悔悟
それは、サンと一人の少年の出会いから遡って十年程前のこと。彼女がまだ、ようやく一人で出歩ける歳になったばかりの頃のことだった。
それまで、モロにくっついてちょこちょこと森の中をひた歩いていたサン。一人で出歩けるようになったことがよほど嬉しかったのだろう。彼女は毎日毎日、森中を探検して回っていた。
そんなある日のことだ。
サンはいつものように、森の中で見つけた奇妙な形の木の実や石ころを、まだ小さな手にいっぱいに握りしめ、あっちへこっちへと歩き回っていた。ところがその日、ふと顔を上げると、いつの間にかそれまでに歩いてきた道が分からなくなっていた。思うがままに木々の間を抜け、小川を渡り、小さな足でどんどんと歩いてきたサンは、知らぬ間に森で迷ってしまったのだ。辺りを見回しても、どこもかしこも似た木々ばかり。まだ年端も行かぬ彼女は、すぐには状況が呑み込めないようだった。
どうしていいのか分からず、しばらくは同じ場所を行ったり来たりするばかりのサン。どちらを向いても、幼い彼女の目には同じ風景として映るばかりだった。どの方角へ行けばよいのか分からず、少しずつ穴ぐらに戻れないことを理解し始めたサンは、子供心に二度と母さんや兄弟達のもとに帰れないと思い込み、途端に泣き出しそうになってしまった。
不安そうなその目には、サンをとり囲むようにそびえ立つ木々が、彼女が穴ぐらへ帰ろうとしているのを阻んでいるかのように映る。まるで、木々がおろおろとするサンをその場に閉じ込めようとしているようだ。そんな森の様子に怯え、怖気づいたサンは、うろうろしていた足をとめ、ついにその場にしゃがこみこむと、「お母さん、お母さん…」と、顔を膝にうずめて泣きだしてしまうのだった。
ずっと大事に握りしめていた手の平いっぱいの木の実や石ころは、その手から離れ、うずくまって泣くサンのもとにぱらぱらと転がり落ちる。穴ぐらに帰りたいと大きな声で泣きじゃくるが、森はその声さえも蔽い込んでしまった。泣いても泣いてもその声に返事はなく、幼い彼女の寂しさは増すばかり。積み重なっていく寂しさに伴い、その泣く声も次第に大きくなっていくのだった。
どれほどの時が過ぎただろうか。長い間しゃがみこみ、わんわんと泣いていたその声も、泣き疲れからか段々小さくなり始めていた頃だった。遠く、どこからか懐かしい声音が聞こえてくることにサンは気付いた。自分の泣く声に混じり、どこからか聞こえてくるその声音に、彼女は一瞬泣きやむ。母さんの声だろうかと、思わず膝にうずめていた顔を上げ、耳を澄ました。涙に濡れた顔をその小さな手で拭い、目をこすりこすり周りを見たが、母親の姿はどこにも見当たらない。近くにいるのではないかと、今度は立ちあがり、周囲に目を向ける。
「…お母さん?」
涙が滲んでよく見えない目を何度もこすり、何か動くものはないかと木々の間に目を凝らす。すると、再び声が聞こえてきた。女性の声音だ。だがその声はモロのものではなかった。
「…泣き声がしたような気がするのだけど…。」
微かに聴きとることのできたその女の声は、サンの座り込む地べたから少し下った麓の方角から聞こえてくるようだ。寂しさからか、サンの足は自然と声のする方へと向かっていた。
おぼつかない足どりで斜面を下りると、そこには比較的新しく、所々から空を望むことのできる明るい林が広がっていた。サンが普段過ごすような、苔に覆われた巨木がそびえ立つ暗い森とは異なり、日の光の差す若い林だ。
空を見上げると、すでに東の空が橙色に染まり始めている頃だった。
「…女の子の泣き声だったようだけど…。」
そう話す女の声が、先程より耳に近くなった。どうやら、林の外れにある茂みの向こうから聞こえてくるようだ。サンは、彼女の背よりも幾分高さのある草むらに分け入り、声の主を求める。すると、彼女がいくばかりも進まないうちに、突然視界が開けた場所に辿り着いてしまった。
