。」

ここにきて、彼らの横で静かに飯を食べていたお頭がその口を開いた。牛飼いの男はそんなお頭に話を振る。

「それじゃあお頭はいつからだと?」

「デイダラボッチの一件からだな。」

お頭は確信をもって答えた。

「それじゃ、つい最近じゃねぇですかい。」

横たえていた身を起こしながら甲六が言った。もう一人の男も納得がいかない様子だ。

「もっと前から、ゴンザ様の言うことすることにエボシ様への情が

出てたと思うけどなぁ。」

「あぁ。だがそれは好きとかってもんじゃねぇ。どっちかっていうと守るべき大切な主人とか、身分が上の娘とか、近いようで一つ壁を挟んだ、そんな感じだった…。エボシ様を年端もいかない頃から知ってるゴンザの旦那からすれば、エボシ様は自分より身分が上の隣家に住む可愛らしい娘で、旦那はその成長を傍らで見守ってきた近所の兄さんみたいな感じだ。」

「あの顔でか?」

牛飼いの男の一言に、甲六が噴き出す。茶化す彼らをよそ眼に、お頭は話を続ける。

「いいから聞け。…そんなゴンザの旦那のエボシ様に対する態度が、シシ神の一件以来、少し変わってきたような気がすんだよ。」

「前から同じように見えるけどなぁ…。」

「俺には違うように見える。…前のような、壁一つ挟んだような言動とは違って、一人の女としてのエボシ様を心配してるように思える。あの日、シシ神の森で何があったのか知らねぇが、そこで何かあったんだろう。」

お頭の話しに、しばらく聴き手に回っていたアシタカは思い当たる節があるとばかりに彼に言う。

「…もしかすると、エボシが命を落としかけたことと関係があるかもしれない。」

「そりゃあ、どういうことで?」

甲六がアシタカの顔を覗き込む。アシタカは再び話し始める。

「失いそうになって初めてその者への想いに気が付くという話を聞いたことがあります。…あの時、モロやデイダラボッチによってエボシが命を落としそうになって初めて、彼も胸の中にあったエボシへの想いに改めて気が付いたのかもしれません…。」

それを聞いたお頭は、「あり得るな。」と呟く。

「それじゃあ、山犬やシシ神のおかげってことか?」

おかしな話だとばかりに甲六が言った。

「今の話が本当であれば、そういうことになるかもしれません。」

アシタカがそう言ったところで、今度は先程の牛飼いの男がアシタカの話題に持っていく。

「そういえば旦那はどうなんです? 山犬の娘とはうまくいってるんで?」

男はニヤけ顔で、茶化すようにアシタカの反応を窺う。単刀直入に思いがけず飛び出した話に、お頭もまたアシタカが一体どんな反応を見せるのか興味津々の様子だ。そして甲六はというと…またしてもキョトンとしていた。

「旦那、もののけ姫とどうかしたんですかい?」

アシタカの返答がどうこう以前に、甲六の言葉に呆れる二人。

「甲六よぉ、お前の目は何のためについてやがる…。」

お頭が溜息交じりに言い放った。

「な、何がだよ。分かるように言えってんだ。」

「旦那と山犬の姫は『いい仲』だってことだよ! …ったく、小っ恥ずかしいこと言わせんじゃねぇ。」

「えぇっ!」

この晩、二度目の驚愕を露わにする甲六。またしても奇声を発し、周りで飯を食らう男達が再び何事かとこちらを振り向く。

「だから…! でかい声だすなって…!」

「…お、おう、悪りぃ悪りぃ。」

「それで旦那、どうなんで?」

ニッとして、改めて詰め寄るお頭。動揺するか慌てるか、それとも図星のまま関係を否定するのかと思われたアシタカの反応はしかし、予想していたものとは真逆のものだった。

「あぁ。サンとは今のところうまくやっているよ。心配は無用だ。」

笑顔で爽やかに言い放つアシタカに、面白おかしな反応を期待していた先ほどの男はガクッと頭を垂れる。

「…いやまぁ、うまくいっているようで何よりです…。」

男は、参りましたといわんばかりにアシタカを祝う。そんなやりとりを傍らで見ていたお頭は、笑いを堪えるのに必死のようだった。

あれやこれやと談笑しつつ、雑穀を湯でふやかした質素な飯を食べ終える。

 その後、普段であればもう少しばかり起きて話の続きをしているところであったが、翌朝の出立が今朝よりも早い上に一日の荷運びの疲れもあり、アシタカや牛飼い衆、そしてヤックルを含め皆が横になり、あっという間に寝静まってしまった。


 次の日の朝、この日も一行はお天道様がその姿を現す前に出発していた。

 野営地から人里までの道は、前日までのそれとは大きく異なっていた。辺りには生きた木々が根を張り、見通しが利かない一方で、道それ自体は大きな崩壊や起伏もなく、石や岩などが道上に転がっていることも無い、よく整備された良い道だった。森の木々も、枯れているか生きているかという違いだけでなく、幹の太さや樹種などがだいぶ違っていた。里に住む人々の活動範囲に入ってきたからか、それほど肥えていない黒木が多く見られた。

「ここはもう、シシ神の森ではないのか…。」

周りの景色の違いに、アシタカが一人言を言う。

「シシ神の森ならもうとっくに抜けてますぜ。さっきの野営地の辺りは、もののけ達の森と人様の住む世界の狭間なんで。」

横に並び、背負子を背負って歩いていた男が言った。男は続ける。

「ここらはまだ黒木が多いですが、椚(くぬぎ)やら小楢(こなら)やらの薪炭林(しんたんりん)が出てきたら、もう人里は近いですぜ。ま、まだしばらくはかかりますがね。」

男の言う通り、薪炭林が見えてくるまでが長い道のりだった。野営地を出てからというもの、皆が黙々と歩みを進めるものの、真昼を過ぎても雑木林は見えてこず、休息を挟み午後となってもなかなか山の様子が変わることはなかった。


「遠いな。」

この日、何度目かの休憩中に、ヤックルの荷を降ろしながらアシタカが語り掛ける。そこへ、隊の前方からお頭がやってきた。

「旦那、どうですか。旦那もヤックルも平気で?」

初めて送りに加わった彼らを心配してか、わざわざ様子を見にきたようだ。アシタカだけでなく、今回の荷送りに参加した男達の中には、もともと職人衆として働いていた者もいる。お頭は、初めての行程である彼らの具合も含め、一行の状態を確かめようとしていた。

「お頭、私達は大丈夫だ。何とかやっている。…荷車の方は?」

「こっちも何とかやっています。ここらの道は近くの村の衆も使っているもんで、上のものよりも良い道なので昨日よりは順調です。」

「それは良かった。」

「旦那、この後のことなんですが、エボシ様が休憩はこれで最後にしたいとのことです。陽が傾いてきているのが気になるのでしょう。日没までに里に出ることができれば、あとは暗くなっても歩き続けられます。山道で夜を迎えたくはありません。…ここの者達は、このまま里まで歩き続けても大丈夫で?」

「あぁ、きっと大丈夫だろう。里までは後どれくらいあるんだ?」

「もうすぐ雑木林が出てくるはずです。ここまで来れば、もうそんなに遠くはありません。」

「そうか、わかった。エボシにも承知したと伝えておくれ。」

「あいさ。」

その後、お頭は初参加組の男達一人一人に声をかけつつ、エボシのもとへと戻っていった。

しばらく休息を取った彼らは、先頭からのゴンザの「さぁ、休憩は終わりだ! 出るぞ!」という一声に再び腰を上げる。

「一服はこれを最後にする! 皆、遅れをとるな!」

続くゴンザの大声に、皆は溜息交じりに動き出すのだった。


 お頭の言葉通り、最後の休息を終えて歩き出してから間もなく、雑木林が目に入ってきた。黒木林とは違って若い林分である薪炭林は、陽が傾いているこの刻限においても比較的林内の明るさを保っていた。椚や樫(かし)などの木々が現れてからは、歩みを進めるに従って辺りの景色が変わっていく。ここもまたそれまでと同じようにたくさんの木々が育つ林ではあったが、どことなく画一化されたその林分は、よく見れば自然の森とは異なる様相を見せており、この地が人間の生活圏であることを示すのだった。

