一度目の選択
森を覆う夜の闇。どんよりと、不気味に漂う墨色の暗雲に、月も星も、その姿を隠している。闇夜に冷えた山風が吹き付け、山の木々をざわつかせる。遠い彼方では落雷があるのか、微かに雷鳴が響いている。
夜空の灯を奪われた漆黒の森。ここ、シシ神の森のもののけ達は、この不穏な夜に息を潜め、ひっそりとやり過ごそうとしているようだ。だが、彼らのそんな期待とは裏腹に、この夜、何か得体のしれない禍々しさが森全体を包んでいた。そして、その空気を最も敏感に感じ取っていたのは他でもない、この森に棲む彼ら自身であった。さらに不吉なことに、その彼らの不安は、それほどの時をかけずに現実のものになろうとしている。
ごうごうと音をたて強く吹きすさぶ夜風。それでも、その荒れる風間には僅かな静寂も訪れる。そのような時には、ほんの少しの間だが木々のざわめきもひとまず落ち着き、山々はしんと静まり返る。この束の間の静けさの中、森のもののけ達の多くはただじっと身を潜め、そのまま何事もなくこの夜が過ぎ去るのを待つ。
しかし、もののけ達の中には、この闇夜に乗じて動き出す者達がいた。
繰り返し訪れる森のざわめきと静寂。この夜。それまで沈黙を破るのは決まって嵐のように吹き付ける強い風であったが、その時だけは違った。
風がやみ、ふとまた静けさが訪れる。そしてその僅かな静寂の時を破ったのは、ふたたび吹き付けた強い風でもなく、また、遠く聞こえる雷鳴でもなかった。
それは、もののけの怒号であった。
突然のことであった。この闇に包まれた深い森に、一匹の獣の咆哮が木霊した。それは、猪のものだった。そしてその一声を合図に、突如として森中に地響きが鳴り渡る。何頭もの猪が一斉に動き出したのだ。彼らはある目的の為、人知れずこの地に集まっていた。その数は、シシ神の森に生きるそれよりもはるかに多い。この地、シシ神の森だけではなく、隣の国からも集まってきていたのだ。
夜の闇の中、大猪達は群れをなして目的の地…踏鞴場へと向かう。いきり立ち、盛んに鼻を鳴らしては闘争心のままに叫び合う猪達。侵食してきた人間への怒りと恨み、自らの生きる森のあり様への嘆きと憤りが、彼らを動かしていた。この、彼らの巻き起こす地鳴り、雄叫びに、もはや森のざわめきなど存在しないかのようだった。
他方、異様なその光景を群れから距離をおいて見つめる一人の少女がいた。少女は山犬に跨り、猪達の動きを窺っていた。
サンはこの数日間、ナゴの守を長とする猪達の動きを見守っていた。森に、不穏な噂が流れていた。人間達のこの森への行いに対し、猪一族が諸国の仲間を引き連れて戦いを挑むというのだ。そして時を経ずして近隣諸国から多くの猪達がこの地に集まったことで、その噂が本物であり、それもさほど時を置かずに実行されると分かったのだった。サンは、ついに動き出した猪一族を尻目に、兄弟に告げる。
「急いで。母さんのもとへ。」
サンを乗せ、山犬は駆け出した。
「母さん!」
モロはいつものように、サンの寝床である穴ぐらの上にいた。モロもまた森の異変に気が付いていたのだろう。寝ていた様子はなかった。
サンは山犬から飛び降り、そのままモロのもとへと駆け寄った。
「ナゴの守様が動き出した。他の猪達も。」
彼女の言葉に、やはりといった様子でモロはその口を開く。
「ナゴめ。あれほど彼奴らの誘いに乗るなと言っておいたものを…。」
焦りや憤りといったものとは程遠い、諦めの声音だった。しかしサンには、モロとは反対の想いがあった。彼女は言う。
「母さん。私、ナゴの守様と共に戦いたい。」
モロの答えは決まっていた。
「馬鹿を言うんじゃない。ナゴは他の猪達を連れ人間共のもとへ突っ込んでいくだろう。それしかできない、それが奴ら一族の本能なのさ。だがそうなれば人間共の思う壺だ。結末は見えているさ。お前が行く必要などどこにもない。」
「でも母さんの言う通りなら、ナゴの守様がやられてしまう…。私達も共に戦えば、あいつらを追い出せるかもしれない。」
「彼奴らを追い出したいのなら、あの女一人を殺せば済むことさ。数を揃えて真正面から戦いを挑むなど、いたずらに彼奴らの火を広げるだけさ。お前が死に急ぐことはない…。こうなった今、猪達は止められはしない。奴らの好きにさせておけばいいのさ。」
一族の長であるモロの言葉に、サンは従うほかなかった。少し哀し気にサンは言う。
「あの女の出方だけでも見てきます。…ナゴの守様の様子も。」
「好きにするがいいさ。」
モロはただそう答えるだけだった。サンは再び山犬に跨り、「いくよ」と兄弟に告げる。彼女は、猪と人間達の戦いの場へ向かうため、夜の闇に消えていった。
残ったモロは、消えたサンの後ろ姿をただじっと見つめていた。
「…我が娘よ、死に急ぐにはまだ早い。お前には、もう一つの道もある。今は見えぬだろう。だがいずれはどちらを選ぶかを迫られる時が来る…。その時もまた、お前が今日この日と同じ道を選ぶのであれば、もはや私に言うことは何もない…。」
モロの瞳は、我が子の未来を見つめているようだった。