序章
天高く、すっと突き抜けるように澄み渡る雄大な空。広大な青天の下には、未だその峰に刃紋のような白雪を頂いた山脈が、遠い果てまで連なっている。居並ぶ巨大な山々の頂こそ雪に染まってはいるが、裾野へと移ればそこには陽光差し込む明るいブナの森が広がる。冷涼な空気に包まれ、生命の色に溢れた森林。立派にそびえ立つ肥えた幹を見上げれば、まばゆい光を背に、木の葉がさらさら波打つ深緑の世界が映る。木漏れ日に連れられ、今度は大地へと目を向ける。悠久の時を重ね、幾重にも降り積もったブナの枯れ葉はふわふわと柔らかい。養分をいっぱいに吸い込んだ落ち葉の下では、人知れず、しっとりと湿った深い褐色の土が生まれていた。豊かな土に誘われてか、辺りを見渡せばシダの類がひっそりと生い茂っていた。
時折、風が吹き抜ける。ふと清々しくも森を吹き渡るそれは、高地に特有のひんやりとした冷気を伴い、この肥沃な地に根を張る木々をさざめかせていた。
森の中、どこからか聞こえてくる鳥のさえずりや、清風に波打つ木の葉のさざ波...。何百年、何千年、何万年もの間、この美しい森に響き渡るのはこうした生命達の紡ぎだす音色ばかりだった。それは、自らの生きる土地を奪われた人々が、長い年月の流れの中でこの奥深い大地へと追いやられ、里を開拓し、生活するようになってからも変わることはなかった。この国の歴史に、その存在の証をわずかに残すのみの「失われた民」は、この人里離れた山奥で、何百年という歳月をひそかに過ごしてきたのである。そして、この日もまた、それが変わることはなかった。森の中、笛を吹き、太鼓を打ち鳴らす音が聞こえてくるまでは...。
その日、山々の懐に抱かれたエミシの隠れ里は、いつになく喜びの声に溢れ、沸き立っていた。この里に、新たな命が産声を上げたのだ。
未だ年若い夫婦の間に生まれたその赤子は、元気のよい男の子だった。長く衰勢の途にある一族にとって、それは長いあいだ望まれてやまなかった男子であった。里の者は、久々の赤子、それも村の長を継ぐことのできる男の子の誕生に、大いなる祝宴の場を設け歓喜した。里中を挙げた祝いの宴に、ある者は笛を吹き、喜びの音を奏で、ある者はその調子に合わせ舞い踊る。日ごろは静けさの勝るこの雄大な大地も、その日ばかりは明るく愉快な音色に包まれていた。煌々と輝く陽の光から、新緑の若葉で山を彩る木々、そして美しくさえずる小鳥たちまでもが、その赤子の誕生を祝福しているかのようだった。小太鼓を脇に抱えて打ち鳴らし、高らかに笛を吹いては舞い踊る。この日、明るく確かな一族の将来を感じた里の人々は、日が暮れ、月が闇夜に輝くその時まで盛大な祝いを続けたのだった。
しかし、時の移ろいというのは決まって不思議なもので、幸せな時ほどその流れも一段と早まるのが常である。
里の人々が赤子の誕生を喜び祝う間にも、太陽は青天の頂を超え、足早に山並みの向こうへと去っていく。稜線を浮かびたたせ、日中とはまた異なる黄昏の輝きを放った夕陽は、青一色であったはずの天空を橙や茜、紺青色で滲ませ、鮮やかに染めていく。刻々と訪れる光の移ろいに美しさを覚えたかと思えば、その色彩はたちまちのうちに失われてしまう。
それまでのゆっくりと滲むような移り変わりが嘘であったかのように、宙へと落ち込み色を失くしてゆく天空。そこに、ちらりちらりと一つ二つ、ともすれば見失ってしまいそうな小さな星が瞬き始める。一方で、紅の夕陽が舞台を下りたのに伴い、影でこっそりと顔を出していた乳白色の月が、ここぞとばかりにその輝きを増していく。
喜ばしい一日を過ごしていたエミシの隠れ里にも、ついに夜の闇が訪れようとしていた。