 椚など薪炭材となる木々に加え、ちらほらと分かれ道や道標(みちしるべ)、炭焼き小屋を始めとする人工物も目に入るようになる。よく手の入った竹林も見受けられるようになり、いよいよ人里に近づいていることが感じられる。そして、道の先がやけに明るいなと思いつつ、長旅に疲れた足を前へ前へと運び続けると、ついに長かった山道もそこで終わり、雑木林を抜けて一気に視界が開けた。林を抜けた一行の前に姿を現したのは、山あいの小さな村のようだった。数軒の小さな家屋の他には一面に棚田や畑が広がっていた。村から伸びる道は、普段から人々に利用されているだけあってとても歩きやすいものだった。それもあってか、皆の足取りもどこか軽くなったようだ。

「これで一安心ですぜ。」

アシタカと共に歩いていた男が話しかける。人界へと戻ってきた安心感からか、その顔は疲労を見せながらも確かに嬉しそうだった。

「町はもう目と鼻の先です。」

男はまたそう言うと、今度は歩きながらヤックルを振り返って「もうちょっとの辛抱だからな!」と声をかける。

ヤックルも鼻を鳴らしてそれに答えるのだった。


 一行が目的の町に到着したのは、それから間もなくのことだった。大きな問題もなく、日没前に目的の地に辿り着いたことに皆が安心していた。

 町は、山に囲まれた広い盆地に広がっていた。その中央には整備された街道が東西に町を貫いており、街道沿いには多くの宿や簡素な店が並んでいる。周辺からは一行が辿ってきたような小さな道が無数にこの町へと集まってきており、ここがいずこかの国と国とを結ぶ街道の宿場町であるのと同時に、この辺りの村々からの農作物を集積し、輸送するための流通の要衝であることが分かる。

 夕暮れ時という頃合いもあり、日中は人で賑わうであろう市場はとうに店じまいされており、街道を行く人々もそう多くはなかった。

「なんだありゃ。」

「馬じゃなねぇな。鹿でもねぇ…。」

村から続いていた小道を抜けて街道に合流すると、案の定、一団の最後尾を行くヤックルが物珍しいのか、ちらほらと囁き声が耳に入ってくる。

「立派な角だ。」

「ありゃあ神の森で大踏鞴やってる奴らだ。よく鋼を運んでくるが、あんな獅子いたかな…。」

「そういや先頭の女が頭領やってたな。まだ生きてたか。」

「この辺りの問屋は奴の鋼でえらく儲かってるみてぇだな。」

住民の囁きを尻目に、一行は街道沿いに歩く。

「見えた! あそこだ。おーい、みんな! もう少しだ!」

前方で牛を引く甲六が後続に叫ぶ。街道に響くその一声に、通りを歩く人々が何事かと驚き、振り返る。

「甲六の奴、大声出しやがって…。」

アシタカの隣を歩く男が、周囲の町人たちを気にして恥ずかしそうに呟くのだった。

 長い往路の終わり、最後に一行が足を止めたのは、街道沿いの大きな問屋の前だった。問屋は通りにあるの建物の中でもひときわ大きく、踏鞴場の中の大踏鞴と同じくらいの敷地に倉を二軒も併設してある立派なものだ。この町でもよく名の知れた商屋らしく、店先には木板に店の名が書かれた見事な看板が掲げられている。戸口も広く、荷車が丸々一台は余裕で入れるくらいの大きさがある。

 店先に到着したところで、エボシは荷降ろしの前に一度皆を呼び集めた。そして、問屋の人間達が出てくる前に、周りには聞こえないよう抑え気味に言うのだった。

「皆、長い道のりをご苦労であった。難儀であったな。...ここまで来た今、先(ま)ず以って皆に言っておかなければならないことがある。」

エボシは集まった男達に語り掛ける。

「よいか、くれぐれも踏鞴場のあり様は口にするな。我々が以前のような力を失った今、商人どもに弱みを見せれば相手にされないであろう。奴らはそういう生き物だ。」

その言葉に、「そうだ。」「違えねぇ。」と男達が頷く。

「この町にいる間は決して今の踏鞴場の話をするでない。通りを歩く時も、宿に入っている時もそれは同じだ。よいな。」

「へい。」

男達が声を低くして答えた。

「アシタカ。」

エボシがアシタカに向き直る。

「そなたはここで待て。店の者との話は私とゴンザでする。そなたにはちと向かぬ話だろうてな。」

そう言われた彼は、故郷を発ってから初めて人里に下りた頃の自らの経験を鑑みたのか、「商(あきな)いのことはよくわからない。」と素直に了承する。

 アシタカと他の男衆を残し、エボシはお伴の女とゴンザを連れて戸口をくぐった。


 夕刻となり、屋敷の中は既に薄暗かった。小窓から差し込む橙の西日が細く伸び、この寒々しい商人の舘をほんの少しではあるが、柔らかな光で照らしている。

 店内では、番をしている者が一人、板の間に座り、小さな机でなにやら暇そうに書き物を読んでいた。来客には気づいていない。

見かねたゴンザが声を上げる。

「おいっ、そこの者! 主人はいるか!」

番のその男はゴンザの呼びかけに驚き、はっと顔を上げる。土間に立つ三人に気が付いたようだ。

すかさずエボシが尋ねる。

「踏鞴場のエボシだが、主人はいるか。」

その一言を受け、男はエボシの顔をまじまじと見つめ、次に彼女の右腕…があるべき空間に視線を移す。男は驚きを露わにした。

束の間の沈黙のあと、男は我に返ったのか、焦った様子で「はっ、ただいま。」と受け答え、書き物を脇に除け立ち上がり、慌てて屋敷の奥へと姿を消した。

「…なんだ、あいつ。」

そんな男を見てゴンザが怪訝に呟く。

一方のエボシはお構いない様子で土間を横切り、板敷きに腰を据える。

あまり間も置かぬうちに、「…こんな刻限に一体だれなんだ…」という呟きとともに屋敷の奥からここの主人と思しき男が出てきた。

その男、歳は中年の頃といったところで、なにやら気難しそうな顔をしている。商人であるからか、その服装は一見、地味な色使いではある。しかし、よく見ればものは上質の着物に身を包んでいた。

奥の座敷から敷居を跨いで出てきた男は、腰かけるエボシを見た途端、その気難しそうな表情を一変させる。険しい頬を緩ませ、目を細めると、へりくだった口調でエボシを出迎えた。

「これはエボシ様。よくぞ御出でなられました。道ゆく人の噂では、あの大踏鞴を襲ったアサノの軍勢共々、もののけ共にあの地を追いやられたとかなんとか…。もう鋼を持ってお越しにならないのかと心配しておりました。」

そんな主人の言葉を無礼と受け取ったのか、ゴンザが口を挟む。

「なにぃ? もののけがどうした。エボシ様も俺様もこの通りだ。くだらん話に耳を貸すな。」

転じてエボシは、ゴンザの傍らでハッハと笑い出していた。

「…そうか、道理で番の者が、まるでもののけでも見るかのような目でこの私を見ていたわけだ。」

「それはそれは、失礼いたしました。ちょうどわたくしどもも店じまいの支度を始めていたもので、まさか夕刻になってお出でになられるとは思いもしなかったもので。申し訳ございません。」

男はそう言ってエボシの傍らに正座する。

「それはいい。いつもと比べれば、我らも到着が遅くなってしまったからな。」

「道中でまた地侍が出たので? それとも、もののけ共が…おや、そのお身体は…。」

言いかけたところで、店の主人はエボシの身体に視線を止め、息をのむ。彼女の右腕が失われていることに気が付いたのだろう。言葉に詰まった主人にはお構いなく、エボシは言い放つ。

「右の腕は大山犬に持っていかれてな。その山犬も今はもういないが。」

話し上手の商人といえども、さすがに動揺しているようだった。

「…そ、そうでございますか。それは、なんと申しますか、はは…。してエボシ様、鋼の方は…?」

彼は首を延ばして戸口の外を窺う。

「すまぬが、アサノともののけ共の邪魔が入ったことで踏鞴の操業に少し支障が出てしまってな。今日は良質の鋼はないが、銑がいくらかと、残りは侍共から奪った程度の良い刀や鎧兜だ。」