そこは、木々を伐採した跡地のようだった。森に迷い、ただひたすらに兄弟達のもとへ帰ろうと歩き回っていたサンは、いつの間にか深い森の外れまで来てしまっていたのだ。目の前に広がる跡地には、掘り返された根株や切り取られた丸太が放置され、至る所に転がっている。しかし、それらの切株や丸太の間には、まだ若い小さな苗木が植えられていた。木々を切り倒した後、人間達が植えたのだろう。腐った根株や地面に育つ雑草をみると、伐採後数年が経っている場所のようだった。
サンは茂みに身を隠したまま、跡地の様子を窺った。動くものが目に入る。
人間だった。
人間は二人。一方はまだ幼い、ちょうどサンと同じ位の背丈の女の子だ。もう一方はその母親だろうか。藍色の小袖を身にまとい、サンのいる茂みとは別の方向を見つめていた。目の前に広がる、広大な森を見つめているようだった。
「でも、なんにも聞こえないよ。」
人間の女の子が、母親の手を両手で握りしめながら言った。
「そうねぇ…。」
母親は女の子には構わず、森の方をじっと見つめていた。誰かを探しているのだろうか。その横顔から見てとれる心配そうなまなざしは、何かを待っているようにも見える。
「ねー、いつも誰を待ってるのぉ?」
女の子が母親の顔を見上げて言う。その子は一生懸命に親の手を揺すって答えを待つが、その母親は物想いにふけているのか、森に目をやったまま「それはねぇ…」と言ったところでそれきり口を閉ざしてしまった。黙然としている母親に業を煮やしたのか、女の子は母親と繋いでいたその手を離し、近くに落ちていた小枝を拾ってしゃがみこむ。なにやら一人で遊び始めたようだ。それを見た母親も近くの丸太に腰かけると、森を見つめたまま、一人考え事を始めたようだった。
サンは茂みの中からその様子を見つめていた。彼女はそれまで、人間の姿を目にしたことがなかった。初めて見る人間の姿に、幼いサンは息を潜め、少しばかり警戒する。しかし、サンの目に人間が恐ろしいものとして映ることはなかった。その姿はむしろ、彼女の目には親近感さえももてるような容姿として映っていた。なぜなら、その姿は川面に映る己の姿と全く同じだったからだ。まだ小さい彼女にとっては、なぜ同じ姿なのかという疑問よりも興味心が優先するのだろう。その目は怯えるのではなく、じっと人間を見つめているのだった。
「ねー、お花摘んできたから、あれ作って!」
しばらく静かな時が流れた後、一人で遊んでいた女の子が、再び母親に甘えだす。それまで、何か心配そうな眼差しで森を見つめていた母親は、甘えてくる女の子にそっと微笑み返すと、女の子の摘んだ花を受け取り、何やら作り始めたのだった。サンは藪の中からその様子を見つめる。母親が手を動かしている間、女の子は何か待ち遠しそうにその前に立っていた。
「ねー、」
女の子が待ちきれない様子で話しかける。
「もうできた?」
「まだよ。…ずいぶんたくさん摘んできたのね。」
「うん。」
その母親は黙々と手を動かす。女の子は黙ってその様子を見つめた。
「ねー、」
女の子が再び話しかける。
「誰が来るのぉ?」
母親は手を動かしながらそれに答える。
「大事な人よ。」
女の子はそれを聞くと「ふ~ん。」と言い、続けて口を開く。
「でも、その人いつも来ないよ。」
一瞬の間を空け、母親がそれに答える。
「…そうだねぇ。」
母親は独り言のようにそう呟く。するとその直後、今度は明るい声で女の子に話しかけた。
「ほら、できた。」
母親はそれまで手元を見ていた顔を上げると、笑顔で女の子に何かを差し出す。それは花の冠だった。
真っ白な美しい花弁をつけた花。その花の茎を輪の形に数本絡め合わせることでできた冠は、何とも可愛らしいものであった。女の子は嬉しそうに花の冠を受け取ると、早速それを頭に載せる。
「まだお花があるから、もう一つ作っておこうかね。」
そんな母親の言葉をよそに、女の子は喜々としてその場を離れる。そして冠を載せたまま、もといた地べたにしゃがみこむと、またもや一人で遊び始めたようだった。
幼い女の子は、親の作るもう一つの花の冠にはすでに興味を示していなかった。だが、当の母親がその手を止めることはなかった。その母親は何か物想いに沈んでいるのか、どこか憂色を感じさせる面持ちで、静かに白い花々を輪の形に絡み合わせている。その瞳は何か哀しげだった。茂みに潜み、人間の親子のやりとりに見入っていたサンは、物欲しげな表情でその花の冠を見つめているのだった。
