シシ神の森へ
「すまぬが、そなたたちの森を通らせてもらうぞ。」
ヤックルの鞍に胡坐をかいていたコダマは、アシタカから話しかけられると、小恥ずかしそうな素振りをして、風に紛れるように消え去った。
「…旦那ぁ、そりゃあやめた方いいですぜ。」
森の中を抜けていくというアシタカの言葉に、甲六はすぐさま反応した。怯えた様子で周囲を窺う彼は、存在を気取られることを恐れるかのように、ひっそりとした声でアシタカに言った。
「この森には化け物がいるんだ…。でかい山犬なんかより、よっぽどおっかねぇ化け物だ…。今までこの森を抜けたなんて話は聞いたことがねぇ…。無事に通れるわけがねぇんです。」
アシタカは甲六の言葉を気にせず、もう一人の怪我人の側へ駆け寄り、傷の程度を確かめる。左腕に触れた際に、痛みを堪えるような素振りを見せたため、念のため横たわる怪我人の左腕から手甲を外す。案の定、そこに痣を見つけると、彼はその腕にそっと触れた。
「酷く痛むか?」
怪我人の口から小さな呻き声がする。それを確認したアシタカは、「…腕が折れている…。」と呟くと、周囲に目をやり、ふいに何かを探し始めた。不安げな表情を浮かべる甲六が、その様子を見て口を開く。
「旦那ぁ、聞いてるんですかい…?」
「聞いている。だが他に道はない。」
アシタカは一本、細めの流木を拾い上げると、それをへし折り、再び怪我人のもとへと駆け寄った。
「…そなたの村は? この近くにあるのか?」
怪我人から外した手甲を帯状に引きちぎりながら、アシタカが甲六に尋ねた。
「へい。この川の上流です。」
「…そうか。それはよかった。」
手甲を帯状にちぎり終えた彼は、怪我人の左腕に二本の流木を当て添え木にし、手甲をちぎることで帯状にした布をそれに巻きつけ、固定する。添え木がずれないように頑丈に巻きつけているため、折れた左腕に激痛が走っているのだろう。怪我人の口から呻き声が漏れる。それを聞いたアシタカは、「辛抱しろ…。」と静かに語りかける。彼は黙々と布を巻きつけていった。三人の周りにいるコダマ達は、その様子を興味深そうに見つめている。最後に布の端と端とを結び合わせ、添え木の固定を終えたアシタカが、甲六に言った。
「暗くなる前にそなたの村へ行こう。怪我の手当てを終え次第ここを発つ。…歩けそうか?」
それを聞いた甲六は、恐る恐る、ゆっくりと自らの脚を動かしてみるが、次の瞬間、苦悶の表情を浮かべてその動きが止まった。
「…いや、歩けそうにねぇです…。旦那。」
アシタカは横たわる怪我人の様子を見ながら口を開いた。
「そうか。…そなたはヤックルの背に乗ってくれ。この者は私が背負う。」
彼はそう言うと、今度は甲六のもとへ近づき、その怪我の具合を確かめ始めた。
アシタカが一通りの手当てを終えた頃には、三人はすっかり大勢のコダマ達によって囲まれていた。コダマは何か楽しそうにして手当ての様子を見届けていたが、甲六の目にはそれが相当気味悪く映ったのか、終始不安げな面持ちで手当てを受けていた。
アシタカの助けを受けながら、どうにかヤックルの背に跨った甲六は、もう一人の怪我人を背負おうとしているアシタカに向かって、口を開いた。
「…どうしても、この森通るんですかい?」
怪我人を勢いよく背負い上げたアシタカは、「急がねば日が暮れてしまう。」とだけ答えると、今度はヤックルに向けて言った。
「ヤックル、行こう。」
まずアシタカが森に足を踏み入れ、それに続いて甲六を背に乗せたヤックルが後を追う。そしてさらにその後を、大勢のコダマ達がぞろぞろと列を成して付いていく。
「だ、旦那ぁ、こいつら付いてきやすぜ…。」
そんなコダマ達を目にした甲六の言葉を最後に、一行は暗い森の中へと消えていった…。