「さようでございますか。侍からとはさすがでごさいますな。では早速、お品を拝見させていただきましょう。」

問屋の主人は、鋼がないと知って残念そうな表情を浮かべてはいたものの、すぐに品定めの準備を始める。彼は傍らに控える番の者に呼びかける。

「…おい、倉を開けさせろ。それと、白湯はどうした。お客様に白湯(さゆ)を。」

「表にいる運び手たちにも水をやってくれないか。みな疲れ切っている。」

エボシが付け加えると、主人は「かしこまりました。」と応じて立ち上がり、店の奥へと使用人を呼びに行った。


 しばらくの間、店の前で座り込んでエボシ達を待っていたアシタカと男達は、屋敷から数名の店の者が出てきたのを見て立ち上がる。店の使用人は、それぞれに「ご苦労様です。」と口にし、各々運び手の皆から荷物を預かり始める。また、遅れて中年の女が両手に椀と水の入った桶を持って出てくると、桶を置き、椀に柄杓で水を注いで全員に渡していった。さらに後から、エボシとゴンザ、お付きの女も出てくる。

「ありがとう。」

アシタカは店の者から水の入った椀を受け取ると、笑顔で礼を言った。喉を潤しつつ、彼は屋敷から出てきたエボシに近寄り、尋ねる。

「ここの者達は物売りなのか?」

事情をよく分かっていないアシタカに、エボシは教える。

「問屋だ。奴らに品を渡し、金を受け取れば、後は売り払ってくれる。古くは年貢米の荷運びに携わっていたと聞くがな。今ではあらゆる品を扱う商人といえよう。」

「そうか。…それなら、これも渡してほしい。」

彼はそう言うと、空いている方の手で腰に下げた巾着をあさり始める。紐を緩め、中からなにやら取り出した。

「少しは足しにならないだろうか。」

そんな台詞と共に差し出された彼の手の平には、ちょうど大豆一粒ほどの大きさの黄金が転がっていた。それも一つではない。

「…これは、砂金か…!」

エボシは珍しく目を見開き、驚いて言った。しかし、その声は小さく抑えられたものだった。

「お主、どこでそんなものを…。」

「私の里の近くを流れる川の中にあった。幼い頃はよく探して回ったものだ。」

「これほどのもの…他にもあるのか?

「ああ。」

そう言って巾着を見せるアシタカ。

「その中にこれと同じものが?」

頷く彼を前に、エボシは驚きを隠せない。

「一体そなたの国はどうなっておるのだ…。」

彼女はアシタカの手から黄金を一つ、左の手に取って言うのだった。

「お銭(あし)とやらとは換えられないのだろうか?」

アシタカが尋ねた。エボシは周りの目を気にしつつ、一度手にしたその砂金をそっとアシタカの手の平に戻す。

「そうではない。…だが、今これを奴らに見せれば踏鞴場で金が出たと思われてしまう。そうなればそなたの望まぬ結果を招くであろうな。」

彼女は店の者の耳に入らぬよう、努めて小さな声でアシタカに言うのだった。

「今はその懐(ふところ)に大切にしまっておけ。この先それが必要となる日が来るやもしれん。必要とされるその日まで、たやすく人前には出すな。よいな。」

「よく分からないが、どうやらその方が良いようだ。」

彼もまたエボシの様子から何事か感じ取ったのか、一度は取り出したそれを今度は目立たぬよう腰の巾着に戻す。

「あの赤獅子といい、砂金といい…。そなたの国がどのようなものか見てみたいものだな…。まぁそれはよい。アシタカ、今宵の宿のことだが、私と近従の者はこの界隈にある宿をとることにしている。ゴンザも同じだ。牛飼いや他の男達は町外れにある使用人の宿となるが、そなたはいかにする。」

アシタカはそれほど考えることも無く答える。

「私は運び手の皆と宿を共にする。」

「そうか。ならばそなたの好きなようにするがよい。」

彼の予想通りの答えに、聞くまでもなかったかといった様子でエボシは言うのだった。


 時を同じくして、人界の町からは遠く遠く離れたシシ神の森…今では森と呼べるほど生きた大木は多くないが…では、サンとその兄弟達が、夕焼けに照らされるこの広い山中を一緒になって行動していた。

 彼女らは、この広いシシ神の地の外れにある、数少ない無傷の生きた森へと向かっていた。そこは、シシ神の池や踏鞴場から遠く離れているため、デイダラボッチの『どろどろ』から免れていたのだ。運良く残ったその一帯は決して広くはないが、大部分の森が失われた今、これまで森に生きてきた獣達の多くが、この狭い無傷の森に身を寄せていた。

「見えた。」

山犬の背に揺られながらサンが言った。彼女の視線の先に、今となっては貴重な濃く深い緑の森が姿を現す。かつての広い森の外縁部にあたるため、シシ神の池の周辺に育っていたような巨木の森ではなかったが、それでもここには生き生きとした立派な森があった。

「いた。」

 その一角、新たな若い森と生き残った古い森の境のあたりに、何やら樹上で動きまわる黒い影が目に入る。森の獣だ。その獣は一頭ではなく、群れをなしているようだった。

 サンと兄弟達はそのまま獣達のもとへと近づいていく。獣達も、近寄る山犬一族の気配を察したのか、次第に騒々しく警戒した様子で動き回る。

 サンはその者達のもとへ、彼らを驚かせないようゆっくりと慎重に近づいていった。彼女は獣達の潜む、目前にある過去の森へと立ち入ることはせずに、新たな若い森の側で山犬の足を止めさせた。そしてその背から降りると、樹上の獣達に向けて大きく呼びかける。

「猩猩達、私だ。山犬の一族のサンだ。」

木の上に陣取る猩猩達は、サンの声に警戒心を露わに反応する。

「何の用だ。」

「どうしてお前たちここへ来た。」

「ここは山犬の縄張りじゃない。」

「俺達食べるのか。食べに来たのか。」

口々に思い思いのことを言う猩猩一族を前に、サンは彼らを刺激しないよう淡々と答える。

「違う。あなた達を食べるようなことはしない。今日はあなた達一族にお願いがあってここに来た。だからあなた達の長(おさ)に会わせて欲しい。」

「モロは、モロはどうした。」

「我らの長と話すなら、山犬も一族の長を連れてこい。」

モロと乙事主について、事の次第を知らないようであった。

「モロは…モロはもういない。今は私が我ら山犬一族の長だ。だから、猩猩一族の長に会わせて。」

努めて冷静にそう言ったサンの言葉も、猩猩達の耳には途中までしか入らなかった。

「モロが死んだ! 山犬の長が死んだ!」

「モロ一族は終わりだ! ナゴもいない! シシ神様いない! この森守る者もういない!」

「なぜこうなった。」

「お前らのせいだ。お前らがこの破滅招いた!」

「我らの棲む森、もうここしかない。このちっぽけな森で生きていくしかない。」

騒ぎ立てる猩猩達を前に、サンはもう一度繰り返す。

「お願い、あなた達の長に会わせて。長はどこに?」

しかし、彼らは喚くばかりでサンの言うことなど聞いてはいなかった。状況を見かねたのか、山犬兄弟の一頭がサンに近寄る。

「サン、俺があの猿どもを黙らせてやろうか。」

傍らで唸る兄弟に向け、サンは「待って。」と言うほかなかった。

「出ていけ。」

「山犬の居場所、ここにはない。出ていけ。」

次第に興奮していく猩猩達。ついには木の枝や石ころを手に取り、サンや兄弟達へと向かって投げつけ始めるのだった。

「相変わらず無礼な奴らだ! 今度こそ貴様らのその首、一つ残らず噛み砕いてやろう!」

唸った兄弟が堪えきれず、まさにいま跳びかかろうとしたその時だった。

「静まれ。皆、静まれ。」

騒ぐ猩猩達の背後から、ひときわ野太く、おどろおどろしい声が聞こえてきた。

低くも威厳あるその一声に、猩猩達はすぐに静まりかえった。

「我が一族よ、何を騒いでおるのだ。」

群衆を掻き分け、一頭の猩猩が近づいてくる。先程まで興奮しきっていた猩猩達は一転、口を閉ざして脇へ寄り、その猩猩のために道を開ける。

 山犬一族の前に姿を現したのは、全身が灰色の毛で覆われた一頭の老いた猩猩だった。身体の大きさは他と変わりないが、周りの猩猩が黒に近い焦げ茶の毛並みであるのに対し、その猩猩の毛は老け、褪せた灰色であったためとても目立っていた。乙事主などに劣らず非常に高齢であるのだろう。背は丸く、顔には数多くのしわが刻まれていた。

