闇。

気息一つさえもはばかられる、漆黒に蹂躙された石洞。瞼を閉じているのかいないのか、形ある現(うつつ)か心の幻か、うつろな瞳を塗りつぶす曖昧なこの黒の世界にあって、ちぐはぐでおぼろげなサンの意識では見分けはつかなかった。

遠く、淀む意識の彼方から両の耳に流れ込む、雷鳴の轟(とどろき)。そして、猛り立つ風雨の雄叫び。ただそれだけが、独り闇に溺れるサンに、この世界が未だ現の世であるということを語り聞かせていた。



モロがいる。

往時にそうであったように、石窟(せっくつ)にその肢体を横たえ、優雅に構えている。

宙(そら)に月が浮かんでいる。

三日月。銀白の煌めきの源は一つではない。無数に散り瞬く星々も、天界に広がる暗黒の海原を漂っている。

雨雫一粒散らず、木の葉ひとひら舞わず、無動にして沈黙の一夜。

夜月の淡い白光によく映える練色の毛並み。何時にも増し、滑らかに艶がある。心なしか、モロは若返ったように見受けられる。

「わからぬ...。人間よ、お前は言った。共に生きようと...。だが、それは戯言ではなかったのか...。」

モロが問う。

答えるは静寂。

モロは、穏やかに佇む宙の月を仰ぎ見ていた。



夜空。

月光が照らし、創出する、幻想的な世界。

石窟の天面、大山犬が一人の人間を見下ろしている。

流麗かつ堂々たる風格。気高き純白の身躯(しんく)。清澄なる瞳。

モロではない。

他方、神たる犬神を仰ぎ見る人間。人相は影となり、目にすることは叶わない。

「我が娘を寄越せと? かわいい我が子を人間のお前に?」

大山犬はあざ笑った。

その者は動じない。

「私は、彼女と共に生きたい。...この恐ろしい森へと迷い込み、もののけに襲われうずくまっていた私を...ただ野垂れ死ぬのを独り待つばかりであったこの私を、彼女は救ってくれた...。」

「確かに、あの子はお前の命を救った。正しく言えば、その命を救ったのは他ならぬシシ神ではあるがな...。しかし、あの子が、手傷を負いたった一人この森に取り残されたお前を哀れみ、シシ神のもとへと導いたのは間違いない。姿のみならず、生き方さえも異なるお前をこの穴ぐらへと運びこみ、貧弱な身体を日毎夜毎(ひごとよごと)介抱したのもあの子だ。あの子は決してお前を見捨てたりはしなかった...。我が娘に礼を述べるのは当然であろう。だが、お前は礼を言うだけでは物足らず、あの子と共に生きたいと言う。そんな馬鹿げた話はない。なぜならあの子は山犬で、お前は人間なのだからな。」

嘲笑に紛れ込み、むき出される牙。それでもその者が顔をうつむけることはない。

「人か山犬かなど、私達が共に生きていく上でどれほどの意味を持ち得るというのか。」

犬神に抗っていた。

大山犬は高笑う。そして嘲り、吊り上げた口角でもの言い放つ。

「わからん。どうやって我が娘と生きていくというのだ。あの子は山犬だ。例えあの子がお前と共に暮らそうとも、その姿ゆえ貴様と同じように生きていくことはできぬのだ。逆もまた然り。お前がどれほど我々の真似事をして立ち振舞おうと、それは見せかけだけの偽物に過ぎぬ。牙も無く、鼻も耳も利かず足も遅い、力の無い弱弱しい人間ごときが、我々と共に山犬として生きることもできはしない。山犬が人間になれぬように、人もまた山犬になることはできぬのだ。」

皮肉な可笑しさと共に哀れむ犬神。だがここにきても未だ、その者が口ごもることはなかった。

「あなたは囚われている。」

くっと眉をひそめる山犬。

「何が言いたい。」

苛立ちを隠さず、犬神が問うた。

その者は訊く。

「犬神よ、あなたに問いたい。人間とは、山犬とは一体何だ。瞳に映るこの肉体を指すのか? 形あるものだけがその者の名を決めるということなのか? ...もし、胸の内の姿と肢体とが異なっていたとしても、他人の瞳に映る容姿にその者の全てが支配されてしまうのか? 生きる姿をも決められてしまうのか? ...そうであってはならないはずだ。肉体ではない、その者の生きる姿それこそが、その者の存在を、何者であるかを決めるのではないのか?」