暗闇が訪れてからも、人々は座を屋根の下へと移し、皆で歓談の内に飲み食いすることでしばらくは宴を楽しんでいた。だがそれもまたひと時のこと。夜陰の中で久々にこの村を照らしていた数々の灯も、時と共に一つ、また一つとその数を減らしていく。朝方からの長い宴に大いに満足した里の者達は、最後に、赤子の親となった男女へ三度の祝いの言葉をかけると、続々と自らの生活へと戻っていき、長い宴はついにお開きとなった。
この地は、再びいつもの静けさを取り戻すこととなった。
誕生祝いの宴に興じていた里の民も寝静まり、松明の消えた暗闇で月夜に浮かび上がる隠れ里。ところが、その中にあって唯一、灯のこぼれ出る建屋があった。里の社だ。隠れ里の外れには、その背後を守るかのように切り立つ岩壁がある。社は、そびえ立つこの崖の中程に柱を組んで建てられていた。
エミシの里の社には、かねてから一つの巨石が祀られている。その巨石がいつどのような経緯で祀られることとなったのか、この時代にはすでに知る者はいない。だが、彼らの祖先がそれまで暮らしてきた地を追われ、この地を初めて訪れたその日から今日この日に至るまで、この社が彼ら一族の行く末を占う神聖な場所であったことは確かであった。
そして今、その巨石の前には、祭壇を挟み、二人の人物が互いに向き合って床に座していた。
一人はこの里の巫女。朱色と桜色の着物を身にまとい、片方の膝を立て座っている老巫女の眼前には、神事に用いる玉石や白木が麻布の上に置かれている。一方、老巫女の向かいで胡坐をかいている人物は、この日誕生した赤子の父親のようだった。男は、その凛とした瞳で巫女を見据え、彼女の言葉を待っているようだ。
静寂の中、巫女がそっと振り出す玉石が他の玉石とぶつかり、かちんという音が社に響く。卜占だろうか。玉石や白木を用いる老巫女は、一言も発せずにその手を動かしている。向かいの男は、その様子を身じろぎ一つせずに見守っていた。
ゆらゆらと揺れる灯明が二人を照らす。社には重苦しい空気が漂っていた。再び玉石が転がり、ぶつかり合う。老巫女はそれを拾い、右の手にとってはもう一度振り出す。しんとした中、一連の動作が幾度となく続く。男は、粛として巫女の言葉を待ち続けていた。
卜占は突然終わった。
老巫女がこの夜幾度も繰り返してきたように、もう一度その右手を一振りし、二つの玉石が転がり出る。それを最後に、巫女は手を止め、ゆっくりと膝に下ろす。長いあいだ沈黙を保ってきた老巫女は、その瞬間、少しばかり考え込むように唸ったあと、ついにその口を開くのだった。
「さて、これは思いもよらぬこととなった。」
そう口にした老巫女は、じっと男の目を見据える。男は静かにその先の言葉を待った。
巫女が告げる。
「かの赤子は、一族を去ることになろう。」
老巫女の託宣に、男は僅かに頭を垂れる。この夜、男が社で待ち続けていたのは、その日生まれた赤子への巫女からの託宣であった。
再び沈黙が訪れる。重い雰囲気にあって、ぱちぱちという松明の燃える音だけが寂しげに響き渡っていた。
しばし俯いていた男は、再び顔を上げ巫女を見つめ返す。彼は、自らの動揺を押しとどめるかのように、努めて穏やかな口調で尋ねる。
「...ヒイ様、あの子は、一族の長となるべき子。我が一族が長く望んでいた男子です。...なんとか、なんとかなりませぬか...。」
ヒイ様と呼ばれた老巫女は、男の目を真正面から見据え、語りかけるように答える。
「定めというものは誰にも変えられぬもの。そなたは子の定めを見据え、赤子はそれを受け入れるほかない。」
男は俯きかけながらも、落ち着いて尋ねる。
「...あの子は何故、一族を去るのでしょうか。」
男は冷静であったが、その声音は暗く、重かった。対照的に、老巫女は平静を保ってそれに応える。
「分からぬ。かの赤子に定められし道は暗く、先が見えぬ。見えるのは憎しみと恨みから成る死ばかり...。それが赤子の行く末を闇へと導き、一族を去るものとしている。その先は、誰にも見ることはできない。」
男は巫女の言葉を聴き、「憎しみと恨み...」と呟く。老巫女はそっと頷くと、続けて言った。