「お久しぶりです。長。」

姿を見せた猩猩一族の長を前に、サンが敬意をもって挨拶する。

「お元気そうで。」

そう言葉をかけるサンを目にし、猩猩の長は少し驚いた様子で答える。

「主(ぬし)はもしや、モロのところの…。」

「サンです。…嬉しい。憶えておいでのようで。」

「大きくなったものだ…。以前に会ったのは、まだ主が言葉も話せなんだ頃よ。」

「はい。母からその時の話は聞いています。」

「モロのやつ、主を口にくわえて連れて来よったわ。『新しい我が娘だ』と。わしはえらく驚いてな、『モロ、主もついに呆(ぼ)けたか』と言ったものよ。」

長は控えめに、ふっふっふっと笑った。サンもここへ来て初めて頬を緩める。

「可笑しな話です。」

挨拶代わりの昔話を経たところで、長は周りの猩猩達、そしてサンと兄弟達に語り掛ける。

「皆の者、ここにおるサンは、わしの旧知の仲であるモロの娘だ。皆も知っているであろう。穏やかに迎え入れよ。…サンとその兄弟達よ。我が一族の無礼をどうか許してやって欲しい。」

長の言葉に、サンは「気にしていません。長も、何もお気になさらずに。」と答えた。

「さて、サンよ。主が一族の縄張りを離れてまでして、どうして遠く離れたこの場所を訪れたのか、訳を聞こうではないか。」

「はい。」

サンは少しの間を開けると、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。

「母…モロが、シシ神様から死を与えられました。」

「モロがシシ神に…。やはりな。」

長はすでに全てを理解しているようだった。彼女の話を動揺もなく受け入れた。

「あやつは十分に生きた。モロだけではない。あの乙事主も死んだと聞く…。このわしももう、それほど長くはないであろう。」

「長…。」

「主がここへきたのは、モロの死を伝えるためか?」

「いえ、それだけではありません。…もう一つ、お話が。」

「聞こうではないか。」

「長に、お願いがあります。」

「願い? …それは何かな?」

「猩猩一族にも、もう一度この森を、新たに生まれ変わったこの森を、一から育てて欲しいのです。私達と共に。」

「うむぅ…。」

長は、腹に響くような深い溜息をついた。サンの言葉に理解を示していることに間違いはなかったが、そこには大きな迷いと困惑の念が確かに感じられた。

サンは続ける。

「シシ神様がいなくなってから、あなた方猩猩一族が、生まれ変わったかつての森を歩いている姿を、私は一度も見ていません。この、残ったわずかな森に集まり、籠って出てこない。木々の成長を見守り、助けるというかつての猩猩の姿が見られなくなった…と、森の生き物達も囁いています。どうか、ここから出てきて、また木を植え、育て、森を蘇らせてください。それが、あなた達『森の賢者』のあるべき姿のはず…。」

『森の賢者』…。この地の猩猩達は、シシ神の森においてそのように呼ばれていた。それは、彼らがもつ知識と知恵の現れでもある。

 かつて、人間がこの地にやってくるより以前には、彼らは森の草木を愛(め)で、自らの生きる森の健やかな成長を助けるために知識を蓄えていた。しかしそれは、決して森における彼らの責務でも役割でもなく、ただ単純に彼ら自身の意思で彼ら自身のために行ってきたことであったのだ。ところが、人間がこの地にやってきてからは、そういった彼らの行動の意味合いが変わりつつあった。つまりは、人間の活動によって自然界での再生が追い付かないほどに急激に失われた緑を、彼らの知識と行動によって回復させるという、より重大な意味を伴なってしまったということだ。森に生きる獣達の中に、その役割を担える知識と知恵、そして器用さを併せ持つ者は彼らの他に存在し得なかった。結果、それまで彼ら自身のためにしてきたことが、今となっては森全体のための責務となってしまった。

 彼らには樹木や草花の知識や器用さが備わっていた一方、人間に対して自らの身を守る手段を持ってはいなかった。

 そこで、猩猩達のそんな働きを支えようと動いたのが、山犬のモロ一族…とりわけサンであった。

 モロは、どちらかといえばそれほど猩猩達の働きに関心を持っていなかった。モロ自身は、この地から人間達を追い出すのが先という考えでもあったのだろう。確かに、いくら猩猩が木を植えたところで、鉄の産出に邪魔なそれらは人間の手によってあっという間に取り除かれてしまっていた。モロはそれを見抜き、さらには踏鞴場の頭領たるエボシ一人を殺せば、この地から人間を追い払うことができるだろうと読んでいた。モロにしてみれば、一度人間を追い出せば、そのあとにはまた勝手に樹木が育つだろうという考えだったのかもしれない。

 なにも、森の回復を手助けすることに興味がなかったのはモロだけではない。森に潜むシシ神でさえ、猩猩達を助けるようなことはせず…生死を司る神であって森の守り神ではないシシ神にとっては、それはある意味当然ではあったが…この地の猪達を率いるナゴの守に至っては、猩猩達の動きとは無縁のまま人間に攻撃を仕掛け、結果、人間によって放たれた炎によってむしろ森の消失が一気に拡大するような始末であった。

 森の獣達は、決して一つではなかった。人界からしてみれば同じ一つの意思の下で動いているように見えるもののけ達は、実際にはそれぞれが己の思うがままに行動しているに過ぎず、各一族はばらばらであったのだ。

 しかし、サンの考えは少し違った。乙事主や猩猩達への言動に見られるように、彼女は少なくとも人間達に対しては森の各一族が互いに支えあい、手を取り合い行動することを望んでいた。そうでなければ人間に対抗することはできないと思っていたのだろう。だからこそ彼女は、他の森の獣達とは異なり、人間を追い出すために動くと同時に、猩猩達の働きも共に支えようとした。サンは兄弟と共に、植えられた幼木を引き抜こうとする人間を襲ったり、時には木を植える猩猩達の守り手として、その傍らで見張りをすることもあった。

 そんなサンが、ついに森を愛で、育てることを諦めてしまった『森の賢者』達を説得するため、自らの縄張りを抜けてまで長のもとを訪れ、懇請(こんせい)しているのだ。

 長は彼女の言葉に大きく、ゆっくりと頷く。だが、その眉間にはより一層のしわが集まり、迷いと戸惑いが見て取れた。

長が口を開く。

「樹は、我々が植えずとも芽吹くのだ。種(たね)からはもちろん、ものによっては切り倒されたあとの根株からでさえ、その生命力が失われない限りは何度でも芽を出すのだよ。森は、主が思っているほど弱くはない。」

「でも、すべての樹がそうやって再び芽生えるわけではありません。私にはそれ位のことしか分かりませんが…。それに、これから先も人間達が栄えていくことを思えば、森の木々の力だけでは…実が落ち、土に根を張り、芽吹き育つのをただ待つだけでは、森の成長は間に合わないかもしれない…。それは、あなた方自身がよくご存じのはずです。だからこそ、あなた達は人間の度重なる邪魔にも負けず、ずっと木を植えてきた。」

長は、じっと耳を傾け、彼女の話を聞いていた。

「うむぅ…。」

再び、腹の底から響き渡る溜息。困惑の眼差しでサンを見つめ返す長は、彼女に穏やかに語り掛ける。

「…サンよ、主の言う通りだ。それは、我が一族の皆が理解しておる。今に始まったことではないのだ、人間達との関係は。だからこそ、主も知っているであろう。我々がどんなに森の回復を手伝おうと樹を植えても、それをあそこにいる人間共は皆駄目にしてしまう。一族の者を危険にさらし、再び植えたところで同じことの繰り返しなのだ。何度も、何度もな。」

