エピローグ
ひんやりとした冷気に澄み渡る、雄大な青空。青天を刺す峰は刃紋のような白雪を頂き、ちらちらと煌(きら)めいている。
人里から遠く、遠く離れた山の奥、肥えたブナの森を、一人の老爺(ろうや)が歩いていた。
杖をつき、葛籠(つづら)を背負っている老爺(ろうや)は、背筋が丸まり、痩せている。頭に被った深い笠は顔の上半分をすっぽりと隠しており、削げた頬(ほお)と角張った顎骨、そして白い髭(ひげ)が、笠の下から覗(のぞ)いていた。
老爺はふんわりとした腐葉土を踏み、森の奥へ、奥へと歩んでいた。
「何者でしょうか。」
ふいに、突きつけるような一声が発し、一人の男が老爺の前に姿を現した。
眉が太い、黒髪の青年であった。青年は老爺の行く手を阻(はば)み、腰の柄(つか)に手を添えている。蕨手刀(わらびてとう)であった。それだけではない。青年の装(よそお)いは、失われた民のそれであった。
「わしは諸国を放浪しておるただの老いぼれじゃて。そう構えなさるな。」
老爺は驚く素振りも見せず、しわがれた声で青年に言った。
「山深いこの地に足を踏み入れる者など、そうはいません。何が目的でしょうか。」
問い詰める青年。老爺は白髭(しろひげ)をいじる。
「ほう。その身なり、蝦夷(えみし)の一族であるな。良いわ、良いわ。」
ふっふと笑う老爺に、若い蝦夷(えみし)は語気を尖らせて返す。
「エミシ…そのような一族は知りません。」
「うむ。で、あろうな。お主らが己の一族を何と呼んでおるのか、わしは知らんでな。」
「問いにお答え下さい。」
間髪(かんぱつ)入れずに問いただす蝦夷の青年。老爺は言う。
「そう気を急(せ)くでない。言った通り、わしは諸国を回っておるのじゃが、ここらにお主ら一族の里があるとの噂を小耳に挟み、一度この目で見てみたいと思って足を運んだまでのこと。いやまぁ、強(し)いて言うならば、持ち合わせのちょっとした品(しな)と、お主らの持つ物とを交換でも出来れば有難いがの。」
「…販人(ひさきびと)、でしょうか。」
若い蝦夷は、自信なさげにつぶやいた。
「うむ、そうじゃな。行商(ぎょうしょう)のようなものよの。見ての通り、侍ではない。刀も持っておらん。」
老爺のつま先から笠まで、なめるように見つめた蝦夷は、蕨手刀(わらびてとう)に添えていた右手を下ろすと、ほっと息をつく。
「ここは狼や熊が多く、老身(ろうしん)一つで歩いていては危ない。里へ案内致しましょう。」
若い蝦夷は老爺に背を向けると、森の奥へと歩き出した。
「そうかそうか。それは助かるのう。」
ふっふと笑いつつ、老爺は蝦夷の青年に付いて行くのであった。
森閑(しんかん)としたブナの森の奥深い山間(やまあい)に、蝦夷の里はあった。
木立(こだち)を抜け、粟(あわ)や稗(ひえ)の段畑(だんばた)を下っていくと、ちょっとした崖(がけ)の下に、もっさりと萱(かや)で葺(ふ)かれた竪穴住居(たてあなじゅうきょ)群が、老爺の目に入ってくる。
「ただ今帰りました!」
里に入るなり、若い蝦夷が叫んだ。人気(ひとけ)が少なく、しんと静まっていた里に、一声はやけに大きく響いていた。
「その者は。」
声と共に、初老の蝦夷が現れた。長い黒髭を蓄えた初老の蝦夷は、若い蝦夷が連れてきた老爺を一瞥(いちべつ)するなり尋ねてきた。唸るような低い声であった。
「販人(ひさきびと)です。」
青年の答えに、初老の蝦夷は額(ひたい)にしわを刻む。
「巫女様を呼んでこい。この者が我らの村に災いをもたらすか否か、見抜いて下さる。」
「はい。」
うなずいた蝦夷の青年は、老爺を残してどこかへ行ってしまった。
「旅のお方。あなた様は、西方よりお越しになられたのですね。」
初老の蝦夷が老爺へと目を光らせる中、巫女は来た。
巫女は紅色や桜色で彩られた衣を身にまとっていた。歳は中年といったところであるが、さぞ美しかったであろう若かりし日の面影を、その横顔と、そして透き通った声音に垣間見せていた。
「これはこれは。さすがは村の巫女といったところかの。おっしゃる通り、わしは西の国から巡り巡ってこの地へとやってきた。」
聞いて、にこりと笑んだ巫女は、遠目によそ者の様子を窺(うかが)っていた民へと呼びかける。
「皆の者、この方は村に災いをもたらすようなお人ではありません。安心して迎え入れましょう。」