「遥か遠方に不吉な影が差しておる。その影はやがてこの地にまで及び、闇に呑まれた世はもはや見通しのきかぬものとなろう。いわれのない、苦しみの定めであろうと、それが今の世に産み落とされた者の定めなのだよ...。」
少しの沈黙を挟み、巫女が続ける。
「だが、どのような定めのもとに生まれようと、自らに定められし世をどう生き、そこから何を見出だすのかは、その世を生きる者自身の手に委ねられておる。かの赤子がそれに気が付き、自らの定めを受け入れ覚悟を決めるのであれば、あるいは赤子らの行く末はまた違うものとなるやもしれぬ。」
「...はい。」
「かの赤子の生きる地は暗く、その行く末は誰にも分からぬ。だがそれはこの地に留まろうとて変わらぬこと。時と共に我が一族の血もまた衰え、今やその流れは誰にも止められぬ...。この地の行く末もまた、見えぬことに変わりはないのだよ。」
男は、この日生まれたばかりの子の定めを聞き、ついには耐えきれぬ様子で再び俯いてしまっていた。巫女の話に言葉を失った男は、その瞳でただ自らの足元を見つめるだけだった。彼の横顔は哀しげであり、また悔しげでもあった。
男を見つめる老巫女は、静かに問いかける。
「そなたには、己の子の定めを見据える覚悟がないのかい。」
男は首を垂れたままそれに答える。
「今日初めて顔を見た我が子の定めを...そのように暗い定めを受け入れろと...? どうして受け入れられましょうか...。」
男の言葉に、巫女はゆっくりと、彼に言い聞かせるようにして答える。
「曇り多き世はこれが初めてではない。先の世々から幾度となく繰り返され、そのたびに民はこれを乗り越えてきた。そなたは赤子の定めを受け入れ難くもあろうが、それはそなたが良き世に生まれ育ったというだけのこと。かの赤子はそなたの生まれ育った世を知らず、それ故に自らに定められし世を見据えることもできよう。」
老巫女の語り掛けにも、男の表情は変わらなかった。赤子の定めを告げられた男は、何か想いを巡らしているのか、それきり口を閉ざし、もう一度俯いてしまっていた。
俯き、うなだれる男を目の前にした老巫女は、しばし間を空け、声音を変えて男に言う。
「皆とうに寝静まり、すでに星々も夜の峠を越えておる。そなたももう寝なさい。あすは近い。」
「...はい。」
男は沈んだ声で小さく応えると、両手を床に着き、胡坐のまま巨石へと向き直る。そのまま、祀られている巨石に一礼したあと、彼はすっと立ち上がる。
社を去ろうと、彼が老巫女に背を向け歩き出したその時だった。
「赤子の名は...?」
背後から、ふいに老巫女が尋ねた。男は立ち止まる。
「生まれた赤子の名は...?」
巫女がもう一度尋ねる。その言葉は里の巫女としてではなく、赤子の誕生を祝う一族の一人としてのものだった。聞かれた男は老巫女を振り返り、こう言った。
「アシタカ。あの子の名は、アシタカです。」
そう言い残し、男は再び巫女に背を向け、社の階段を下っていく。
その背中は、夜の闇へと消えていった。
男が立ち去り、しんと静まりかえった社に一人残された老巫女は、目の前に転がる二つの玉石に目を移す。寄り添うようにして転がる二つの玉石は、かがり火にゆらゆらと揺れる黒い影を落としていた。老巫女はそんな二つの玉石を見つめ、そっと拾い上げる。二つの玉石は、巫女が卜占の最後に振り出したものだった。
二つの小さな丸い石を手に取り、優しく眺めながら、老巫女は一人呟く。
「アシタカ彦や。いつの日か、そなたにも告げなければならぬ。そなたが生きる世、そなたの定めが、いかなるものかを。...だが、それはそなた一人が負うものではない。未だ見ぬ誰かが、そなたの迎えを待っておる。その定めを共にし、この暗き世を共に生きようとする者が、そなたの迎えを待っているのだよ。」
二つの玉石は、黒い影を共にしていた。