橙の空はいつの間にやら西へと去り、代わって東から紺青の滲む空がやってくる。頭上の世界よりも一足早く闇に包まれる森は、次第にその暗い影を森の外へと伸ばしていた。サンが人間を見つけたのち、日はあっという間に山の向こうへと沈んでいたらしい。
「…もう帰ろうか。」
近づく闇を感じたからか、母親は女の子に優しく言った。おもむろに丸太から立ち上がったその母親は、地べたにしゃがみ込む娘の元に寄る。そしてその隣にしゃがみ込むと、女の子の手を取った。
「さ、行くよ。」
母親は女の子と手をつなぎ、一緒に立ち上がる。手を取られ、引っ張られるように立ち上がった女の子はまだ遊び足らないのか、どことなく不満気な表情を浮かべていた。母親はそんな娘の手をしっかりとつなぎ、その場を去ろうと歩き始める。手をつなぐ女の子もまた、しぶしぶそれに付いていこうとした時だった。
ふっと、夜の清涼を帯びた一陣の風が吹き抜けた。
足元の草が風に揺れ、森の木々が一斉にさわさわと木の葉を鳴らす。森に背を向けていた母親は、囁くように鳴る木々の音に、まるで誰かに呼び止められたかのようにふいに歩みを止めた。歩みを止め、風に波打つ背後の森を振り返った。母親はその瞳で、闇に呑まれつつある深い森を見つめる。夕焼けの中、黒い影を落とすその森は、決して人間を寄せ付けることのない世界がそこにあることを感じさせた。
「誰か来た?」
手をつなぐ女の子が、不思議そうな顔をして尋ねる。母親は静かに森を見つめていたが、隣で見上げてくる娘の視線に気が付いたのだろう。女の子を振り返るとそっと微笑み、「ううん。」と首を横に振った。
「さ、行こう。」
母親は続けてそう言うと、再び森に背を向け歩き始める。女の子もそれに付いていく。人間の親子は手をつないでその場を去っていった。
サンは人間の女の子とその母親が去るまで、そのやりとりに見入っていた。茂みに潜んでいた彼女は、その親子が去るや否や茂みからそっと抜け出す。人間の親子のやりとりが気になったのか、サンは少しばかり警戒した様子を見せながらも、それまで親子のいた場所に近寄っていく。彼女の視線の先には、丸太の上に置かれたもう一つの花の冠があった。単に忘れたのか、あるいは余ったからなのか、それはつい先ほどまでそこに腰かけていた人間の母親が、その場に残していったものだった。
人間の手によって作られた花の冠。人を目にした彼女はその時、親近感どころか、どこか懐かしさまでも感じていたのかもしれない。サンは丸太の上に置かれたそれを手に取ると、気に入ったように頭に載せたのだった。
この日、遠く山の頂からサンを探すモロの遠吠えによって、サンは穴ぐらの方角を理解し、無事に兄弟達の元へと帰ることができた。彼女が穴ぐらに辿り着いたのは日暮れのずっと後のこと。結局、途中まで迎えに来たモロにこっぴどく叱られた。森に迷い、散々寂しい思いをした挙句にモロに叱られたサンは、子供心にすっかり森を歩き回ることに懲りてしまった。
ただ、それでもサンの心に引っかかることがあった。森の外れで目にした人間の親子だ。
初めて目にした人間。それも母親とその娘という親子のやりとりは、サンの心の中に新鮮な印象を残していた。同じ母親としてのモロとはまた違う、別の感情を人間の親子…とりわけその母親から感じ取っていた。サンは何とはなしにそれを懐かしく感じ、また、それが気になっていた。とはいえ、彼女がその日人間を目にしたことをモロに言うことはなかった。この頃まだ幼かったサンは、モロに人間の話をしてはいけないと考えていたのかもしれない。その夜、モロはサンを心配してか、あるいは彼女から何か異変を感じたからか、サンの眠る穴ぐらから離れようとしなかった。月明かりの中、眠ることなく居座るモロの姿は、紛れもなく子を守る母親としてのそれだった。