長の口から出てくる言葉の一つ一つには、大きな疲れと諦めが滲み出ていた。

「終(しま)いには、人間共を喰らって奴らの力を得、その力で奴らをこの地から追い払おうとする馬鹿者まで出てきおったわ。」

「そんなことをしても、人間の力は手に入りません。」

「うむ。その通りだ。…だが、そう言いたくなるこの者達の想いも分からなくはない。人間共がこの地へやって来てからというもの、我らが今までしてきたことは何一つ、実を結んでおらぬのだからな。」

長の言うことは事実であり、サンにそれを否定することはできなかった。だが、だからといってここで退くわけにはいかない。

「今、この地にはシシ神様が残してくれた新たな草木があります。あの時、シシ神様は過去の大きな森の命をも奪ってしまいました…。でも、その跡にはたくさんの新たな芽を残したのです。それはきっと、私達森に生きる者達に、もう一度一から森を育て、守っていくようにとのシシ神様からの言伝(ことづて)だったのだと思うのです。」

彼女は、高齢の長にも伝わるよう、ゆっくりと話しを続けていく。

「長を含め、ここにいる私達は皆、太古から続いてきたシシ神様の森で生まれ育ちました。生まれた頃にはもうすでに、大きく深い森がそこにあったのです。それは、ある意味とても幸運なことだったのかもしれません…。木々を植え、芽や幼木を守り、育てる必要など無かったのですから…。」

長は静かにサンの話を聞いている。

「私達はそんな森に生まれ、食べる物や寝床に恵まれて育ってきました。…でも、これから生まれてくるあなた方の子供達は、そうではないかもしれない。もしも今、私達が何もしないことで、森が人間達の勢いに負け、うまく育っていかなければ、これから生まれてくる森の生き物達は、生まれながらにして大変な立場に追いやられてしまいます…。私達は何も苦労せずして、居心地の良い森で生まれ育ってきた一方で、これから生まれる赤子達は何も悪くないのにも関わらず、弱弱しくやつれた、食べる物も寝床も少ないこの地で生きていくしかなくなってしまうかもしれないのです。」

サンは畳みかける。

「確かにこの場所には、過去の森が少しだけ残っています…。でも、あなた方猩猩一族の皆を養えるだけの広さがここにはないということは、長も一族の皆も分かっているはずです。このままこの場所に居座り続ければ、猩猩一族は数を減らし、弱っていくばかり…。だからこそ、一族のためにも、森の他の獣達のためにも、これから生まれてくる命を思えば、シシ神様が残した新たな芽を絶やさずに、守り育てていくことこそ大切なはず。…それこそが、私達森に生きる者達にとって、次の世に、次の代に繋がる道なのですから。」

今の彼女にとって、これが精一杯の説得だった。自らの思いを言い終え、正面から長を見据え、反応を伺う。

その長はといえば、眉間のしわを一層濃く寄せ、目を閉じてしばらくのあいだ考え込む。

「うむぅ…。」

この日、三度目の深い溜息。サンは黙って返事を待つ。

彼女の傍らに控える山犬や、辺りの樹上に居並ぶ猩猩達の皆が、長の様子を伺い、答えを待っていた。

そして、閉じていた瞼を開き、ついに長が再びその口を開く。

「…主の言う通りかもしれん。」

まず一言、答えた。すると長は参ったとばかりに、長い手で頭を掻きながら、間を開けずに言う。

「まさか、あの小さく、言葉もしゃべれなかった主の口から、このようなことを言われるとはな…。思いもよらなんだわ。」

長の様子に、サンはほっとしたように息をつき、胸を撫でおろす。

長は、今度は一族の首領として、丸まっていた背を正し、威厳をもった声音ではっきりと宣言する。

「いいだろう。我ら猩猩一族はこの地に肥沃な森を取り戻すため、まだ見ぬ森の赤子達のため、もう一度、森の再生を手助けしようではないか。」

長は、居並ぶ一族の者達へと向き直り、高らかに宣言する。

「皆の者、話は終わりだ! これより我ら一族は、シシ神の遺した新たな木々の成長を助けるために生きていく。この狭い森には別れを告げよ!」

長の呼びかけに、猩猩達は枝を揺らし、雄叫びを上げて応じる。

「…サンよ。シシ神と森を同時に失い、路頭に迷っていた我が一族に再び使命を与えてくれたこと、礼を言おうではないか。」

長は再び彼女に向き直ると、そう言って感謝を述べた。

「モロがいなくなった今、主が一族の長だ。サン一族のな。」

「はい。」

「主なら、きっとうまくやっていけよう。」

「感謝します。」

「感謝などいらぬ。森に生きる各一族はそのような関係ではない。主ももう立派な一族の長なのだという自覚をもつのだ。よいかな。」

サンは頷き、今度は「ありがとう。」と言って、長の忠告に敬意を表した。

「さて、これから忙しくなる。この地に芽吹いた新たな草木は、あまりにも多い…。他に用がなければ、我らはこれで失礼するとしよう。」

「この先も、猩猩一族の繁栄を祈る。」

サンは、自らの一族の長として、猩猩一族の長にそう言って別れを告げた。

長もそれに答える。

「主に会えて良かった。また、この広い地のどこかで会おう。」

長がのそりと歩き出すと、お付きの猩猩がすぐにその肩を取り、高齢の長が歩く手助けをする。同時に、一族の者達が皆一斉に動き出す。

 僅かに生き残った過去の小さな狭い森を離れるため、ガサガサと大きな音を立てながら群れをなして大移動を始める猩猩達。夜も近づく夕闇の下、サン一族はそんな猩猩達の黒い影を背に、自らの縄張りへの帰路につく。

 この時、山犬の背に揺られるサンの表情は、ほんの少しではあるものの、また少し明るいものになっていた。

 人界が一歩一歩復興への道を歩んでいるように、森もまたゆっくりと、しかし着実に、元あった姿へと戻るために前へ進んでいた。


 一夜が明けた。

 ところ変わって、再びシシ神の地から遠く離れた人里にある町。簡素な宿にて、またこの日も早くから質素な朝飯を取ったアシタカと、牛飼いをはじめとする男衆。早朝に飯を食べ終え、近くの小川で用を足し、支度を整え次第、エボシ達の待つ問屋まで急いだ。

 牛とヤックルの二頭を近所の借り牛舎に迎えに行った者達を除き、他の男衆は昨日の問屋前に集合する。彼らが店先に到着した頃、ちょうど屋敷の中からエボシとゴンザ、お供の女が出てきたところだった。

「おはようございます。エボシ様。」

牛飼い衆が彼女に挨拶する。エボシはそれに応え、男達の体調を気遣う。

「皆、疲れはとれたか。これまでとは違い、牛一頭と赤獅子しかおらぬ中で、ほとんど人の力に頼ってしまった…。帰りは馬借を頼もうかと思っている。さすがに登りは体に堪えるだろうからな。」

彼女の考えに、牛飼いをはじめとする男達は安心した様子で「助かります。」、「良かった。帰りはどうなるかと思ってました。」とそれぞれ感謝を口にする。

これ見よがしに、エボシの脇に控えるゴンザが男衆に向けて呼びかける。

「貴重な銭を使ってまでして運び手を雇うんだ。エボシ様に感謝しろ!」

「だから、感謝してるじゃねぇか。」

男達の中の一人が、小声で囁く声が聞こえた。ゴンザがすかさず「何ぃ!?」と声の主を探そうとしたところで、問屋から店の主人が顔を覗かせる。

「何事でございますか。何か問題でも?」

迷惑そうな表情の主人に、エボシは言う。

「いや、何でもない。…ゴンザ、まだ明け方だ。あまり目立つな。それと主人、運び手を頼んではくれぬか。」

「運び手ですな。仰せの通りに。…おい、馬借連中を。」

問屋の主人は、さっそく使用人に指示を出し、店の中へと戻っていった。

エボシに軽く釘を刺されたゴンザは、納得いかないのと同時にどこかしゅんとした表情で口を閉ざす。大男のそんな様子を目にした牛飼い達は、くすくすと笑っているのだった。

「エボシ、ものはどうだった。良い商(あきな)いができたのか?」

ゴンザを笑う牛飼い達を脇目に、アシタカが一歩前に出てエボシに尋ねた。

エボシは満足げに口を開く。

「鉄は思っていたより値が悪かった。まぁ、あの程度の物であれば仕方があるまい…。かき集めた侍どもの武具などは話にならん値だ。だが案ずるな。悪い話ばかりではない。石火矢は良い値がついた。石火矢衆の用いていた明国のものも良かったが、我らが創り出した新式の石火矢は、この日ノ本でも貴重な品としてかなりの値で売れた。」