巫女の呼びかけを聞くなり、蝦夷の里の民はちらほらと老爺のもとへ集まってきた。とりわけ老爺に興味を示したのは、里の子供たちであった。
「姫様(ひいさま)がおっしゃるなら、悪いことは起きないよね…。」
民の中から、まだ年端もいかぬ男の子と女の子が、おっかなびっくりに老爺のもとへ近付いていった。巫女は、そんな子供たちを優しく諭(さと)す。
「その呼び方はおやめ。私はもうそんな歳じゃないよ。それに、その呼び名は先代に馴染みあるもの。私にはふさわしくない。」
「はい。分かりました、カヤ様。」
子供二人は凛として返事をすると、そうっと老爺の顔をのぞいた。
「外から来た者は珍しいかの。」
「…うん。」
ふっふと笑う老爺に幼子二人はどぎまぎとして、しぼんだ声で答えた。
「そうかそうか。…おぉ、そうじゃ。お主らに良い物をやろう。」
老爺は葛籠(つづら)を降ろし、蓋(ふた)を外すと、何やら中身をごそごそと漁(あさ)る。
「ほれ。」
腰を下ろし、子供二人に差し出した手の平には、獣の爪(つめ)に細やかな紋様を刻んだ首飾りが載っていた。
「すごい。いいの?」
きょとん、として尋ねる娘。
「もちろんよの。ただし、あげるのは一つだけじゃ。二つめからは、何かと交換じゃぞ。」
「ありがとう!」
三度(みたび)、ふっふと笑う老爺。幼子二人とのやり取りを目にして興味を持ったか、周りで距離を取っていた他の民も、そろそろと老爺に近づいていく。
「なかなか良い首飾りじゃないか。他にもあるのか?」
「何となら交換してもらえるのかしら。」
老爺へ話しかける民。老爺は、葛籠(つづら)からぼろぼろの布を取り出し、地べたに広げると、首飾りや耳飾り、腕輪といった品物を並べ出す。
「皆の衆、そう急(せ)かずとも品はある。ゆっくりと品を定めるがよかろうて。」
子供も大人も、蝦夷の里の民は、賑やかに老爺を囲むのであった。
「それでは旅のお方。私はこれにて。」
集まる民を背に、巫女はひっそりと歩き出したが、老爺が気さくに声をかける。
「そう言わずに。ささ、巫女殿もご覧あれ。お気に召す品が…お、あれは――」
老爺の口が止まった。老爺は、里の一角に建つ厩(うまや)に目を取られているようであった。厩(うまや)には、立派な角(つの)を生やした雄(おす)の赤獅子がいる。
「巫女殿、あそこに見えるは、よもや赤獅子かの。」
巫女は、はっとして老爺を振り返った。
「…ご存知で?」
「うむ。遠い西の国で目にしたことがあるわい。あの辺りではなかなか目にすることも叶わぬ珍しい獣であるからのう。よく覚えておる。珍しいといえば、その赤獅子の主の少年も、お主らと似た珍妙な格好をしておったわ。町でもずいぶんと話題になっていたもんじゃ。」
老爺の話に、巫女の瞳が見開いていく。
「少年…? その少年は、どのようなお方でしたか?」
「なかなかに良い顔つきをした好青年とでも言っておこうかの。曇りなき眼(まなこ)で物事を見定め、礼儀を知りながらもまっすぐで、ずうずうしいほど固い意志をも持ち合わせていた。わしをここまで連れてきた若者によう似ておったわ。」
「そうですか…。」
言って、穏やかに笑み、胸を撫(な)でおろしている巫女の眼差しを、老爺はまじまじと見つめていた。その視線は、巫女の黒目の奥底に映し出されているであろう心情の変遷(へんせん)を、興味深くうかがっているようでもある。
「町や村の女たちからたいそうちやほやされておったわ。しかしな、その少年は実直な男ゆえ、ただ一人の少女と生涯共に生きることを選んだのじゃ。それも、深き山中に山犬として生きる少女とな。」
「山犬として生きる少女?」
「うむ。いやなに、聞いた話なのじゃがな、これがまたたいそうな物語なのじゃよ。東と北の間よりやって来た一人の少年と、人に捨てられ、山犬に育てられた一人の少女にまつわる物語じゃ。まあ、今となっては二人共に、とても少年少女とは言えぬまでに歳を重ねておるじゃろうがの。巫女殿とそう歳も離れてはいまいて。」
巫女は胸に両の手の平を重ね、ほっと息をつく。
「今でも、ご健在なのですね。」
「長らく見てはおらんが、きっとな。」
「お二人は幸せに暮らしているのでしょうか?」
老爺は首を傾(かし)げ、うなじをさする。
