最後の日
突然、村の人々が慌ただしく動き始めた。
男達は何かを盛んに叫び、女達は子供の手を引いて住居に急ぐ。中には武具を備える者もいた。それはこの隠れ里では長らくなかった光景であった。
厩でヤックルにヒエの実を与えていたアシタカは、すぐには状況を飲み込めなかった。ヤックルも何事かというように顔を上げ、耳を動かす。
「どうかしたのか?」
彼は近くを駆けて行く男に尋ねた。男は立ち止まり、アシタカに言った。
「アシタカ、ヒイ様が皆を村に戻すようにと言っている。火を焚けとも。何かあるようだ…。」
「ヒイ様が…?」
村の巫女がそのようなことを言う機会は滅多にない。アシタカは事の由を理解する。その時、離れた場所から別の男の野太い声がした。
「だれか、じいさまを呼び戻しに行ってくれ!!」
声のする方へ目をやると、何本もの薪を手にした男が立っている。口髭を蓄え、腰に長身の蕨手刀を挿したその男は、火を焚く準備に手が放せないようだ。それを見たアシタカは、男に向かって叫ぶ。
「私が行こう!!」
彼は厩に掛けられていた手綱と鞍を取り上げる。そしてそっと手綱をヤックルに付けると、今度はその背に鞍を乗せ、ゆっくりとヤックルを厩から連れ出す。
「アシタカ。」
その様子を見ていた先程の男が、彼に話しかける。
「森の様子がおかしい。何かあるかもしれない。弓と刀を持っていけ。」
「わかった。…ヤックル、行こう」
森の異変を感じ取るまでは普段と何ら変わりのないように思えた今日という日が、アシタカにとって、この村で過ごす最後の一日になろうとは、彼自身、微塵も思いはしなかった…。