「そうか。…皮肉なものだ。」

「食べるものには当面苦労しないだろう。米やら何やら何分荷が多くなる。そこで今言ったように運び手を頼むことにした。山を登るのに牛一頭とそなたの赤獅子だけでは荷が多すぎる。山下りとはわけが違うからな。」

「いつここを発つ? あまり遅くなっては山道が心配だ。」

帰路を気にする彼に、エボシは事情を説明する。

「そう焦るな。私とゴンザは何人か連れて、これから食糧の買い付けに回る。それから品が集まり、馬借共が揃い、支払いを終え、すべての荷支度が整うまでにはまだしばらくかかる。仕方がなかろう。すまぬが赤獅子も借りていく。そなたは出立まで何をしていても構わん。町でも見て回ったらどうだ。もの珍しかろう。」

そう言われたアシタカは、問屋のある表通りを見回す。宿を出た頃にはまだ朝も早く、人通りも少なかったが、日が昇り始めた今では雰囲気も変わり、多くの人々が出歩いていた。

「…そうだな。踏鞴場もそうだったが、ここは私のいた里とは何もかも異なる…。本当に賑やかだ。」

「一刻(いっとき)ほど経ったら...と言っても、そなたには分からぬか。…そうだな、陽が昇りきる前にはここに戻ってこい。」

アシタカが頷く。

「ヤックルを頼む。」

彼は牛飼い衆にそう言い残し、町の見物に出掛けるのだった。


 アシタカは誰も連れることなく、一人で街道を見て回った。町の通りには、その日採れたばかりの野菜や生鮮魚など食糧を扱う店、焼き魚や焼き餅、粥などを店先で食べさせる店、木や蔓を用いて作られた生活用品を置く職人の店、庶民向けの織物屋、鍛冶屋、酒屋、宿屋など等、大小数々の店が立ち並ぶ。それだけではない。これまで彼が目にしたことのない奇妙な大道芸までもが路上で披露されていた。老若男女、行き交う人々。通りを行く人々の会話や、その一人一人に声をかける商人達の喧騒。油の滴る魚を焼き上げるジュウジュウという音。あちこちの店先から漂う、腹が鳴りそうな程に香ばしい香り。忙しそうに通りを駆けていく行商や、牛を引いた荷役の人々。故郷である蝦夷の里を出てからというもの、可能な限り人の集まる町を避けてきたアシタカにとって、これほどに発展した賑やかな町を見るのは、シシ神の一件を迎える前の踏鞴場を初めて訪れたあの日以来のことであった。

 特にこれといった目的も無く、ゆったりと通りを歩いていると、何となしに一風変わった物売りの姿が彼の目にとまった。通りの片隅で、藁菰(わらこも)を地べたに敷き、そこに胡坐をかく一人の男。男の眼前には使い古された汚い布が敷かれ、その上には男の作った品なのか、アシタカにとってどこか懐かしい工芸品が並べられていた。

 この町にある数多くの売り物にもあまり興味を示さなかった彼が、珍しく足を止め、通りを行き交う人々からは全く相手にされていないその物売りのもとへ立ち寄る。物売りの男も彼に気が付いたのか、珍しくやってきた客に少し驚いたように、まじまじとアシタカのことを凝視する。そんな物売りにはお構いなく、アシタカは並べられた工芸品の前にしゃがみこむと、数々の品に興味深そうに見入る。

 布の上に並べられているのは、獣の角や爪、骨を加工して作られた小物だった。首飾りや耳飾り等の装飾品、細かい紋様を彫った繊細な彫刻品だ。

「これは熊の爪か?」

アシタカが首飾りの一つを手に取り、男に尋ねた。じっとアシタカの出方を伺っていた男が答える。

「あぁ、そうだよ。奇麗だろ?」

よく磨かれた熊の爪が一つ、紐に通されている。作りは簡単なものであったが、それだけではなく、飾りとなる爪には一面に紋様が彫られていた。繊細で美しい彫刻だった。

「美しい紋様だ…。自分で削ったのか?」

「そうさ。細工が大変なんだ。他にもあるぜ。」

そう言った男は少し嬉しそうに品を見せる。アシタカは熊の爪の首飾りを元の位置に置くと、他の品々にも興味をもつ。

「どれも里の皆が喜びそうなものばかりだ…。私が生まれ育った地でも、熊の爪や鹿の角を削って首飾りや耳飾りにしたものだ。」

「そうかい、そりゃあ嬉しいや。俺はいろんな町で売り歩いてるけど、ここみたいなお高い奴らの多い町はあんまり反応が良くなくてな。獣の身体を使った飾りなんか、おどろおどろしくて田舎の物だと避けられちまうんだよ…。兄さんはどこの出なんだい? あんまり見慣れない格好してるよな。」

「東と北の間にある、遠く離れた山の地だ。…だが、もう戻ることはない。」

「へぇ…。ま、いろいろあるよな。どうだい一つ。故郷を思い出すのにちょうどいいじゃねぇか。今なら負けてやるよ。」

アシタカは一瞬迷う素振りを見せるが、すぐに申し訳なさそうに口を開く。

「…いや、すまない。今はいろいろと大変な時なんだ。また出直してくる。」

物売りの男は、せっかくの客を目の前にあくまでも食い下がる。

「そう言わずにさ。あんた嫁さんはいるのかい? 好きな娘っ子は? 贈り物にもいいと思うぜ。」

「そうだろうか。だが……」

「いやぁ、それはどうかのう。こやつの女は人間の作った物を好まんでな。」

アシタカが何か言いかけたところで、突然、彼の背後から聞き覚えのある男の声がした。

アシタカは驚き振り返る。

「あなたは…!」

見ると、そこに立っていたのはジコ坊だった。シシ神の一件で石火矢衆や唐傘連を率いていたあの小男だ。何があったか、そこに立つ彼は以前のような僧の出で立ちではなく、乞食の姿をしていた。見れば、この短い間に小太りであったはずの腹もいくらか引っ込んでいる。今やみすぼらしい恰好であった。

「なんだよ、そりゃ。どういうことだ。」

物売りの男が、客との間に割って入ってきたジコ坊に文句をつけた。

「どうもこうもない。そういうことだ。この少年は拙僧の連れでな。冷やかしをして悪かった。…さ、行くぞ少年。」

ジコ坊は、まるで当たり前のようにアシタカの背中を押し、物売りの男から彼を引き離すのだった。

アシタカはかなり困惑した様子で、されるがままにその場を離れる。

そのまま通りの反対側まで来ると、ジコ坊は「銭も持たん奴が、物売りにその気を見せて面倒なことになったらどうする。えぇ? とても見ておれんわ。」と口にしつつ立ち止まる。そしてアシタカから手を放し、ニタっと笑う。

「いやぁ、それにしても、かような場所で出くわすとはな。お主とは何かと縁があるのかもしれん。」

見た目こそ多少変わってはいたものの、そのあっけらかんとした口調は変わっていなかった。

アシタカは用心して周囲を見回すと、険しい面持ちでジコ坊と向き合う。

「いやはや、そう恐い顔をするな。今や拙僧も師匠連とは無縁となった。この期に及びそのような顔をする道理もないであろう。」

その大きな丸顔をニッとさせるジコ坊。一方のアシタカは、かつてシシ神の首を狙った男を前に警戒心を露わにしている。

「なぜあなたがここに。」

「話せば長いものよ…。立ち話もしんどい。どうだ、寄っていかんか。飯でも食っていくがいい。大したものはないが。」

「いえ、その必要はありません。今朝方宿で食べてきました。」

「まぁそう言うな。このような世の中だ。飯など何度食べてもよいではないか。食える時に食わねば、次があるという保証はないぞ。えぇ? それとも、急ぎの用でもあるのか? そうは見えぬがな。」