「さてな、そこまでは分からぬ。じゃが大切なことは、幸(こう)か不幸かではない。大切なのは、少年と少女の互いへの想いが変わらず、二人が幸も不幸も共にして、少女が笑えばその隣で少年も笑い、少女が悲しめばその隣で少年もまた悲しみ、共に涙を流すであろうということじゃ。まぁ、あるいはそれを幸と呼ぶのならば、幸せに暮らしていると言えるのやもしれんがの。」
「確かに、そうかもしれませんね。」
巫女は眉尻を下げ、微笑んでいた。
「カヤ様、何のお話をしているの?」
里の子供二人が、不思議そうに巫女を見上げていた。そんな子供たちに、巫女は優しく教える。
「里を発った一人の少年のお話。」
「どんなお話?」
「里を追われた少年は、遠い西の国で山犬に育てられた少女と出会うの。そして、その少女と共に生きていくことを決意するそうよ。」
「カヤ様! そのお話、私も聞きたい!」
「僕も!」
口々に言いつつ、巫女を見上げる子供たち。巫女は老爺を見つめる。
「そのお二人のお話、どうかもっと聞かせては下さりませんか。私ではなく、この子たちに。」
老爺は例の如くふっふと笑い、「よかろう、よかろう」と子供たちに向き直った。
「ほれ、ここに座るがよいわ。皆の衆も、品定めの傍ら聞いてゆくがよい。ふむ、どこから話せばよいかの。あれはそう、わしがもう少し若かった頃のことじゃ。それほど昔の話ではない。…いや、お主らにとっては大昔のことかの。」
並べたばかりの品を除けた老爺は、ぼろ布の上に子供たちを座らせた。子供たちは先を争うように正座し、そわそわとしつつ老爺の昔話を待っている。
「さて、ここからはるか西方の地、とある山奥に、シシ神の森という、太古の神々が棲む深い森があってな。そこでは獣たちも古(いにしえ)からの姿をとどめていたという。その森は何代にも渡り人を寄せ付けず、人もまた神々を恐れ、その森に近づくことはなかった。だが一つ、欲深き人間を引き付ける大きな魅力が、シシ神の森にはあったのじゃ。」
「待って! お爺さん、それ何ていうお話なの?」
老爺を遮(さえぎり)り、女の子が身を乗り出した。
「ん? おお、そうかそうか。物語の名か。そうじゃな、忘れておったわい。」
後頭に手を当て、はっはと困ったように笑う老爺。
「物語の名は…せっ記…いや、もののけ姫…。うむ、もののけ姫じゃ。」
「もののけ姫? お姫様が出てくるの?」
興味津々で尋ねる女の子に、老爺は教える。
「死の祟りに侵された一人の少年が、故郷から遠く離れた西の地に赴き、もののけ姫と呼ばれる少女と出会うことから始まる物語じゃ。不条理にも死を突き付けられた少年と、かたや自ら死を見据えていた少女が出会い、共に生きる道を選ぶ物語。どのような世であろうと、精一杯に生きようとする一人の少年と一人の少女、二人の物語であり、また、今これを聞いておるお主たちを含めた、この世に産み落とされた命ある者、皆の物語でもある。」
老爺は一呼吸を入れると、被っていた笠の紐(ひも)を解(ほど)いていった。
「さぁさぁ、心して聴くのじゃぞ。この物語を聴き、例え今はまだ理解できずとも、いずれお主らにも分かる時がくるじゃろう。この世界で生きるということが、どれほど困難に満ちておるのかを。しかしそれでいて、どれほどに尊いことであるのかを。この先、お主らが成長し、人生において大きな困難に突き当たってしまった時…生きるということに、ほんの少しでも後ろめたさを感じてしまったその時に、この物語を思い出すのじゃ。さすれば必ずや、少年と少女二人の生きる姿が、お主らの進む道、生きる道を照らしてくれるであろう。これは、これからの世を生きる、お主らのための物語であるのじゃからな。」
「早く聞かせてよ!」
「早く早く!」
「おぉおぉ、分かった、分かった。そう急かすでない。拙僧(せっそう)…いや、わしももう歳なのだからの。いや、かなわん。かなわんわい。さて、どこまで話したかの。」
笠を取り、四角い坊主頭を見せた老爺は、にこにこと笑っていた。
「山奥に神様が住む森があったってとこ!」
ぷっくりと頬をふくらませた子供たちが、声を合わせて老爺に言った。
「おお、そうじゃったそうじゃった。よいか、しかと聞くのじゃぞ。」
大人しく口を閉じる子供たち。目を輝かせる子供たちに、老爺はゆっくりと語り出す。
「むかし、この国は深い森におおわれ、そこには太古からの神々がすんでいた……」
完