しかし、そんなモロであっても、疲れ切ったサンの眠る傍らに、木の実や小石に混り一つの花の冠が置かれていることに気づくことはなかった。
次の日、どうしても人間の親子が気になるサンは、夕刻になると再び同じ場所にやってきていた。その日もまた、人間の親子はそこにいた。人間の母親には待ち人がいるのだろう。心配そうに森を見つめる表情は、その次の日も、さらにその次の日も同じであった。サンにしてみれば、人間の母親がなぜ毎日のように娘を連れて、同じ時、同じ場所でいつ来るかも知れぬ人を待ち続けているのか、全く興味のないことであった。それよりも、彼女の関心は常に人間の母親とその娘のやりとりに向いていたのだった。
それからのち、サンは毎日のようにその場所にやってきた。人間の親子もまた、毎日そこにいた。サンは夕刻になると導かれるようにその場所を訪れ、人間の親子を何か羨望をも含む眼差しで見つめた。親子のやりとりは幼いサンの心を引きつけ、彼女は次第にその真似をするようになる。ある時は手に入れた花の冠を頭に載せ、川面に映るその姿に嬉しそうな表情を浮かべ、またある時は人間の女の子が母親に甘えたようにモロに甘えた。人間として生まれながら、それがどういうものなのかを知らずに育ったサンにしてみれば、目の前の親子が見せる姿こそ本来の在り方であるはずだった。それを本能的に感じ取っていたのだろうか。サンはその母親と娘のやりとりに加わりたいのか、毎日のようにそこへ来ては親子のやりとりに見入っていた。だが、それでも彼女が人間に対して姿を見せることはなかった。それから時は流れ、季節は移り変わった。人間を見に通う日々が続くこと早ふた月。冬を目前にしたある秋の日のことだった。
その日もサンは、人間の親子が来ているだろうかと、いつも通り伐採の跡地にやってきていた。だがその日、人間の親子が姿を見せることはなかった。
この日を境に人間の親子は姿を見せなくなる。次の日、また次の日とサンは足を運ぶが、そこには誰もいなかった。それまで、毎日のように誰かを待ち続けていた人間の母親とその娘。始めのうちは何とも思わなかったサンも、突然姿を見せなくなった親子に対し、次第に不思議に感じ始めていた。
「ねぇ、母さん。」
ある秋晴れの日の朝だった。サンは人間のことを尋ねようとしたのか、そうでなければ余ほど気がかりであったのか、たまりかねてついにモロへ人間の話を打ち明けた。
「この前、人間を見たのだけど…。」
モロは『人間』という言葉に反応し、サンを見つめる。サンは一瞬、モロの視線に言葉を呑んでしまう。その間にモロが口を開く。
「お前が人間に…?」
サンは無言で頷く。
「…奴らはどこで見たんだい?」
「…向こうの方。」
サンは小さな声でそう言い、指で方角を指差した。モロはそれを見、続けて尋ねる。
「お前が人間を目にした場所には、木を切り倒した跡があったかい…?」
サンが再び頷く。モロはそんな彼女を見つめると、「そうかい…。」と呟いた。人間のことを口にしたところで、モロが顔色一つ変えなかったからか、サンは少し安心したようにモロに尋ねる。
「でも、この間行ったらもういなかった。それまでずっといたのに。…人間はどうしていなくなったの…?」
その言葉を聞き、モロは再びサンの目を見据えた。
「お前はあそこに通っていたのかい…?」
サンは少し迷いながらも頷く。
「…どうして、人間はいなくなったの…?」
彼女がもう一度尋ねた。モロは少しの間を空けそれに答える。
「村を襲われたのだろう。それだけのことさ。」
「襲われた?」
サンが不思議そうに尋ねた。
「そうさ。同じ人間にね。奴らはこの季節になると略奪を働く。米の刈りいれどきだからね。収穫された米を奪おうという魂胆なのさ。」
「人間が人間を襲うの?」
「珍しいことじゃない。奴らは長い間そうしてきたのだからね。」
「でも母さん…」
サンが口を開いた途端、モロがその言葉を遮る。モロの口調は少し強まっていた。
「サン、人間の考えることなどとても理解できるものじゃない。…奴らがその腹の内で何を考えているのか、奴ら自身分かっちゃいないのだからね。お前が人間共のことを考えることはない。」