「ありませんが…。」

嘘をつくわけでもなく、シシ神の首を狙った男の突然の誘いに困惑した様子のアシタカ。ジコ坊は再びニッとして畳みかける。

「ならば何も迷うことはあるまい。…こっちだ。」

そう言ってさっさと歩きだすジコ坊に、アシタカも従う他ないのだった。


「ここだ。何、遠慮せずともよいわ。入れ。わしは水を汲んでくる。」

ジコ坊がアシタカを連れてやってきたのは、町の外れを流れる川の河原だった。

 広い河原にはたくさんの掘っ立て小屋があり、どうやらその一つ一つに浪人や浮浪者が住んでいるようだ。ジコ坊の小屋は、長い木の枝を円錐状に立て、その天辺(てっぺん)を縄で縛り、周りを木の皮や藁で覆ったそれなりの物で、他の小屋と比べればまだましな出来ではあった。

 ジコ坊は、見るも狭い小屋の中から手つきの古びた木桶を持ち出し、「中で待っておれ。」と言い残して川辺へ行ってしまった。

アシタカは仕方がなく小屋を覗き込む。

 小屋の中は、見た目よりも存外広い…わけはなく、外観からの想像を全く裏切ることなく見事に狭かった。立ち歩くことはできず、腰を屈(かが)めなければ中を動くこともままならない。とはいえ、大人二人が火を挟んで何とか座れるだけの広さをかろうじて確保していた。中央には焚火の跡があり、その上に足付の台に乗せた鍋が置かれたままになっている。

 高さが無く、身動きの取りにくい中で何とか腰を落ち着けて小屋の主を待っていると、思いのほか早く家主が戻ってくる。

「狭くて悪いのぉ。」

水の入った木桶を片手に、ジコ坊はどこかおもしろそうに言った。

「こんなぼろ小屋であろうと住めば都よ。野宿を続けるよりはましだ。まぁ、楽にしろ。」

「ありがとうございます。」

礼を返すものの、そう答えたアシタカの頭は、傾斜のある壁に後頭部がぶつかり、傾いている。

客をもてなすため、せっせと飯の支度に入るジコ坊。邪魔をしては申し訳ないところだが、アシタカはどうしても尋ねずにはいられなかった。

「お聞かせ下さい。…なぜ、このような場所にいるのです。あなたには戻ることのできる居場所があったはず…。」

「お主が言っておるのは、唐傘連か、それとも師匠連のことか?」

まさかといった様子でジコ坊は苦笑した。

「お主もおめでたい奴よ。」

火起こしの用意をしながら彼は続ける。

「シシ神の首も、師匠連から与えられたものも全て失った。人も金もな。あの連中は、神殺しの失態の責めを拙僧にどう負わそうかと考えとることだろう。そういう爺さんの集まりなのだ。あそこは。もはや戻るつもりなどない。…いや、戻れぬと言うべきか…。まぁよい。いずれにせよ、のこのこ責めを受けに戻るなど有り得ん。逃げるが勝ちということもある。お主には分からぬだろうがな。」

「そうだったのですか…。」

ジコ坊の話を聞き、アシタカの警戒心は多少薄まったようだ。目の前に座る男の容姿を見れば、彼が今やシシ神の首を狙った組織とは無縁となったという話も信じることができる。面と向かってよく見れば、その四角い顔も以前より痩せこけているように見えた。

アシタカの視線に気が付いたのか、ジコ坊は彼に言う。

「なに、哀れみには及ばぬ。侍であれば腹を切っても足りぬところ、こうして生き長らえておるのだ。どうということはない。」

「これから、あなたはどうしていくつもりでしょうか。かつてあなたが属した人々の庇護がない中、戻るべき場所も無く、飢えや病が恐ろしくはないのですか?」

火打石で火を起こすジコ坊。小さな火花が火口(ほぐち)へと移り、その火種を慎重に付け木へと移す。そこまで終えて彼は口を開く。

「言ったであろう。肝心なことは死に食われぬことだ。…こう見えて、わしはまだ食われてはおらんわ。」

火を焚いたジコ坊は、次に小屋の片隅に置かれている背負い籠をあさりだし、飯の準備にとりかかる。

「この際だ。お主には一つ忠告をしておこう。」

籠の中から米や味噌、椀を取り出しつつ、彼は話を続けた。アシタカは、そんなジコ坊の手際のよい飯支度を眺めながら「なんでしょう。」と尋ねた。

「…師匠連だ。」

手を止め、深刻な顔つきでジコ坊が言った。それもつかの間、すぐにまた手を動かし始める。

「師匠連…。エボシ踏鞴を利用し、森の獣達を殺してシシ神の首を狙った人々のことですね。あなたとはもう関係がないとおっしゃっていました。」

「拙僧とはな。だがお主らは別だ。」

「…分かりません。シシ神はもう私たちの手の届かないものとなったはず…。」

「もっとも。お主の言う通り、もはやシシ神の首は失われた。…だが、あの地に眠る膨大な砂鉄は失われてはおらん。」

「鉄…。」

「そうだ。…なんとも、鉄とは価値あるものよ。それ故に災いの元となる。師匠連は、神殺しに費やした金と人を取り戻そうと躍起になっておる。苦労して手に入れた帝(みかど)からの神殺しの許可証もふいにし、天朝からの信頼も地に落ちた…。そこでだ。シシ神の首を獲り損ね、契約を違(たが)えたエボシへの見せしめも兼ね、あの地を奪おうとしておるようだ。そうなれば、どれほどエボシ踏鞴の女達が勇ましかろうと、生き残った者達だけでは、かの地から師匠連を追い払うことはできんだろう…。」

 ジコ坊の言うことはもっともなことであった。踏鞴場とシシ神の森において、デイダラボッチの消滅がすなわち人間にとってのその地の価値の消失とはならず、決して両者は同義ではない。師匠連をはじめとする多くの人間がその欲を捨てたわけでもないのであれば、当然のこととして踏鞴場、そしてシシ神の森には未だ危険が迫っていることに変わりはないのだ。ましてや天朝との繋がりの深い師匠連は、その潤沢な資金と人員からくる武力をもってすれば、今の踏鞴場を奪うことに躊躇はないだろう。そもそも、彼らにしてみれば、エボシがあの場所に大踏鞴を中心とした大規模な集落を築き上げることができたのは、師匠連からの資金や人員の貸与があったからこそであり、踏鞴場をエボシから取り上げ、彼らの手中に収めるというのは、『奪う』のではなくむしろ『取り戻す』と表現したほうが正しいのかもしれない。もちろん、踏鞴場建築の費用は、エボシがその手を汚して神の首を提供するという約束のもと彼女に与えられたものではあるが、ジコ坊の言う通り、契約が履行されなかった以上は金を返すのが道理だという師匠連の考えも、しごく真っ当なものではあった。

 軽くといだ米を鍋に移し、水を流し込むジコ坊。控えめに燃えていた焚火に枝をくべ、炎の勢いを強める。

彼の言葉にじっと耳を傾けていたアシタカ。彼の表情は時が経つにつれて険しいものとなっていた。そんな彼に気がついたのか、ジコ坊は茶化すように言う。

「お、不安になったか? 顔が恐いぞ。…なに、どれも人から聞いた話だ。噂に過ぎんかもしれん。」

「…また、争いとなるのでしょうか…。」

彼は微かに俯いた。

「…もう、この手で人を殺めたくはありません…。」

思った通りの言葉に、ジコ坊は取り出した杓子(しゃくし)でアシタカを指しながら言う。

「そなたはそう言うだろうな。だが相手は違うだろう。何しろ神さえ殺す輩だ。そのような連中相手に争いとなった時、それでもそなたは同じことが言えるか…?」

「争いとなれば…その時は戦います。しかしもう誰も殺めはしません。」

「殺さずに戦えると思うか。」

「そうでなければなりません。」

「殺さずにことが済むというのなら、人は皆そうしておる。相手は鬼や化け物、ましてや人形や鉄の塊でもない。感情や痛みのある紛れもない生身の人間だ。夢物語のように、人を喰らう化け物や感情も痛みも無い人形が相手であれば、それらを殺して正義の教えを語ることにも容易に筋を通すことができようが、そのような都合の良い『戦い』で描かれる義はこの世では何の役にもたたん。現世で相まみえる敵とは、自らと同じ人間なのだ。」