「その姿が山犬であろうと人間であろうと、山犬として生きれば山犬であり、人間として生きれば人間であると?」

「違う。」

もどかし気に語気を強める。

「そうではない。山犬か、人間かではない。私は私だ。それ以外の何者でもない。私はただ私の生きたいように生きていく。そしてそれは、彼女も同じだ。与えられた生涯を、この一生を生ききる前から、人間として、山犬として、などと縛られるこの命ではないはずだ。山犬という名も人間という名も、古(いにしえ)に在りし何者かが創り出した器の名に過ぎない。各々の姿、生き方に、後から付けられた呼び名だ。私が私として生きる姿が、結果として人間のそれであったのならば、人間として生きたと言われようとも構わない。それは、後から付いてくるものなのだから...。だが、今ここで、私や彼女の生きる姿が、人間のそれである、山犬のそれであると決められる筋合いは無い。」

その者の両の拳はぐっと握りしめられ、滲む汗が月明りに微かに輝く。

「私は生きたい、私として。私が生きる姿に先んじて与えられる名などあってはならない。等しく同じ陽の下に産み落とされた命であるはずの我々の生き方を、その姿、その心に囚われて選り分けてしまっては、互いの間に溝を生んでしまうかもしれない...皆が共に生きるせっかくの可能性を失ってしまうかもしれないのだから...。」

大山犬は高らかに笑う。

「笑わせてくれる。生きたければ勝手に生きるがいい。貴様の思いのままに。だが、貴様がどうあがいたところで、お前と我々は相容れない。それが現実だ。」

犬神はまともに取り合う気がなかった。

「もはやこれ以上、お前がその口で何を論じようとも無駄だ。たかが人間如きのお前に、我が娘をくれてやることなど有りはせん。貴様はあまりにも長居し過ぎた。傷が癒えたのならば、今宵を最後にここを立ち去れ。森を抜ける道は教えてやる。」

「彼女はどこにいる。彼女にも、山犬でも人間でもない、己のままに生きることを認めるべきではないのか。彼女に会わせてくれ...!」

「黙れ! 身の程わきまえぬその口、今すぐ閉ざさなければ、その憎たらしい顔面を我が牙で食いちぎり、一呑みにしてくれる。」

「彼女には彼女の生きる道があるはず......」

犬神が遮る。

「人間よ! おとなしく立ち去れば殺しはしない。シシ神と、かわいい我が娘が救ってやったせっかくの命だ。無駄に奪いはしない。...しかし、貴様がこの地に留まり、娘に会うと言うのならば話は別だ!」

「彼女には何と言うつもりだ!」

食い下がるが、犬神は吐き捨てる。

「どうとでも言うさ。身体が癒え、何も言わず逃げるように去っていったとでも。貴様の言葉は全て戯言であったとも。...いずれにせよ、あの子に人間への未練を残すわけにはいかない。人間を知るには、あの子はまだ若すぎた...。成り行きを見守っていた私が愚かだった。」

おもむろに腰を上げる大山犬。月夜に映える、白絹のように滑らかでいて、刃のように冷酷な切先の強靭な牙、そしてまるで夜海(ようみ)を漂う流氷の如き不気味な白さと透明さを併せ宿すその巨体をもってその者を見下ろし、立ちふさがる。

「さて、どうする? 口を閉ざし立ち去るか、私に食い殺されるか...。安心しろ。お前が例え死を選ぼうとも、あの子を悲しませぬよう始末してやる。誰にも見つからぬ遠い森の果てまでお前を連れて行き、そこでひと思いに丸呑みにしてやる。」

犬神は唸り、そして言い放つ。

「さぁ、今ここで選ぶがいい。」

「それでも私は......」

その者に、迷いはなかった。



漂う三日月。

煌めく白銀のその刃は鋭い。

サンの寝床たる石洞。そこに、アシタカとモロがいる。

「私は何日も眠っていたようだな。夢現にあの子の世話になったのを覚えている。」

豊かな森を眼下に眺め、アシタカは言った。

「お前がひと声でもうめき声を上げれば噛み殺してやったものを...。惜しいことをした。」

本気か戯言か、モロが煽ぎたてた。

「モロ、森と人が争わずに済む道はないのか。本当に、もう止められないのか。」

身を乗り出し、答を求めるアシタカ。

「人間共が集まっている。彼奴(きゃつ)らの火がじきにここへ届くだろう。」

「サンをどうする気だ。あの子も道連れにするつもりか。」

糾弾であろう。人間の畳みかけに、山犬はさながら牙をちらつかせるかのように、忠告を投げて寄越す。

「いかにも人間らしい、手前勝手な考えだな...。サンは我が一族の娘だ。森と生き、森が死ぬ時は共に滅びる。」

「あの子を解き放て。あの子は人間だぞ!」

語気を強める若者に、モロももはや容赦することはなかった。

「黙れ小僧! お前にあの娘の不幸が癒せるのか...! 森を侵した人間が、我が牙を逃れるために投げて寄越した赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、可愛い我が娘だ...。お前にサンが救えるか!」

「わからぬ...。だが共に生きることはできる!」

高笑うモロ。嘲笑も収まらぬ間に口を開く。

「どうやって生きるのだ。サンと共に人間と戦うというのか?」

「違う! それでは憎しみを増やすだけだ!」

さらなる熱を帯びるアシタカへ、モロは惨くも突きつける。

「小僧、もうお前にできることは何もない...。お前はじきに痣に食い殺される身だ。夜明けとともにここを立ち去れ。」

思い起こされた自らの運命(さだめ)に、彼が言葉を返すことはできなかった。

己の在り処に思うは無力さか失望か、アシタカは俯き、憂いのこもる面持ちでモロに背を向ける。

純真な、一点の曇りもない黒い瞳に浮かび上がる夜の森。月の光に、うっすらと輪郭を宿す峰々の影。

しばし口を閉ざし、ただ雄大な山並みを前に呆然と立ち尽くすアシタカ。

「けりをつけるか?」

モロが尋ねた。

打って変わり、煽り立てる調子ではない。穏やかに言った。

アシタカは振り返る。

しかし、その瞳の先に捉えるのはモロではない。彼が見つめるのは、暗い石窟に眠る一人の少女であった。

「シシ神は、この身の傷は癒しても、痣を消してはくれなかった...。私の定めは変わらない。だがそれでもサンは、私の世話をしてくれた。いずれは呪いに喰いつくされる命であると知りながら...。」

一人語りのように紡ぎ出し、右の手へと視線を落とす。

「あの子がお前を助けるのは、シシ神がお前の命を奪わなかったからに過ぎない。」

モロが静かに言って聞かせる。

アシタカはモロを見上げる。

「それでも構わない。...モロ、本当にもう、私にできることはないのか...? サンと、この森のためにできることは...。」

「去れ。じきに痣に喰い殺される者の、それが運命(さだめ)だ。」

頑なに変わらない一言。アシタカもまた、腑に落ちる様子は一向にない。

「彼女と共に生きることはできると言った私に、どうやって生きるのだと、モロ、あなたは問うた...。そのあなたが何故、自らと姿の異なる赤子を、森を侵したはずの人間の子を...サンを、我が子として迎え入れた...? あなたは、今日まで彼女と共に生きてきた。人の子である彼女と。...本当は、人も山犬も、共に生きることができるとその胸の奥底で信じているのではないのか? だからこそ、サンは今もこの森で生きているのではないのか?」

瞳を閉じるモロ。

吐息と併せもう一度見開かれた大きな瞳にはもはや、アシタカの姿は映っていない。

モロは宙を、そしてそこに浮く三日月を仰ぎ見る。

「...あの時、あの子はまだ何者でもなかった...。己が何たるかも知らぬ、この世の慣わしさえも分からぬ、生まれたての一つの命に過ぎなかったのさ...。」

零れた言葉に悟ったか、アシタカはもう、何も求めなかった。

踵を返し、彼はサンの眠る暗闇へと消えた。



森が死んでいく。

生命に溢れ、神秘的な美と威厳に満ちていたシシ神の池は今や、赤茶の死色へと変貌しつつあった。

「サン。力を貸してくれ。」

壊れゆく世界で、アシタカは一人の少女に言った。

サンが恨み、憎しみを抱く人間...エボシを救おうとしているアシタカと、彼の口から飛び出してきたその一言に、サンは激しく動揺し、うろたえていた。

彼女は首を振る。

「いやだ! お前も人間の味方だ! その女を連れてさっさと行っちまえ!」

「サン...」

アシタカが歩み寄る。

「来るな! 人間なんか大嫌いだ!!」

拒絶するサン。だが、怒りに重ね吐き出される言葉とは裏腹に、彼女の大きく美しい瞳は滲み、一筋の哀しみを宿していた。

アシタカは告げる。

「私は人間だ。そなたも、人間だ...!」

彼女が、たった一人で守り続けてきた胸の奥、心の真(しん)を、正面から刺し貫く言の葉。

言い放つ彼に、サンは潜めていた思いのたけを叫ぶ。

「黙れ! 私は山犬だ!!」



青空を、雲が流れていく。

生まれ変わってしまったこの大地に、アシタカとサンは立っていた。

「アシタカは好きだ。...でも人間を許すことはできない。」

山犬の背で、サンは言った。

「それでもいい。サンは森で、私は踏鞴場で暮らそう。共に生きよう。...会いに行くよ、ヤックルに乗って。」

サンはそっと頷いた。



ふと途切れた意識の先に、暗闇が広がる。

音も無く、迫りくる闇。

そこに、モロの顔が浮かぶ。

底知れぬ漆黒にあって、かの山犬の顔面はまるで銀色の光を放つかのように映える。

モロは言う。

「サン、お前には、あの若者と共に生きる道がある。山犬でも人間でもない、アシタカと共に生きる道が。」

言い残し、モロは消えた。



震える山。

山鳴りと、ごうごうと吹き荒(すさ)ぶ猛烈な夜半の嵐。静まることを知らない風雷の轟に、ざぁざぁと岩肌を叩きつける雨粒が拍子を合わせ、闇夜に共鳴する。

天地のざわめきが響き渡る真っ暗な洞窟で、サンはその重い瞼から、虚ろに震える黒い瞳を覗かせる。

「...夢。」

丁寧に敷き詰めた木の葉。そこにさらに黄褐色の獣の毛皮を広げ、山犬の白毛にくるまっていた彼女は、気が付けば嵐の夜に独り、穴ぐらで眠りについていたのだった。

「サン...サン、起きているかい?」

びゅうびゅうと吹き込む強烈な雨風の音に溶け込み、その名が呼ばれる。

身を起こし、寝ぼけ眼をこすりつつ、穴ぐらの口へと目を向ける。

「誰だ?」

そこには、大きな笠を頭に載せ、首から下はもっさりとした蓑ですっぽりと包みこんだアシタカが立っていた。片手に松明を、もう片方の手は強風に飛ばされぬよう頭上の笠をしっかりと押さえつけている。呼びかけも控えめに、煌々と燃え盛る松明を掲げて穴ぐらを覗きこんでいた。

「アシタカ? ...どうしてここに?」

「よかった。この嵐でそなたは大丈夫だろうかと心配になってしまったんだ。いてもたってもいられず、様子を見にこうしてやって来てしまった...。起こしてしまったのならすまなかった。」

そう口にしながら、穴ぐらに足を踏み入れるアシタカ。稲藁で拵えた蓑はずぶ濡れで、松明の明かりにきらきらと輝きを放っている。裾からは雫が止まることなく滴り落ちていた。

「かまわない。変な夢を見ていたから...。起きてよかった。」

「夢?」

豪雨の外界から穴ぐらへと逃れると、アシタカは松明を片手に掲げつつ、びっしょりと濡れた笠と蓑を脱ごうと留め紐をほどく。

「いや、なんでもない...。アシタカ、せっかく来たんだ。どうせ外が煩くてゆっくり眠れやしないし、話でもしよう。...そういえば、こんな嵐の中でどうやってここまで来たんだ?」

「厩ですっかり寝入っていたヤックルを起こしてね。」

「ヤックル、怒らなかったのか?」

「はじめは不機嫌だったが、サンのもとへ行くと言ったらすぐに分かってくれたよ。...この前、置いておいた焚き木はまだあるかい?」

がさがさと騒がしく脱いだ雨具を隅に置きつつ、アシタカが言った。

「木っ端(こっぱ)なら、こっちにある。」

のそりと立ち上がったサンは、白い毛皮を寝床の脇へ置き、穴ぐらの片隅に焚き木を取りに歩く。

灯も届かない影から、何やらからんころんと物音が響いてくる。

「ほら、もってきたぞ。」

暗がりから声がすると、両の手いっぱいに薪を抱えた彼女が灯りのもとへと戻ってきた。

「ありがとう。...こっちの入口は風が入ってくる。見晴らしの良い向こうの口に風が抜けているようだから、向こう側で火を焚こう。...そうだ、表にはサンの兄弟達も来ていたよ。今はヤックルと共に岩陰で雨宿りしているはずだ。」

「兄弟達も?」

胸にたくさんの焚き木を抱きかかえながら、サンは少し驚いていた。

「ああ。皆がサンのことを気にかけている。起こしてしまってはまずいと思い、とりあえずは様子を見に私一人で入って来たんだ。」

「なんだ、そうだったのか。それなら皆ここに来ればいいじゃないか。ここなら濡れることはないし、雷だって怖くない。それに、みんなでいるほうが気分も安らぐ。」

「わかった。サンは火を焚く支度を。私は外にいるヤックル達を呼びに行こう。」

二頭の山犬はともかく、ヤックルがサンの穴ぐらに立ち入るのは初めてのことだった。アシタカが迎えにいったところで、ヤックルは二頭の山犬と顔を見合わせるばかり。なかなか石窟に入ろうとしなかった。結局、アシタカはサンを呼び、穴ぐらの主であるサンの口からヤックルに呼びかけてもらった。

「ヤックル、おいで。中で雨宿りをしよう。」

やっとのことで三頭が...とりわけヤックルは遠慮がちに、それでいてどこかサンの面持ちを伺いながらも...穴ぐらに足を踏み入れ、皆で焚火を囲むのだった。

この晩の嵐を、サンやアシタカの隣でやり過ごせることに、ヤックルも山犬も安心したのだろう。はじめは遠慮気味に、落ち着きもなく、ぎこちない様子で身体を横たえていたヤックルをはじめとする三頭も、しばらく焚火にあたった今となってはすっかり力も抜けて、身を寄せ合って寝入ってしまった。

「寝てしまったな。」

三頭を傍らで見守る彼女は、まるで我が子を愛おしむ母親のように優しさに溢れ、柔らかな眼差しを向けている。

サンは膝を抱えて、アシタカは胡坐をかいて隣り合い、暖をとっている。

ぱち、ぱち、と粛々と燃える炎にゆらゆらと照らし出される穴ぐらの中、外界の風や雨の音にじっと耳を傾けていたアシタカは、三頭の寝顔を見つけるとほがらかに笑み、サンと顔を見合わせる。

「...アシタカ。」

目が合うと、ふいにサンが呟いた。遊びのない声音だった。

瞳を逸らし、焚火を眺めるサン。

アシタカは微笑みを収め、何事かとまじまじと彼女の横顔を見つめる。

「...ちょっと、聞きたいことがあるんだ...。」

ゆらめく炎に照らされるその面持ちの裏には影が差し、目に見えない何かを恐れているようにも見受けられる。

サンは尋ねる。

「...私は、私はやっぱり、人間なのだろうか...。」

目を背け、合わせようとしないサン。答えを求めながらも、純真なアシタカの瞳を、何よりその口から紡ぎ出される言葉を、真正面から受け止めることを恐れているようだった。

美しい横顔から垣間見える、哀しみと恐れ。

アシタカは、そっと語り掛ける。

「...何か、夢を見たのかい?」

「いいから答えろ。」

求めてはいるが、怖がっているようでもある。

アシタカは、そんな彼女を独りにすまいと、膝を抱えるサンの腕に静かに手を添え、言うのだった。

「...以前の私であれば、迷うことなく『そうだ』と答えただろう。事実、私はかつて、そなたも人間だと言った...。でも、今は少し違うかもしれない...。」

「違う...のか?」

サンの瞳は燃え踊る炎から離れ、アシタカへと向けられる。

捕らえたサンの瞳を逃さず、彼は優しく語る。

「今なら言えるよ。『そなたはサンだ』、と。」

期待が外れたか、少し気落ちしたように瞼を降ろし、ふぅと溜息をついたサン。

次には開いた目をすっと細め、むっとした様子でアシタカを見返す。

「それ、答えになっているのか?」

棘のある言い方。

アシタカはいたずらに笑う。

「なっているさ。私はそう信じている。そなたが人間であるのか山犬であるのかなど、後(のち)の世に生きる者達に言わせておけばいい。サンはサンだ。だからこそそなたには『人間』でも『山犬』でもない、『サン』という名がある。昔からある、ありふれた呼び名に囚われて、たった一つの己を見失ってはいけないよ。」

いまいち響かなかったか、彼女はむっとした態度を崩さない。はっきりとした言葉も返さず、もう一度溜息をついたところで、再び目の前で揺らめく焚火を見つめ、物思いに耽る。

「サン、そなたは私のことをどのように思っているんだい?」

今度はアシタカが尋ねた。

思いがけない問いに目を丸くしたのも束の間、サンは「ん~...」と天井を見上げて少し考える。

「...アシタカは、アシタカだな。」

「サンも、私を人間としてではなく、アシタカとして受け入れてくれたからこそ、こうして同じ時を過ごしてくれているのだろう?」

「うーん...、それは、そうかもしれないな。人間は嫌いだから...。」

アシタカは一笑み見せ、語り始める。

「人間かどうかなど、後から付いてくるものに過ぎないよ。私は私として生きていく。そなたにも、山犬や人間などという名に振り回されることなく、サンとして生きて欲しい。...確かに、この世の中を生きていく上で、そなたの意思をよそに、そなたが何者であるかを決めようとする者や慣習と出会うだろう。この世界の古からの呼び名にそぐわないと言い、そなたを拒絶する者と出会うだろう...。己が何者か、俗世で収まる名が無ければ、生きていく上で戸惑い、迷うこともあるかもしれない。だが、こんな世の中でも、どうか諦めないで欲しい。そなたが、そなたとして生きることを。そなたには、そなたにだけ名付けられたせっかくの名があるのだから。その名を大切に、手放すことさえしなければ、生きていけるよ。人でも山犬でもない、サンとして。」

サンは相変わらず怪訝そうだ。それも若干ではあるが、横目気味にアシタカを見ている。

「...アシタカ、それで、私が納得すると思うか?」

ぶっきらぼうに言い放つ彼女に、アシタカはいつものように頬を緩ませる。

「そんなことはない。サンが探し求めている答えが、私の口から出るとは思わない。答えというものは、出るものではなく、出すものなのだから。」

アシタカの微笑みに、サンは参ったとばかりに深く息をつく。

「そうかもしれないな...。」

そう言い、ぐっと両手をつき上げて伸びをしたかと思えば、口をうんと大きく開けて豪快なあくびをして見せるサン。ふぅぅと目一杯息を吐きだすと、一転して明るく言い放つ。

「...あぁあ、この嵐、早くおさまらないかな。久しぶりに陽の光を浴びたいんだ...。アシタカ、明日は良い天気になるといいな。」

「きっとなるよ、良い天気に。嵐の後は、そうなるものだから。」

期待を裏切らず、言ってのけるアシタカであった。



静まりかえる夜の世界。

暗闇に浮かび上がる、月光が創る淡い幻想の地。

犬神を前に、その者に迷いはなかった。

「...それでも私は、彼女に会いたい。そして、共に生きたい。その想いを変えることは、私にはできない...。」

首を振る犬神。

「ならば道はない。貴様は死ぬ。今日この日、夜明けを待たずして。...人間よ、何か言い残すことはあるか。我が娘には伝えぬが。」

その者は、闇夜にそびえ立ち塞がる犬神を前に、一歩たりとも退きはしなかった。

その者は言う。

「今、あなたが認めずとも、いずれ、この世で認められる日が来ると信じている。山犬や人間といった創られた名に囚われず、その者がただその者として、この世の中で生きることが認められる日が来ることを...。私は、その礎を残したと思いたい。彼女の中に...心に。

犬神は牙をむき出し、唸る。

「潔いのか、諦めが悪いのか...。貴様のその短い生涯が、我が娘にとって無駄とならぬことを願うものだ。」

迫りくる牙。

その者は動じなかった。

「いつの日か分かる。私と彼女の出会いが、無駄ではなかったと。」

遥か彼方、東方の空で、漆黒の闇に光が滲み浮き立つ。


夜明けは、近かった。



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