「…でも母さん、この前見た人間はそうは見えなかったよ。」
サンのその言葉に、モロは強く反応した。次の瞬間、モロはそれまでになく強い口調で言い放った。
「いいかい、サン。人間ほど欺瞞に満ちた生き物はどこを探したっていやしない。奴らがどんな姿を見せ、口を開いて何を語ろうが信じるには値しない。その内に潜んでいるのは独りよがりな考えばかり。木々を切り倒し、川を汚し、山を破壊しても飽き足らず、終いには互いに殺し合う…。自ら撒き散らした災いで己の身を危うくすれば、祈ったこともない神を頼り己の生を求め、それでもその身が救われぬと分かれば子の命でさえ投げ出す…。我が子の命を差し出し、その引き換えに己は生きようなどとはよくも言えたものだよ…。だが彼奴らは手前勝手が故に己が何を為し、何を為されたのかも分かっちゃいない…。それが人間だ。手前勝手な考えも、自らの欲までも理想で飾り、己が真っ当であると信じて疑わない…。哀れな生き物。だがだからこそ恐ろしくもある…。お前は人間のことなど考える必要はない。奴らのようになりたくなければの話だがね…。」
怒りだけではない。悲哀と焦燥が混じり合っていた。呆れも含んでいた。モロの口調は人間に対する多過ぎる程の負の情念に満ちていた。突然強い口調で言い放たれた言葉に、サンは驚き、すっかり黙り込んでしまった。自分の母親がもつ、人間に対するあまりにも激しい感情を知ってしまった彼女は、そこから人間がどれほど恐ろしい存在であるのかを想像したのだろう。モロの言葉は、まだ幼いサンの心に人間の内面の暗さを印象づけた。
「…サン、お前はあそこに近づいてはいけないよ。」
モロは最後にそう言い残すと、サンの元を立ち去った。
サンは人間が恐くなった。人間の姿を見、その容姿に親しみまでも感じていたからこそ、人間の暗い内面を語るモロの言葉は重かった。
その日、彼女は森を歩き回ることなく穴ぐらに戻った。穴ぐらに入るや否や、森中で集めた木の実や綺麗な小石に交じり、あの日拾った花の冠が目に入る。すっかりしおれ、白い花弁も枯れ落ちてしまったその冠は、もはや美しいものではなくなっていた。それはむしろ、モロから人間の暗い内面を聞いた今のサンにとって、おぞましい物体として目に映るだけだった。サンはその冠を拾い上げ、じっと見つめる。何かを考えたのか、その後彼女は花の冠を手に穴ぐらを後にした。
日が高く昇る頃、彼女はある清流の川辺に一人佇んでいた。片手には花の冠が握られている。彼女は目の前を流れる小川を見つめていた。小川を見つめ、次に手にしている花の冠に目を落とす。そしてそれを握る手に力を込めると、ふいにその腕を振り上げる。
サンはそれを川面に投げ捨てた。
ふっと宙に舞った花の冠はゆれる水面に受け止められ、ゆらりと浮かぶ。緩やかな水の流れにのったそれは、周りに浮かぶ落葉と共にゆったりと流されていった。次第に急になる流れに、花の冠は次の瞬間には水しぶきに呑みこまれ、見えなくなっていた。
秋。長い冬が訪れようとしていた。
まだ幼かった日々のその出来事は、時と共に彼女の記憶の片隅へと追いやられ、次第に忘れ去られていくことになる。その後、幼い彼女が己が山犬ではなく人間であるということ、そして、その同じ人間に捨てられたということを理解するまでに、長い年月はかからなかった。悲しみを感じるよりも先に怒りを感じたサンは、それからのち人間を憎しみ、卑しむようになる。彼女の容姿は人間であるが、それは彼女の生きる姿とはならなかった。人間を恨み、哀れみにも近い怒りを覚えたサンは山犬として生きた。彼女は山犬であり、生涯彼女にとっての母親もまた山犬であった。少なくとも、彼女の心の内の母親が山犬であることは確かであった。
だが、もし成長した彼女が、記憶の奥深くに眠るあの日々の出来事を思い起こしていたら、あるいは彼女は気が付いたのかもしれない。
あの時、丸太に残されたもう一つの花の冠は、サンのために作られたということを。
あの頃、あの場所で人間の母親が毎日待ち続けていたのは、サンであったということを。