ジコ坊は杓子で鍋をゆっくりとかき回しながらそう語った。アシタカは、その澄んだ瞳でジコ坊を見返し、凛として答える。

「だからこそ、人と人の争いであるからこそ、刃を抜くことなく収めたいのです。それもまた戦いなのではないでしょうか。」

ジコ坊もまた、アシタカをじっと見据えて言葉を返す。

「この戦乱の世において、『戦う』とは相手を力で制すること…殺すことだ。それが何かを守るためであろうとやっていることに変わりは無い。そなたにはそれが見えておらん。人を殺めることも受け入れられぬ者が、たやすく誰ぞを守るために戦うなどと言うものではないぞ。」

鍋をかき回しつつ話を続ける。

「無論、お主の考えも分からないではない。この乱世の理(ことわり)を受け入れたからとはいえ、何かを守るために何の躊躇(ためら)いもなく相手を殺すようになってしまっては、それこそ恐ろしいことだ。…だがな、そうは言っても一旦戦(いくさ)となれば殺るか殺られるかだ。殺られたくなければ殺るしかない。」

「そのようなことはあってはなりません。だからこそ戦となる前に……」

ジコ坊が遮る。

「分かっておる。分かっておるわ。…何度も同じことを言うな。お主の言いたいことはよく分かっておる。」

彼は味噌を手に取り、箸で割って杓子に乗せる。そのまま鍋に入れ、杓子の上で味噌を溶く。

「お主はそのままでよい。それでよいのだ。自らの思いを自らのものとして抱き、変わる必要などない。…ただな、己と異なる考えを抱いておる者もこの世には多くいるということを忘れてはならん。よいな。絶対的な正しさなどないこの世において、お主の考えていることはまだ立派なものなのかもしれん。しかし、それが皆にとってそうだとは限らんのだ。お主らと相対(あいたい)する目的を持つ輩(やから)など、世の中にいくらでもおる。現(げん)に、踏鞴場は森のもののけ達だけでなく、アサノ公方や地侍、下流の村や師匠連をも敵に回しておるではないか。そこでいくらお主が争いを避けるために自らの理想を語ろうと、奴らには何も響かぬであろう。」

味噌溶きの後、杓子でしばらく鍋をかき回す。

アシタカが言葉を返す。

「今までは確かにそうでした。踏鞴場は…エボシは、あまりにも周りを見ていなかった…。しかし、今は違います。エボシも、そして踏鞴場の皆も、もう踏鞴は建てないと、よい村にしようと、語り合っているのです。そして、そのために皆が懸命に働いています。」

彼の口から語られたエボシと踏鞴場の変化に、ジコ坊は少し驚いたようだった。

「ほぉう…。あのエボシがのぉ…。」

「はい。…踏鞴場が変われば、周りの者達の中には私達に対する考えを変える者も出てくるのではないでしょうか。…もちろん、そのためにもまずは踏鞴場が変わらなければなりません。言葉だけではなく、皆の行動で示さなければならないでしょう…。」

「…なるほど、お主があの地に留まったのはそのためか。」

「…それだけではありませんが…。」

アシタカは僅かに視線を逸らす。その表情にジコ坊は「ふむ、それ以上は聞かんぞ。心当たりの無いわけではないがな。」とだけ言った。

ジコ坊はその手を止めることなく、再び口を開く。

「口先だけでなく、お主にもお主なりの考えがあるというのはよぉく分かった。だが、やはりこれだけはもう一度言わせてもらおう。…師匠連には用心するのだ。他の者達がどうであろうと、奴らだけはお主らがどう変わろうとも利害が一致することはないであろう。」

「…胸に、留めておきます。」

「うむ。…さぁて、味はどうかの?」

明るく言い放ち、ジコ坊は杓子で味噌粥の味見をする。

「うぅん…うまい。」

笑みを浮かべ、満足そうに言うと、彼は椀の一つにたっぷり粥を注ぎ、箸と共にアシタカに差し出した。

「ささ、せっかくの飯だ。冷めぬうちに食え。」

「ありがとうございます。」

礼を述べ、アシタカは椀と箸を受け取るのだった。


 しばしの間、飯を共にした二人。ジコ坊は、この辺りの町や隣の浪人達の話をアシタカにしつつ、きれいに鍋の粥を平らげた。食べ終えた後には、この町を知らないアシタカを元いた表通りまで連れていき、見送るのだった。

 別れ際、「貴重な食べ物をご馳走していただき、ありがとうございました。…ご忠告、肝に銘じておきます。」とアシタカが礼を言うと、ジコ坊は毎度のごとくニタっと笑みを浮かべ、「なぁに、構わん。大した飯でもなかったろう。」と答えた。そして今度は一転、珍しく真面目な顔をして、「拙僧もいつまでここにいるかは分からぬが、またこの町へ降りてくることがあれば、その時は覗いていくがよい。」と気さくに声をかけるのだった。


 掘っ立て小屋を後にしたアシタカは、荷造り中であろうエボシ達がいるはずの大問屋に戻った。

「遅かったではないか。何かあったのか。」

皆よりだいぶ遅れて問屋前にやって来たアシタカに、開口一番エボシが尋ねた。アシタカが着いた頃にはもう既に荷支度が整い、彼を待つのみのなっていたようだ。

「いや、何でもない。遅くなってすまなかった。」

彼は、ジコ坊のことについては何も話さなかった。

「旦那、どこ行ってたんですかい?」

甲六がそっと彼に近づき、小声で尋ねた。

「少し町の人と話をしていた。飯まで食べさせてもらってしまったよ。」

「そりゃあ羨ましいや。」

甲六は心底そのように思っているようだ。隣にいた牛飼いのお頭も、二人の会話を聞いて話に入ってくる。

「旦那はここらじゃ見ない格好してっから、面白がられるんですよ。」

「そのようだ。」

「でも、よかったですぜ。あんまり旦那が来るの遅いから、みんなで『朝から女遊びに目覚めちまったんじゃねぇか?』って話していんたんすよぉ。」

からかい気味に言う甲六に、アシタカもさすがにハッハッと笑い、「まさか、そんなことはない。」と可笑しそうに言う。

「分かんないですぜ? 旦那、純粋だからそういう店の誘いに乗ってっちまうかもしれないですからね。気を付けた方がいいですぜ。」

甲六がニヤニヤしながらアシタカに言った。すると、お頭を筆頭に周りにいる牛飼い達が一斉に彼を叩きに入る。

「馬鹿言え! 誰よりもお前が一番その手の店の口車に乗せられて釣られるくせに!」

「金が無ぇってバレる度に店から叩き出されてんのはどこの誰だ!」

盛大にひんしゅくを買う甲六。

「そ、そんなの、お前らだっておんなじじゃねぇか!」

「違うな。俺たちはお前と違って遊びもほどほどにしてんだ。わきまえてんだよ!」

「その通り。あんまり調子のいいことばっか言ってると、全部トキにバラしちまうぞ!」

トキの名が出た途端に、甲六の顔が引きつる。

「あぁー! 分かった、分かったよ! それだけは堪忍! 堪忍!」

「まったく。何言ってやがんだ、こいつは。」

お頭が呆れて首を振る。

「いいんだ。…ありがとう、甲六。肝に銘じておくよ。」

牛飼い衆による止まない糾弾に流石に同情したのか、アシタカは優しく甲六に語り掛けたのだった。

「そう言ってくれるのは、旦那だけですぜ…あれ?」

ふと、甲六が空を仰ぎ見る。

「どうした?」

お頭が聞くと、甲六は「水が...」と言って額(ひたい)に触れた。

「…降ってきやがったな。」

お頭の言葉に、アシタカを含め皆が空を見上げる。

遥か上空では、西方からどんよりとした灰色の雲が次々流れ込んできていた。それまでの青空はあっという間に曇天に覆い隠され、お天道様が姿を消した町は、昼間にも関わらず次第に暗くなっていく。

ぽつ、ぽつ...と、雨粒が彼らの足元に落ちてくる。

「...こりゃあ、本降りになりそうだな…。」

甲六がつぶやいた。

一行の出立を前に、雨脚は強くなっていった。


(続く)

Since 11 May 2010
Powered by Webnode
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう