最終章 前編

サンとの一件があってからというもの、アシタカの面持ちは暗く、自然な笑顔など忘れてしまったかのようであった。

踏鞴場の皆との会話では、たまには微笑みを垣間見せることもあったが、それでもやはり頬が固く、誰がどう見ても無理をしていることは明らかであった。そしてアシタカの表情が曇っている理由を重々承知しているからこそ、踏鞴場の民は皆一様に、彼に声をかけることをためらっているようでもあった。

とはいえ、この地で生きていくには、とうのアシタカを含め、民の皆が気を休ませる暇など無いというのが実情であり、彼ら彼女らは現(うつつ)を生きていくため、変わらず訪れる日々を忙しなく送っているのであった。


「あっ! いたいた! あんちゃん! 覚えてるかい?」

この日、町に下りてきたアシタカに声をかけてきたのは、獣の骨や皮を使った装飾品を路上で売っていた、あの物売りの男であった。

すたすたと近寄ってくる物売りの男に、アシタカは唖然(あぜん)として足を止めた。

「全く、よかったよ。いい加減、俺ももう今日限りでこの町を出るつもりだったからな。頼まれたとはいってもな、いつまでも待ってるわけにはいかねぇからさぁ。」

久方ぶりに再会した物売りの男は、安心したように、そしてどういったわけか、旧友にでも会ったかのような、やけに上々な機嫌で話しかけてきた。

「頼まれた?」

当然、アシタカは不思議そうに目をしばたかせる。

「あぁ、そうさ。あんちゃんの知り合いのおっさんがいたろ? 小柄で、四角い顔した坊主みてぇな奴。あいつからあんたに渡してくれって頼まれた物があってさ。近いうちにあんたが来るはずだって言うから、ここで待ってたんだよ。」

物売りの男が言っているのは、ジコ坊のことで間違いなかった。

アシタカがジコ坊を訪ね、大粒の砂金の両替を頼んだあの日から、今日で十日が過ぎていた。ヤックルに乗ったアシタカが、牛飼いのお頭やその他の踏鞴場の者も連れず、初めてたった一人で町まで下りてきたのは、金(きん)を巡った不測の事態を警戒してのことなのかもしれない。もちろん、単純に人手が足らないということもあったであろう。いずれにせよ、一人で町にやってきたアシタカは、河原にあるジコ坊の住まいを真っ先に訪ねたが、そこには誰もおらず、露店(ろてん)の並ぶ町の中心部をヤックルを引いてあてもなく歩いていたところを、物売りの男に声をかけられたという成り行きであった。

「じゃあこれ。はいよ。」

物売りの男はしゃきしゃきと言いながら、アシタカに皮の巾着を差し出した。じゃら、と鳴ったそれは、どっしりとした重みのある、片腕で持つにはいささかつらそうな巾着であった。

「これは…。確かに、受け取りました。」

中身を察したか、アシタカは目を見開きつつ、軽く礼をした。

「心配すんなって。中身は分かってるが、指一本触れてないからよ。あぁ、そうそう、伝言もあるぜ。」

物売りの男はアシタカには構わず、さっさと話を進めていく。

「伝言?」

「ああ。あー…なんだっけな…そうそう! 師匠の手の者がうろついているとかなんとかで、気を付けろってさ。」

「師匠? 師匠連でしょうか…。伝言はいつ受けたのでしょう?」

「三日くらい前だったかな…。なんだか、そいつらが町とかそこらの村で、神の森のこととか大踏鞴のことを聞いて回ってるって言ってたな。…あぁ、あと、達者でな、だってさ。」

「…そうですか。ありがとうございます。伝言、助かりました。何かお礼を…」

アシタカの申し出を、男は首を横に振りながら断る。

「礼? ああ、いいよいいよ。もうあのおっさんから貰ってるから。まぁ、貰ってるっていうか、ここに持ってきた品、あのおっさんが全部、言い値で買ってくれたからよ。むしろこっちが礼を言いてぇくらいだ。」

「そうでしたか。それは良かった」

アシタカは少し驚いた様子で、ぎこちない微笑みを浮かべた。

「しっかり渡したし、伝えたからな。俺はもう行くぜ。じゃあな。」

「ありがとうございました。」

手を挙げ、小走りで去っていく物売りの男に、アシタカは再び頭を下げるのであった。


両替された宋銭(そうせん)や明銭(みんせん)を受け取ったアシタカは、その日のうちに踏鞴場下流の村へと引き返した。ヤックルには体力的な負担の大きい行程であったが、アシタカにとってはそれだけ急ぎ持って帰りたい知らせがあるということでもあった。

下流の村で一夜を明かした彼は、翌日もヤックルを走らせ、当日の昼には踏鞴場へと帰還した。

そして到着するなり早々に、アシタカは銭の入った巾着とジコ坊からの知らせを胸に、エボシの庭に向かっていた。

「何用だ。」

ここ数日、すっかりお馴染みとなってしまった険しい顔つきのアシタカに、エボシは開口一番で用件を尋ねた。エボシは、己の庭で育つ根菜や葉菜(ようさい)の具合を、お付きの女と共に確かめている最中であった。

アシタカは、畑の畝間(うねま)を歩きつつ、口を開いた。

「例のものを、おあしとやらに替えてきた。私には使い方も価値も分からぬ。だからそなたに渡しておく。」

「ほう。見せてみよ。」

エボシのもとへやってきたアシタカは、唇を結んで巾着を差し出した。お付きの女がそれを受け取り、両腕で抱えつつ中身をエボシに見せる。

「なるほど。程度の良い宋銭がほとんどだな。鐚(びた)はないようだ。良いではないか。」

にっ、と笑んだエボシに、アシタカは付け加える。

「町で、師匠連が辺りの村や町をうろついていると耳にした。シシ神の森や踏鞴場のことを尋ねて回っていると。」

聞いたエボシは口角を上げ、にやりと皮肉な笑みを見せる。

「そうか。大して驚くことでもあるまい。以前そなたに言った通り、はなから分かりきっていたことだ。おそらく、先日もののけ姫が森で見たという怪しい人間も、師匠連の手の者であろう。」

エボシは、「それは小屋へ持って行っておくれ」と優しくお付きの女に言うと、再びアシタカに向き直って尋ねる。

「ジコ坊はまだ町にいるのか?」

エボシの問いに、アシタカは無言で答えた。

「警戒することはない。師匠連の名を知っている者など、そうそういない。見当はつく。あやつに両替を頼むとは、そなたも考えたな。」

だんまりを決め込むアシタカに、エボシは重ねて問う。

「あやつはまだ使える。まだ町にいるならばこちらも頼みたいことがあるのだが…。」

「去った。」

一言だけ、きっぱりと答えたアシタカであった。

「…そうか。逃げ足の速さにかけては天下一であろうな、あやつは。」

そう口にして、エボシは畑を眺めた。エボシの横顔に、今度はアシタカが尋ねる。

「シシ神が姿を失ったあの日、そなたは言っていた。恐れるべきは、師匠連だと。師匠連とは一体、どのような者たちなのだろうか。」

エボシはアシタカの目を見つめ、口を開く。

「奴らは供御人(くごにん)の集まりのようなものだ。」

「供御人?」

繰り返し、先を促すアシタカに、エボシは詳細を語る。

「山海の特産物や工芸品を天朝に貢納する者のことを供御人といってな。ジコ坊が率いていた唐傘連もその一つだ。その名の通り、元を辿れば唐傘を貢納する供御人の集団だ。工芸品を貢納する供御人には、唐傘連の他にも鍛冶師の集まりや、檜物師(ひものし)、塗師(ぬし)、あらゆる集団があるが、各集団の長である師匠が集まり、それら供御人集団の全てをまとめるために作られた組合が師匠連だ。師匠連は武士のような領地こそ持たぬが、その配下に唐傘連など多数の供御人集団を抱えていることから、膨大な富と武力までをも携えた一大勢力となっている。」

「物を作るような人々までもが、侍のように武力を手にしているというのか…」

アシタカは、どこか落胆しているようでもあった。そんな彼に、エボシは淡々と言う。

「驚くことではあるまい。仏(ほとけ)の教えを説き、体現するはずの坊主(ぼうず)どもでさえ、大名なみの武力を堂々と保持しているのが現世なのだ。職人とて力を持っていなければ、己の財産を守れぬ。」

うつむき、絶句したアシタカは、顔を上げると重い声音で問いを重ねる。

「ジコ坊というあの方も、師匠連の一人だったのか?」

「ジコ坊は唐傘連の指導者というだけだ。奴は師匠連に従う立場にあった。我々と師匠連を繋ぐ役回りを担っていたということだ。」

「そうだったのか…。」

「師匠連は朝廷の後ろ盾を得ている。故に、名目上は公方御料(くぼうごりょう)とされていたこの地の森を切り開き、鉄を採ることを認めさせることができたのであろう。明国から石火矢を大量に仕入れることができたのも、奴らが諸国の通行や交易を無税で認められ、関銭(せきせん)も免除されていたからに他あるまい。おおかた、あやつも所持していた認状(にんじょう)を使ってこの地から出て行ったのであろうな。」

アシタカはエボシを見つめると、かすかに強まった語気で問う。

「エボシ、そなたはこの地を拓(ひら)くために、彼らの力を借りたということか。」

「借りただと?」

エボシは目を丸くすると、ふいにけらけらと高笑った。

「借りてなどいない。貸してやったのだ。」

笑いを収めながら、エボシは教える。

「話を持ってきたのは奴らの方だ。天朝か師匠連か、今となっては話の出所もどちらか分からぬが、とにかく奴らの狙いは不老不死の力があるというシシ神の首だった。…だが奴ら、神殺しには少々胆力(たんりょく)に欠けていてな。」

エボシは冷笑を浮かべた。

「…胆(きも)の据わった者がいなかったということだ。そこで、砂鉄の豊富なこの地で鉄を作り、新たな国を築こうとしていたこの私を知り、話を持ち掛けてきたというわけだ…。奴らは人と金(かね)を提供すると言ってきた。それで好きな国を創れとな。そしてその代わりにシシ神を殺し、首をよこせと…。私はその話に乗った。持前の金と受け取った金で人を雇い、買いもした。また師匠連は、私が賊にいた頃に明船から奪った石火矢に目をつけ、それを明から大量に買い付けて配下の者に仕込み、石火矢衆を組織した。そしてその石火矢衆もまた我々に貸し与えた。無論、その石火矢衆四十名は、表向きには私の配下として動いていたものの、その実は私の動きを師匠連に知らせるための監視役であったわけだが…。とはいえ、そうすることで国造りのための人手も金も、武力までをも手にした私は、アサノや地侍も恐れていたシシ神の森に入り、もののけ共と戦い、ナゴの守一族を追い払い、森を焼いて、今我らがいるこの地に踏鞴場を築いたというわけだ。…そして約束通り、神殺しを実行した。」

そこまで言って、彼女は一息ついた。

「私は奴らの力を借りたわけではない。奴らがこの私を必要としていたのだ。神殺しのためにな。我らは互いに利用し、利用されたに過ぎん。」

アシタカは眉に力が入っていた。半ば、エボシを睨んでいるようにも見える、そんな目つきであった。

「そんな目をするな。私の行動によってナゴの守がタタリ神となり、そなたの郷を襲ってしまったことについてはすまないと思っている。だが勘違いするな。後悔はしていない。私には、何かを捨てることとなってでも実現したかったことが…造りたかった国があったのだ。他人のことなど、考える余地はなかった…。」

アシタカは目をつむった。鼻で、すうっと呼吸をした彼は、エボシから視線を外し、話題を変える。

「この地の話をしていると、必ずアサノという名が出てくる。アサノとは、踏鞴場を襲ったあの侍たちか?」

師匠連に唐傘連、石火矢衆、天朝、アサノ公方に地侍…。この地に来てまだ日の浅いアシタカからすれば、あまりにも多く、それでいて複雑な関係の各勢力について知りたいと考えるのは、道理であった。

「アサノか。…よかろう。」

アシタカの立場をよく理解しているからか、エボシは面倒臭そうな素振りも見せずに語り始める。

「この辺りは神の森として古来から恐れられてきたと同時に、かねてから土中に質の良い砂鉄が多く含まれていることが知られていたらしい。畏(おそ)れ敬うべき神の領地である一方、膨大な量の鉄が見込まれることから、朝廷を始めとする公家、侍どもを問わず、人々にとってはあらゆる面で常に要衝(ようしょう)として存在してきた。それ故にこの一帯は全て、古くから公方御料(くぼうごりょう)となっている。将軍家の直轄地ということだ。…だが知っての通り、公方の支配が及んでいたわけではない。表向きは公方の領地であろうが、実際にこの地を支配していたのは、他ならぬシシ神であったからな。」

エボシは羽織(はおり)から隻腕を出すと、指で顎に触れた。

「アサノは、シシ神の森の周縁を掌握している大侍だ。アサノ公方(くぼう)とも呼ばれている。将軍のことだ。だが奴は本来の意味での公方ではない。奴は亡き公方に代わり、この地を任されているただの代官に過ぎん。しかし、御料所へ置かれるからにはただの武家ではないのだろうがな…。」

公方とは元来、将軍に許された号であったが、将軍家の者が地方支配の要職を任された際に自称することもあった。要するにエボシが言っているのは、アサノを公方号で呼ぶことへの疑義であった。

「将軍家と何らかの血のつながりがあるのかも疑わしいが、いずれにせよ奴は世の乱れに乗じてその地位を利用し、自ら公方を称して正当性を主張することで、このシシ神の森をも手中に収めようとしていたわけだ。だが奴もまた神を恐れ、この森に自ら手を出すようなことはしなかった。奴は、領内の地侍どもをそそのかし、あるいは遠方から呼び寄せた名うての踏鞴師に金を出して、己の手を汚すことなく山を切り拓かせたというわけだ。しかしその目論見も、モロの一族やナゴの守一族にことごとく邪魔された。踏鞴師は食い殺され、それを見た地侍共は逃げ出した。」

「そこに、そなたと師匠連が現れたということか…。」

「そういうことだ。師匠連の行動が天朝より認められたものであったとはいえ、アサノからすれば、名目上は所領となっているこの地で、我らのようなよそ者に好き勝手されるというのは気に食わなかったであろう。公方としての威信にも関わり、領内の民に示しがつかないというのもある。だからこそ、奴らは鉄を半分寄越せと言って、我らに事実上の服属を迫ってきた。それが出来ぬと悟ってからの奴らの行動は、そなたも知ってのとおりだ。」

初めてアサノとエボシ踏鞴を巡る一連の流れを知ったアシタカは、エボシの横顔を見つめて確認する。

「そなたは言っていた。アサノについては、当面は案ずることはない、と。信じてもよいのだろうか。森や町に現れた怪しげな者たちは、師匠連ではなくアサノの手の者ということはないのだろうか。」

エボシはばっさりと否定する。

「それはない。配下の地侍どもを通して、一応は下流の村も町もアサノの所領であるのだから、奴らがこそこそ探る必要などない。それになにより、ジコ坊が師匠連の者だと言っていたのならば間違いないであろう。森で山犬一族が見たという者も、同じ時期に現れたことからして、きっと師匠連の手の者であろう。」

アシタカの表情は、一段と険しくなっていた。

「そなたはシシ神の首が失われた今、師匠連の狙いは鉄だと言っていた。もしそうであるなら、彼らとの争いは防がなければならない…。憎しみを生まぬ道を、探さなければ…」

エボシは珍しく、吐息を漏らす。

「シシ神が消えたあの日、そなたは争いとは別の道があるはずだと言っていたな。今は分からぬが、いずれ見えるとも。まだ、それは見えぬのか。悠長なことは言ってられぬぞ。」

エボシの試すような物言いに、アシタカは言葉を返す。

「下流の村の人々とは話し合いで分かり合うことが出来た。あのジコ坊という方とも、そなたたちとも分かり合えた。ならば、師匠連とも分かり合えるはずだ。」

曇りなき眼(まなこ)と、その奥に宿る静かなる意志を見てとったエボシは、まぶたを閉じて笑みを浮かべる。

「…そうであったな。だが、そなたは奴らを知らぬ。すまぬが、この件に関してはそなただけに任せるべきではないと考えている。我らには戦う意志も、手段も無いとなれば、事はわずかな不覚も許されぬ。」

「考えがあるということか」

「策が無いわけではない。すでに手は打った。が、それが上手くいくかどうかは別の話だ。」

真顔となったエボシの目を、アシタカは眉根をこわばらせて見つめていた。しかし、固い目つきのアシタカに、エボシは不敵な笑みを見せるのだった。

「案ずるな。奴らの恨みをこれ以上買うつもりはない。戦(いくさ)も起こさぬ。それより、分かり合えるかどうかで言えば、そなた、師匠連のほかに分かり合わなければならない者がいるであろう。そなたにはそっちをどうにかして欲しい。」

エボシの言う者が誰であるかは、アシタカからすれば明白であった。眉を垂れたアシタカはうつむき、独り言のようにぽつりと言葉を落とす。

「…明日の晩、サンに会いに行く。」

「にしては、浮かぬ顔だな。」

エボシは、アシタカがどのような反応を見せるのか、好奇の眼差しでその様子をうかがっていた。アシタカはエボシを振り向くと、相も変わらず深刻な顔をして言う。

「…話が、うまく折り合っていない…。」

エボシは苦笑し、「材木の話であろう。上手くいっていないのは、近頃のそなたの顔を見れば誰にでも分かる。」と一蹴した。図星であるアシタカはこれといった反応を見せず、口をつぐんでしまった。そんな彼に、エボシは柔らかな口調で言う。

「アシタカ、私はあの娘がそのような話をそなたとしたがっているとは思えん。」

「だが私がしなければならない話だ。」

即座に返したアシタカに、エボシは言って聞かせる。

「シシ神の森の守護たる山犬一族との交渉を、そなた一人に任せるほかない以上、私がどうこう言える立場にないことは分かっている。それに私もここにいる皆も、そなたのことは頼りにしている。以前の私であれば、あの小娘の許しなど乞う必要などないと言っているところだが、今やそういうわけにもいかん。」

エボシはアシタカに向き直った。

「アシタカ。ただ木を伐り出したいという話をするために行くのであれば、そなたである必要はない。他の者に行かせればよい話だ。なんなら私が話をつけてもよい。」

「サンは、そなたとは話をしないだろう。」

やはり即答したアシタカに、エボシは真剣なまなざしのまま、即座に言う。

「だろうな。だが、このままではそなたとも口をきかなくなるぞ。」

アシタカは、口を閉ざすほかなかった。エボシはお構いなく続ける。

「そなた、今まであの小娘と会ってきて、何を話してきたのだ。ここの皆が材木が欲しいと言っていることか?」

「それだけではない。私は、踏鞴場の皆と森が共に生きることを願っていると、サンに伝えている。」

「それで、話が伝わったのか?」

言葉を失ったアシタカに、エボシは畳みかける。

「私は右腕を失ったあの時、シシ神の池でそなたたち二人のやりとりを見ていた。あの小娘はそなたを信頼していた。だが、今やその信頼は揺らいでおろう。しかしそれでも、あの娘は今この瞬間もそなたと生きたいと願っているはずだ。こんな時、そなたが伝えるべき言葉は、人と森がうんぬんなどという話ではないはずだ。」

アシタカはエボシと瞳を交わしたまま、唇を結んでいた。何も言わず、エボシの話に耳を傾けているのであった。

「そう驚くことではなかろう。私とて鬼ではない。」

うつむくアシタカ。一時(いっとき)の沈黙。

すると、エボシは羽織を翻(ひるがえ)し、すっかり口を閉ざしてしまったアシタカを置いてけぼりにして、さっさと歩き出す。

「私はこれから、下見に来た大工の棟梁と会わねばならん。銭の話がある。」

畝間(うねま)を抜けたエボシは、庭から去りつつ、背中から言葉を置いていく。

「そなたが替えてきた銭、大事に使わせてもらおう。感謝しているぞ。」

無言のアシタカは、畑にぽつねんと立ち尽くすのであった。


ところで同日の夕刻、牛飼いのお頭は甲六、トキの三人で飯を囲っていた。飯といっても、青菜(あおな)や芋がほんの申し訳程度に入っている、味の薄い雑穀粥(ざっこくがゆ)という貧相なもので、大(だい)の大人の腹を満たすようなものではない。

「味しねぇ…」

粥を一口含んだ甲六が、毎食の口癖となっている一言を漏らした。そんな甲六に、トキは履いていた草履(ぞうり)を手にして夫の顔にパシっと投げつける。

「うるさいんだよ、あんた! 毎日毎日おんなじこと! おまんま食えるだけ感謝しな!」

首をすくめた甲六に、トキは容赦のない声で怒鳴った。人目を気にしない夫婦喧嘩を見せられたお頭は、ため息を漏らしつつ口を開く。

「なに言ってやがる甲六。今日は味噌の匂いがするじゃねぇか。気持ちは分かるが、ぜいたく言うもんじゃねぇ。」

しかし、甲六はあからさまに肩を落として、余計な一言を付け加える。

「…魚、食いてぇ…」

すかさず、トキがもう片方の草履を手に掲げ、投げつける構えを見せる。にらみつけてくるトキの迫力に、甲六は委縮して沈黙するのだった。

風雨の無いこの日、三人は刻々と暗くなっていく夕空の下で、火にかけた土鍋を囲っていた。そもそも、お頭が夫婦のもとを訪ねてきたのは、踏鞴場の皆の状況や、下流の村のこと、食糧や住居のことについて、主に女衆をまとめているトキと話をするためであった。男衆をまとめているお頭は、時おりこうして甲六、トキと飯を食べつつ、互いの情報を交換しているのであった。

「…そういやお頭。最近、ゴンザの旦那見やした?」

ひび割れた鍋もすっからかんとなり、お頭とトキの話も一通り済んだところで、甲六が二人の会話に割って入った。

「ゴンザの旦那なら、エボシ様の使いで出てったきりだな。」

「まだ帰ってこねぇんですかい。」

目をしばたいた甲六に、トキが教える。

「ゴンザなら、この前一度帰ってきてたよ。」

「え、そうなの?」

驚く甲六。お頭もまた、甲六と同じ反応を見せる。

「そりゃ知らなかったな。にしても、一体どこで何をされてるのか…。」

「そうだね。ま、あたしはそんなに興味無いけどさ。必要なことだったら、エボシ様がみんなに言ってくれてるはずだから。」

「それもそうだな。」

特に深堀りしないお頭とトキとは対照的に、甲六は疑問の言葉を口にする。

「でもよ、この人手の足りない時に、ゴンザの旦那とお供(とも)を使ってでもエボシ様がやりたいことって、何だよ。よほど大事なことなんじゃねぇか?」

すっと目を細め、眉間をゆがめていかにも考え事をしているという表情を作って見せた甲六に、トキは軽い調子で返す。

「どうだか。一度帰ってきたその日のうちにまた出て行っちまったみたいだから、よっぽど忙しくしてるのは間違い無いんだろうけどねぇ。」

「ここんとこ、森や人里で怪しい連中が目撃されてるみてぇだが、それと何か関係があるかもしれねぇな。」

五指(ごし)で肉厚な顎を揉みながら、お頭が言った。

「俺も聞きやしたぜ。その話。踏鞴場のこととか、シシ神の森のこととか、尋ねて回ってる奴らがいるそうじゃないですかい。この前なんか、下流の村にも来たとか…。」

「そうらしいな。どうも怪しいからって、村の若い奴らが追っ払ったらしいが。」

「まったく、嫌な話だね。」

お頭と甲六の話に、トキは吐き捨てるように言った。トキは、星々が瞬きはじめた宵の空を仰ぎ、ぽつりとこぼす。

「…何も、起こらなきゃいいけど…。」

「…そうだな。」

トキの不安気な言葉に、お頭と甲六はこくりとうなずくのであった。


さて、砂金を両替してからのアシタカは、踏鞴場での、もしくは下流の村での復興作業に日々、精を出していた。踏鞴場にしても下流の村にしても、現状は家屋や田畑を元に戻すために必要となる、最初にして最も肉体的重労働である瓦礫(がれき)の片づけが主な作業であった。

踏鞴場の場合、生き残った者の捜索が苦渋の決断をもって打ち切られて以降、男衆を中心に、燃えるか、あるいはデイダラボッチのどろどろによって倒壊した家屋群の片づけが行われていたが、町への荷送りや下流の村の再興作業へ人手を割いたこともあり、作業はなかなか進んでいないというのが実情であった。中には、体力的、時間的負担を憂いて、全てを燃やして更地(さらち)にした方が良いのではという声もあったが、若い森へ火の粉が舞うのは避けたいという意見と、そして何より、まだ行方知れずとなっている者たちの遺体が瓦礫の下に眠っているのなら、とっくに手遅れであろうともせめて見つけ出してあげたい、という声が上がったため、引き続き手作業で瓦礫の撤去を行うこととなった。実際、時にはとうに腐敗の始まっている亡骸が見つかることもあり、その際には身元が分かろうと不明であろうと、精神的、肉体的に辛かろうとも、仲間として丁重に埋葬を行うのであった。

かたや、下流の村においては、踏鞴場から派遣された数名の男が、土石流による枝条や土砂の片づけを進めていた。ほとんどは村人の手で撤去された後ではあったが、一部の田畑や平地は未だ手つかずであったため、少ない人数ながらもまずはそこから手をつけていった。また、川にも枝条のみならず流木までもが堆積していたため、大雨が降ればさらなる被害を招きかねないという懸念から、踏鞴場で掘り出した斧やのこぎりを持ち込み、地道に切りながら少しずつ撤去を行っていった。

日に日に暑さも増していく中、アシタカは牛飼いのお頭と手分けをして、踏鞴場と下流の村を数日毎に交代しながら作業の指揮を取り、さらに自ら率先して力仕事も担っていった。


そして、来る日も来る日も肉体労働に勤しんでいるうちに、その日は来た。


半月の日。サンに、また会いに来ると約束した日であった。

当日、アシタカは日の出に合わせて踏鞴場を発った。飯炊きの女衆は、早朝からヤックルにまたがるアシタカを目にして、雑穀と白米を混ぜて握った焼き握り飯を渡そうとしたものの、アシタカにやんわりと断られてしまい、森へ向かっていく彼を口数少なく見送るほかなかった。

若木と名もなき草に包まれ、そびえ立つのは巨大な枯れ木ばかりという、森と表現することがはばかられるようなシシ神の森に入ったアシタカは、言わずもがな、サンの穴ぐらへとヤックルを歩かせていた。

ところがこの日、穴ぐらにサンの姿はなかったのである。

「…サン。」

穴ぐらに立ち入り、高台へと抜けたアシタカは、誰もいない、閑寂とした山々を見回しつつ、サンの名をつぶやいていた。

もちろん、アシタカはサンを待った。日中、穴ぐらで待ち続けたが、サンも、兄弟の山犬も、ついに現れることはなかった。

長い時を一人で過ごした彼は、日没を迎え、峰々の黒影が濃く、深くなった頃に、ようやく穴ぐらから出てきた。

「…サンを捜す。帰ることは出来ない。」

四肢を畳み、涼やかな夕風を浴びつつ草の上でくつろいでいたヤックルに、アシタカは険しい顔でそう語りかけるのだった。

主人の想いに理解を示したらしいヤックルにまたがり、アシタカは闇の迫る森でサンを捜した。刻々と色味を失ってゆく空には、宵の明星と、半月が輝きつつあったが、アシタカは踏鞴場には帰らず、日ごろサンと散歩していた獣道や、サンが愛でていた大樹、野苺の群生地を回った。だが、彼女はどこにもいなかった。

「サンはここにはいない。」

サンを捜しに、谷の水飲み場まで下ってきたアシタカに、大岩の上から野太く、うなるような声が浴びせられた。

山犬であった。山犬の目は月に光り、陽もとっぷりと暮れて暗くなった森に浮かんで、アシタカをじっと見ていた。

「サンはどこにいる。」

アシタカは山犬に尋ねた。荒げてはいないが、問いただすような言い方であった。

「…お前には、分かっているはずだ。」

山犬は言い、眼光は消えた。

アシタカは何も言わず、唇を結んでいた。

そして、夜半(やはん)となった。

月夜の下、視界に収まりきらないほどの巨大な倒木が折り重なっているかつての森の中心部を、アシタカはヤックルにまたがって進んでいた。

獣道さえ無い荒地を歩んでいると、壁のような倒木がアシタカとヤックルの行く手を阻んだ。ヤックルを止め、目の前にそびえる倒木を見上げたアシタカ。彼は無言でヤックルから降りる。

倒木の下に、人が潜(くぐ)ることのできる空間があった。アシタカはヤックルを振り返ることなく、独りで倒木を潜っていくのであった。 

巨大な倒木を潜り、顔を上げると、そこはシシ神の池であった。かつて池を囲っていた巨木群は無惨にも倒れ、地に伏している。

夜半である。しかし、闇ではなかった。

星月の、乳白色の光が水面(みなも)をゆらゆらと漂い、シシ神の池を淡い輝きで満たしている。

開けた宙(そら)に舞う星屑と、暗と明、異なる二面性を背中合わせに宿す半月(はんげつ)によって照らされた湖畔に、サンは独り、立っていた。

「サン」

サンの背中に、アシタカは静かに呼びかけた。湖面にきらめく月光を背に、サンがそっと振り返る。

彼女はアシタカを見据えた。立ち尽くすサンの右の手には、槍が固く握られていた。

立ち止まるアシタカ。彼女を見つめ返す。眼(まなこ)には、一点の曇りもない。

静寂。アシタカもサンも、言葉を発さなかった。互いに瞳を寸分もそらすことなく、ただ見つめ合う二人。

言葉は無くとも、互いの姿を、顔を、瞳を見つめ合ううちに、サンの大きな瞳が鮮烈さを弱め、ふと黒目の光と共に震えていく。張り詰めた弓の、震える弦(つる)のように、月の光にざわめく彼女の瞳の奥底。研ぎ澄まされた刃(やいば)の、美しいその切先にもよく似た鋭さを宿す横顔。悲しみと、怒りに潜む彼女の真(まこと)の心を知るのは、森の精たるもののけ達だけなのかもしれない。過去と、そして未来への決意をもってこの場にやってきたはずの彼女の表情は、それでもアシタカという一人の少年を前にして、やはりというべきなのだろうか、少しずつ、少しずつ寂しげな面持ちへと移ろっていた。

抗えぬ想いを抱えているであろうサンの、表情が、胸の内が、迷いに揺れているのだった。

アシタカは、そんな彼女の瞳を見つめていた。そして、今や悲しげな眼差しを向けてくるサンを前にして、呆然と立ち尽くすようなことはしなかった。

止まっていた時を再び未来へと進めるため、アシタカはサンのもとへ歩み寄っていく。

サンは、戸惑う瞳でアシタカを見つめるばかりで、彼を止めようとはしなかった。止めることなど、できないのであった。

拒否することも、去ることも、ましてや槍を向けることも、何一つできずに立ち尽くしているサンを前にして、アシタカは足を止めた。

「…なぜ、来たんだ…。」

小さく、言葉を絞り出すサン。声は、微かに震えていた。

アシタカは、真っ直ぐな眼(まなこ)でサンの瞳を離さず、力強く、はっきりと答える。

「そなたと共に、生きるためだ。」

サンの瞳が大きく揺らぐ。

「来るなと言ったのに…!」

アシタカはそっと語りかける。

「どんなことがあろうと、そなたと…サンと共に生きると誓った。だから必ず会いにくる。何があっても。」

彼は、サンの肩にそっと手を添える。アシタカを前に、彼女はもうどうすればよいのか分からないようであった。

「…私だって、アシタカと生きたい…。でも、お前は、アシタカは…」

つぶらな瞳がきらりと輝き、すっと一滴の雫が、サンの頬をつたう。

「…アシタカは…私より…この森より…人間達の方が大事なんだ…。人間達の方が…!」

堪え切れず、胸の奥深くから一斉に溢れ出る想いが、その瞳に、言葉に、滲み出ていた。

アシタカは、両の手をサンの肩に添え、言う。

「サン、私にとって、この森も、踏鞴場の皆も大事だ。」

「…そうじゃない。私は…お前にとって私は…」

一滴、二滴、連れて頬を流れる雫。止まらなかった。

「踏鞴場も森も、皆、大事なんだ…。」

アシタカの口から放たれた言葉に、サンは哀しさに濡れた顔を伏せる。そして、彼女はそのままアシタカの前から立ち去ろうとした。

しかし、アシタカはそうさせなかった。

彼は、サンに添えていたその手で、彼女を引き止める。サンの耳飾りが揺れ、月光にきらりと光った。

「…離せ。」

「離しはしない。」

「なぜだ。森も人間も、あそこにいる奴らも私も、皆同じなら私に構うな。共に生きようなんて言うな…頼むから…。」

「森も人も、皆大事だ。私にとって。…だが、そなたは違う。そなただけは違うんだ。この森や、踏鞴場の皆とは…。」

アシタカは彼女を引き寄せ、顔を逸らそうと必死なサンの、その濡れた瞳を見据えて言うのだった。

「私はそなたが……」

そっと、彼女の頬に手を触れ、自らに向けさせるアシタカ。

「……サンが、好きだ。」

頬に添えていた手を彼女の背に回したアシタカは、サンを優しく抱き寄せた。

「…そなたには、私のそばにいて欲しいんだ。」

「アシタカ…。」

サンは、もう自らの想いを心に閉じ込めようとはしなかった。

「…私だって、アシタカが好きだ…。」

「分かっているよ。シシ神が姿を消したあの日、そなたが言ってくれた。人間は許せなくとも、私のことは好きだと。」

「違う…! そうじゃない! 分かってなんかない…!」

彼女はアシタカの胸の中で首を振ると、彼を見上げて言う。

「…あの時はそう言ったかもしれない。あの時はそうだったのかもしれない。…だけど、今は違う。あの時とは、違うんだ…。」

サンは想いを必死に伝えようとしているが、溢れる気持ちに胸がつまり、言葉が出ていなかった。何も言えずにアシタカを見つめるサン。瞳から滲む雫が、頬から滴っていく。

「アシタカ…私、私…」

言葉を絞り出すサン。しかし、彼女が言い終えないうちに、アシタカは両の腕で彼女を一層強く抱きしめ、そして言うのだった。

「大丈夫。分かっているよ。始めから。」

サンは目をつむり、アシタカの胸に顔をうずめる。

「…ずるいな、アシタカは…。」

アシタカの胸の中で、言葉を奪ってしまいそうなほどの嗚咽を懸命に堪えて、サンは言った。彼女の手にはもう、槍は握られていなかった。

「すまない。許しておくれ。」

瞳を閉じ、サンを胸に抱きしめたまま、アシタカは言う。

「サン、私を信じて欲しい。私を、信じて欲しいんだ。…はじめから、そう言うべきだった。」

サンはアシタカの胸に顔をうずめたまま、静かに答える。

「…分かった。アシタカを信じる。アシタカが見ている世界も、目指そうとしている世界も、私は信じる。」

「ありがとう。」

どれほどの時であっただろうか。星空の下で、二人はしばらくそうして身を寄せ合うのであった。

その晩を、アシタカとサンは湖畔で過ごした。二人きりの静かな池の畔で、満天の星を眺めながら未来を語らうアシタカとサンの手指は、固く絡(から)まり、しっかと結ばれているのであった。

憎悪と殺戮の果て、何が正しく、間違っているのかさえ見えないこの世界で、新たに「いい村」を創ろうと歩む踏鞴場の民と、シシ神の消滅とともに新たな緑が生まれ、育ちはじめているかつての太古の森。その狭間で、アシタカとサンもまた、この地の凄惨な過去と直面しながらも、ゆっくりと、着実に未来へと歩んでいるのであった。



「サン! サンはいるか!」

翌朝、アシタカとサンは山犬の吠えるような呼び声で目を覚ました。

静かに昇る朝日と、小鳥のさえずりを裂いた山犬の声には、焦燥(しょうそう)の色が滲んでいた。池の畔で、寄り添うように眠っていたアシタカとサンを見つけた山犬は、垂れた舌を慌ただしく揺らしつつ、二人のもとへ駆けてきた。

「…どうかしたのか?」

ひたひたと目をこすりつつ、うつろな眼(まなこ)で身を起こすサン。隣では、異変を察したのであろうアシタカも目を覚まし、半身をもたげている。

一頭の山犬は、そんな二人の目と鼻の先でぴたりと四足を止めると、はぁはぁと息を漏らしながら言う。

「人間の道を、怪しい連中が上ってきている! それも数人どころの話じゃない! 百はいるぞ! このまえ森で逃した奴らと同じ臭いがした。火薬の臭いも。どう見てもただ事ではない。急いで来てくれ!」

「師匠連の手の者か…!」

山犬の言葉に、すっかり眠気も吹っ飛んだと見えるアシタカは、サンの横で目を見開き、すっくと立ち上がっていた。

「奴らはお前たちの里へ向かっている!」

拳(こぶし)を握っているアシタカへ、山犬が教えた。

「踏鞴場へ…? サン!」

サンはアシタカを見上げた。アシタカはサンと瞳を交え、言うのであった。

「私と一緒に、来てほしい。」

サンの答えは早かった。彼女は素早く立ち上がるなりアシタカを見つめ、何も言わずにうなずくのであった。



「百人はいるってさ。」

「まずいよ。どうするんだい?」

「どうにもこうにも、戦うことなんか出来ないじゃないか。もう石火矢はないんだよ?」

師匠連の手の者と思わしき一団が向かってきているという一報に、踏鞴場では多くの民が慌てふためいていた。

「皆、よく聞け! まずは大門を塞ぐ! 障壁を築いて奴らの侵入を防ぐのだ! 廃材ならいくらでもある! それ以外でも使えるものは何でも使え! 急ぐのだ!」

右往左往する民に、エボシは冷静に呼びかけていた。

この朝、日の出と時を同じくして、下流の村に派遣されていたはずの男のうちの一人が突然、疲労困憊の姿で旧大門前に姿を現していた。早起きして飯炊きをしていた女衆によって驚いて迎え入れられたこの者は、疲労で脚が震え、立っているのもままならない有り様であったが、それでも呼吸も絶え絶えに口を開き、怪しい一団が町から山道を上ってきているとの知らせを、トキをはじめとする女衆に伝えたのであった。

一睡もせずに山道を駆け上ってきたというこの男は今、ぐったりとして横になっており、エボシから労(ねぎら)いの言葉を尽くされたばかりであった。

「ですがエボシ様、アシタカの旦那がまだお帰りになってません。」

不在のゴンザに代わり、エボシと共に皆を落ち着かせようと声をかけていた牛飼いのお頭が、小声でエボシに訴えた。

「あやつ、このような時に森で一夜を過ごすとは…。」

苦い表情を浮かべ、独り言のようにぶつくさとこぼしたエボシは、口調を改めてからお頭に告げる。

「アシタカのことだ。あやつであれば心配なかろう。それよりも今はここにいる者のことを考えねばならん。とりあえずは門を塞いで時を稼ぐのだ。良いな?」

「旦那のことですから、大丈夫だとは思いますが…分かりやした。」

うなずいて応じたお頭は、その場にいる者たちを振り返り、大声で令を下す。

「聞いての通りだ! 最優先で門を塞ぐ。いいな!」

「へい。」

「分かったよ。」

居合わせた男衆、女衆ともに、威勢よく返事をした。

大多数の者は、己の役割が出来てひとまず落ち着きを取り戻したようであった。とはいえ、中には旧門へ走りながら弱音を漏らす者もちらほらといた。甲六などは、その最たる例であった。

「アシタカの旦那もゴンザの旦那もいねぇって時に…あぁ、もう駄目だ。おしめぇだ…。」

走りつつ天を仰いだ甲六に、並走していたトキが肘で一突きをかます。

「馬鹿言ってんじゃないよ! せっかくここまで生き抜いてきたんだ。こんなところでくたばってたまるかい!」

しかし甲六の様子は変わらない。

「だって…どうするってんだよ。アシタカの旦那も、ゴンザの旦那もいねぇ。石火矢もねぇ。おまけに数でも向こうが上だ…。駄目だ…どうにもなんねぇって…。」

「そんなこと、出来ることが無くなってから言いな! まだ終わりじゃない! やれることならある! 手を尽くしてもいないのに絶望なんかするもんじゃないよ!」

叱咤(しった)したトキは、懸命に走りながら独り言をつぶやく。

「…やれることをやれば、きっとどうにかなる。きっと。」

甲六とトキ、お頭、そしてその他の民も、急ぎ旧門へ駆けるのであった。



言わずもがな、アシタカはヤックルに、サンは山犬にまたがり、風を切って山中を駆けていた。道中、もう一頭の山犬と合流したアシタカとサンは、踏鞴場へと直行していた。

「そろそろ奴らもお前たちの里に着く頃だろう。」

サンを乗せた山犬が、はっはと息を切らしながらアシタカに言った。唇を噛むアシタカ。

「頼むぞ、ヤックル…!」

たたっ、たたっ。アシタカの一言に、ヤックルの足並みは一段と速まっていた。

アシタカ、サン、ヤックル、そして二頭の山犬兄弟は、山中をひた走る。

「もう近いはずだ!」

先頭を切って走っていたアシタカとヤックルに、わずかに遅れつつあったサンが叫んだ。山犬兄弟、とりわけサンを乗せている山犬は、険しい岩場を抜け、最短で踏鞴場へと向かうヤックルの軽やかな足取りに付いていけないようであった。

一先(いちさき)に崖から跳び、ぬかるんだ土に着地したヤックルとアシタカ。目の前には湖が広がっており、対岸に踏鞴場が見えていた。

「火薬の臭い…。」

踏鞴場に目を凝らし、アシタカはつぶやいた。

遅れて、サンと二頭の山犬も崖から跳び下りてくる。

「様子がおかしい…。」

騎上のアシタカと並び、サンが言った。山犬も鼻をもたげ、ひくひくとさせている。

その時であった。

どうん、どうん。と、空気を震わせるような轟音が立て続けに湖面を揺さぶり、響いてきた。

「石火矢…!」

アシタカは身を乗り出して対岸を見つめた。踏鞴場の旧大門にほど近い路上で、次々に白煙が上がっている。橙色の小袖を着た石火矢衆が大勢並び、隊列を組んでいるのが遠目にも見えていた。

どうん、どうん。火薬が爆発する轟音は畳みかけるように発しており、その度に白煙が昇り、濃くなっていく。

「湖を行けば早い!」

サンがアシタカに訴えるが、アシタカは首を振った。

「それでは狙い撃ちにされてしまう…! 湖畔を回ってあの者たちの背後に!」

「分かった!」

サンがうなずくなり、ヤックルを走らせるアシタカ。サンと山犬も彼を追い、湖畔を駆けていくのであった。



この時、踏鞴場旧門は、石火矢による猛烈な攻撃にさらされていた。

「やはり師匠連の手の者か。宣告も無しにいきなり撃ち込んでくるとは…。こちらが退去に応じぬと知ってのことであろうな。」

ありったけの廃材を山のように重ねて急造した障害壁(しょうがいへき)の裏で、エボシは渋面を浮かべて歯ぎしりをしていた。

どうん、どうん、という石火矢の発砲音。そして、礫(つぶて)を撃ち込まれた廃材の破裂音が響く中、踏鞴場の民は今も壁の補強に忙しなく動き回っている。

「退去? 奴らの狙いは俺らがここを出て行くことにあるので?」

陣頭指揮を取っていた牛飼いのお頭が、エボシを振り返って尋ねた。

「奴らはシシ神の首を取り損ねたからな。投じた金(かね)をこの地の鉄で回収しようとしておるのだ。」

「ったく、猪との戦(いくさ)やデイダラボッチのせいで、奴らだって何人も犠牲を出したってのに…。師匠連とかいう連中は恐れ知らずというより、ずいぶんと業突(ごうつく)なようで。」

お頭は顔をしかめて言うのであった。

「エボシ様!」

トキの声がした。エボシのもとへ、薙刀(なぎなた)を手にしたトキが走ってきていた。

「とりあえず人力で運べるものは運んだよ。今はでかい材を牛に運ばせてる。」

デイダラボッチによって炎上、倒壊し、廃墟と化していた踏鞴場には廃材が溢れていたものの、人力で運べるものばかりではなかった。とりあえずは人力で積み上げた廃材の山で旧門を塞いでいたが、石火矢や焙烙火矢(ほうろくひや)による攻勢に、その場しのぎの壁が長く持ちこたえられないであろうことは、石火矢衆の脅威をよく知る踏鞴場の民からすれば容易に想像できることであった。

「そうか。よくやってくれた。あとは牛飼い衆に任せ、残りの者は得物(えもの)を手にして門に集まるように言っておくれ。」

エボシは冷静に、かつこのような時であっても優しい口調で、トキに指示を下すのであった。火薬が無いため、無用の長物となってしまっていた自前の新式石火矢は売ってしまったが、拾い集めた刀や薙刀の一部は踏鞴場に保管してあった。

「はい!」

重みのある声で答えたトキは、皆のもとへ踵(きびす)を返すのであった。



その頃、湖畔を迂回していたアシタカとサンは、踏鞴場を襲う武装集団の背後に回ろうとしていた。

「アシタカ、あそこ!」

畔(ほとり)の岩場をつたって走っていると、サンが叫んだ。サンは山腹の人道を指さしていた。

踏鞴場から町へと下るための山路(やまじ)は、一部が湖に面した山腹を横切っている。サンは、その道の一点を指でさしていた。

「あれは…。」

アシタカが見やると、遠く、山腹の道を十数名の人間が走っている姿があった。刀や薙刀を手に踏鞴場へと急いでいる様子の一行は、師匠連の手の者とは格好からして異なり、質素な身なりは農民のそれであった。

「彼らは下流の村の者だ! この地を狙う者ではない!」

アシタカはサンを振り返って伝え、さらに続ける。

「彼らと合流する!」

うなずくサン。アシタカはヤックルの首を転じ、急峻な傾斜を中腹の道へ登るのであった。

人道に出たアシタカとサンは、村人の一行を追った。

「いた!」

サンが声を上げた。道を辿って尾根を回ったところで、一行の後ろ姿が見えてきた。

たたっ、たたっ。ヤックルの蹄(ひづめ)の音に気付いたか、下流の村人の一人が後方を振り返る。

「おい! あれ!」

追ってくるアシタカを目にとめ、村人が仲間に声をかけた。

「ありゃアシタカの旦那じゃねぇか?」

「あ? …ほんとだ。旦那だけじゃねぇ。山犬までいるぞ。おい! みんな待て!」

若い男の一声に、一行はぱったりと足を止めた。皆、息が上がって肩が上下している。

「旦那! こんなとこで何してんすかい!」

男のうちの一人が、向かってくるアシタカに叫んだ。皆を止めたこの男は、下流の村で若い男衆を率いているあの若造であった。

「私が出ている間に踏鞴場が襲われてしまった! 皆、駆け付けてくれたのか!?」

一行の眼前でヤックルを止めるアシタカ。遅れて、山犬に乗ったサンも隣に並ぶ。

「や、山犬…。」

「山犬の姫か…。」

一行のうちの数名は、サンと二頭の山犬にたじろいでいた。中には後ずさりして、刀を握りしめる者もいる。

「恐れることはない。山犬一族は私と共に行動している。」

見かねたアシタカが、一行に言って聞かせた。

すると、一行の中から中年の男がアシタカのもとへ進み出てきた。

「旦那、踏鞴場が石火矢衆みてぇな奴らに襲われてる。数も百はいる。急がねぇとみんなやられちまう…!」

疲労からか、息苦しそうに言ったその者は、踏鞴場から下流の村へと派遣されていた男の一人であった。どうやら一行は、下流の村へ遣わされていた踏鞴場の男衆と、村の若者衆の混ぜ合わせのようであった。

「エボシはこのことを知っていたのか?」

尋ねたアシタカに、男は口早に答える。

「昨日、一番体力がある奴を早使(はやづか)いとして先行させやした。無事に着いてりゃ、奴らの襲撃前には知らせも届いてたはずだ。」

「そうか…。」

「俺らも、村にあった刀を借りてこうやって後を追ってるところで。そしたら、こいつら村の若い衆も一緒に行くって言うもんですから…。」

男の説明を貰い受け、下流の村の若造が待ってましたとばかりに口を開く。

「あたりめぇだろ! せっかくあんたらとの話がまとまって、踏鞴も再建しねぇって約束したのに、ここにきてあんな変な奴らにこの地を奪われたら、何もかもひっくり返って元(もと)の木阿弥(もくあみ)じゃねぇか! また鉄を作られたらこっちが困るんだよ! それに……」

若い男は踏鞴場の男衆を見る。

「……あんたたちの決断と行動には、こっちも感心してるんだ。もちろん、元をたどれば全部あんたらのせいではあるけどな。それでもよ、起きたことの責任を取ろうと、俺たちの村で一緒に汗を流すあんたらの姿を見てきたんだ。それでほっておけるかよ。」

若造は、ふすん、と鼻を鳴らして言ってのけるのであった。

「ありがとう。」

アシタカは真剣なまなざしでうなずき、若い男に礼の言葉を渡した。

「それより急がねぇと。みんなが危ねぇ…!」

中年の男が刀を握りしめ、アシタカに迫った。

「分かっている。だがむやみに互いを焚きつけ、争いを広げるようなことはしてはならない。頼む。」

「あいさ。」

「分かってるよ。」

アシタカの頼みに、踏鞴場の者も下流の村の若者も、皆一様にうなずくのであった。



時に、踏鞴場の旧大門は依然として石火矢による激しい砲撃を受けていた。

「どうやら、斬り込んではこないようで。」

外で隊列を組み、白煙を昇らせながら石火矢を撃ってくる武装集団を、お頭は積み上げられた廃材の隙間から覗き見ていた。旧大門を塞いでいる障害壁は、容赦なく撃ち込まれる礫(つぶて)にも未だ耐えている。

「奴らは侍ではないからな。命の惜しい連中だ。」

門外を覗きつつ、エボシが答えた。

「こっちにとっちゃ助かりますが、多少の時を稼ぐことにしかなりません。この先はどうするおつもりで?」

尋ねたお頭に、エボシは眉根を寄せて言う。

「そろそろアシタカが来るであろう。あやつのことだ、連中との対話を試みるはず。それでどうにかなるとは思えんがな。」

「旦那ならきっとどうにかしてくれるでしょう。村の連中に襲われた時もそうでした。」

「そう願うが、師匠連はそう容易(たやす)い相手ではないぞ。だからこそ私も手を打ったが、果たして間に合うか…。」

そう言ったエボシの顔は、相変わらず険しいものであった。

「すでに手は打ったということで?」

「こうなることははじめから分かっていた。だが問題は時だ。今は少しでも時を稼ぎたい。アシタカが事を解決してくれるのならば言うことはないが、それが出来なくとも半日…いや一時(いっとき)でも時を費やして欲しいものだ。」

お頭は力強くエボシに返す。

「俺らにも武器が無いわけではありませんで。それなりに時を稼ぐことは出来ます。皆、どうするべきかも分からない中で抵抗するより、目的がはっきりとしていた方が力も出るものです。」

「そうだな。頼りにしているぞ。」

「へい。お任せください。俺は少しでも時を稼ぐのが大事だと、皆に伝えてきます。」

お頭は、さっと軽く頭を下げるなり、小走りでトキや甲六たちのもとへ向かうのだった。

お頭の背を見送ったエボシは、再び門外を覗き、小さくつぶやく。

「…さて、ああは言ったものの、私の策が実るとは限らん。アシタカ、こうなってしまった今、そなたも当てにしているぞ。」

エボシは、立ち籠める白煙に霞(かす)む山々を見上げていた。



「おい旦那、どうして道を行かないんだよ!」

説明もなく道から逸れ、急峻な山肌を登っていくアシタカに、村の若造が叫んだ。

ヤックルにまたがるアシタカは、サンと山犬兄弟、そして踏鞴場と下流の村の男衆全員を、道上(みちうえ)の斜面に導いていた。

植物が育ってはいるものの、かつての大踏鞴の操業によりすっかり土壌が流出してしまっていた山肌は、ごつごつとした岩がいたるところで地表に露出しており、足場も決して良いとは言えなかった。にもかかわらず、アシタカは道を行かなかったのである。

「道には隠れる物がない! そなたたちを石火矢の餌食(えじき)にさせるわけにはいかない! それにあの者たちの退路を塞いでしまっては、戦うほかなくなってしまうだろう!」

答えたアシタカは、山路を見下ろせる高さまで登ると、そこから踏鞴場へ向けてヤックルを進めた。

「そりゃそうかもしれねぇが…。」

ひいひいと、這いつくばって道の法(のり)をよじ登っていた男たちは、ここまでの強行軍と急峻な斜面に、だいぶ息を上げていた。

「旦那は赤獅子に乗ってっからいいけどよ…。」

汗だくでぼそりと愚痴をこぼした若造のすぐ横を、サンを乗せた山犬がひょい、ひょい、と身軽に登っていくのであった。

「門はすぐそこだ。」

一行は人道を見下ろしつつ、山肌をつたって踏鞴場へと近づいていた。村の男たちを顧(かえり)みて言ったアシタカの声量は、やや抑え気味であった。

「アシタカ、あそこに誰かいる。」

アシタカの隣で、サンが声を潜めて言った。

前方に、武装集団の一味が見えた。石火矢衆と、見慣れぬ格好をした者が計数名、踏鞴場旧門を見下ろす位置から物見(ものみ)をしていた。その者たちは見晴らしの良いそこから旧大門へ目を光らせており、誰一人として背後のアシタカたちには気づいていない。

「先客がいたようで。」

「気づかれちゃいねぇな。」

アシタカとサンに追いついた男たちが、ひそひそと口を開いた。

「まずは私とサンに任せてほしい。そなたたちは何があっても手を出さないでおくれ。」

「あいよ。」

男衆の返事を聞いたアシタカは、次にサンの目を見て語りかける。

「サン、そなたには私の隣にいてほしい。」

「分かった。」

互いにうなずいたアシタカとサンは、それぞれにヤックルと山犬を進め、物見に近寄っていく。

「そなたらは師匠連の手の者か!」

間合いを空けた位置から、アシタカは大声を発した。

突然の呼びかけに、物見をしていた者たちは驚きを隠さなかった。全員が、はっとしてアシタカとサンを振り向き、そしてその後方に控えている男衆を目にする。

「山犬一族!?」

「新手(あらて)か!」

口々に声を上げつつ、石火矢を向けてくる物見の者たち。

「そなたたちの長(おさ)は! 下にいるのか!」

斜面上方から問い詰めたアシタカに対し、一団は火縄を取り出して石火矢を構えるばかりで、何も答えなかった。アシタカはヤックルから降りると、再び声を発する。

「今一度聞く! そなたたちの長は!」

岩の上に堂々と立ちはだかるアシタカ、そして山犬一族の凛とした迫力にも、物見の者たちが怖気(おじけ)づく様子はない。

「…撃て。」

見慣れぬ格好の一人が、石火矢衆にささやいた。

「来る…!」

サンが叫んだ。ほぼ同時に、石火矢衆が火縄で着火する。寸の間を隔て、石火矢がどうん、と火を吹いた。

アシタカもサンも、轟音が響く頃にはとうに動き出していた。アシタカは着弾で飛び散った石ころを浴びつつヤックルに飛び乗り、サンと二頭の山犬は斜面を跳び、物見の者たちに接近していく。

「撃て! 撃て!」

どうん。別の石火矢が火を吹く。が、すばしっこい山犬を捉えることは出来なかった。

あっという間に山犬の接近を許した物見の数名は、「来た!」と悲鳴を上げ、その場を離れていく。ある者は法(のり)を跳び下り、またある者は急傾斜を転げ落ちるか、はたまた滑り落ちて道まで下り、路上に陣を構えている本隊に逃げ込んだ。

サンと二頭の山犬は、てんでんばらばらとなって逃げだしたその者たちを深追いはせず、物見のいなくなった斜面から路上の本隊を見下ろすのであった。



思わぬ方角からの発砲音に、武装集団の本隊も新手(あらて)の到着に気がついていた。

「後詰(ごづ)めか…?」

集団の長らしき、粗野な見てくれの中年の男は、陣の背後を振り返ってつぶやいていた。男は、獣の革を多様した装いの、まさしくサンが以前に森で遭遇したあの猟師らしき見てくれの者であった。

「背後の山に山犬一族が現れました。下流の村の者と思われる人間も十名ほど。いずれも、エボシ踏鞴への加勢かと。」

手下と見られる、似た装いの屈強な男が、石火矢の白煙が流れる中を長のもとへ知らせに来た。

「ほう。どうやら、エボシ踏鞴は我らが想定していたよりも早く、近隣勢力との関係を築きつつあるようだ。にしても、山犬と人間が行動を共にするとはな…。」

「実に。なお、奴らは物見の者たちを一掃(いっそう)して崖上に陣取った模様。頭(かしら)を呼んでいるとのことです。」

手下の報告に、頭(かしら)と呼ばれた男はほくそ笑む。

「そうか。ご丁寧に我らの退路を空けてくれているか。戦うつもりが無いな。甘いものだ。」

「そのようで。」

手下の同意を聞きつつも、頭(かしら)は顎を揉んだ。

「だが山犬はやっかいだ。こちらから仕掛けても石火矢では対処しきれん。踏鞴場の方もこのままでは埒(らち)が明かん。一旦、攻撃を止めよ。私が新手と話す。その隙に焙烙火矢(ほうろくひや)を用意し、気づかれぬよう踏鞴場の木柵(もくさく)に仕掛けよ。風向きによっては煙幕(えんまく)を張っても構わん。よいな。」

「は。…しかし、エボシとは話さぬので?」

「師匠連のじいさんどもから、エボシとは話すなと言われている。問答無用で殺せとな。言われた通りにしておけば良い。」

「承知。」

手下は一礼をすると、石火矢衆のもとへ歩きつつ、「止(や)めい! 止めい!」と大声で指示を伝えていった。

「さて、暇(ひま)を潰すとしよう。」

つぶやいた頭(かしら)は陣を離れ、隊の後方へと向かうのだった。



「攻撃が止まりました。」

旧門裏では、お頭が刀や薙刀を手にした男衆を率いて待機していた。かたや、薙刀を手にした女衆は、全員そろってエボシの傍らに控えている。

「煙で気づきませんでしたが、どうもアシタカの旦那と山犬一族が奴らの裏にいるみてぇです。」

お頭がエボシに伝えた。

「もののけ姫まで?」

エボシより先に、脇に控えていたトキが驚いた反応を見せた。嫁のついでに、甲六も口を開く。

「なんか、他にも人がいるみてぇだけどな。」

甲六の隣にいた男が、門外へと目を凝らした。

「あぁ、ありゃ下の村の若い連中だな。それに手伝いに行ってた奴らもいる。」

それを聞いたお頭は目を見張り、「…あいつら、来てくれたのか…」と独り言をこぼした。

ところで、とうのエボシは皆のやりとりを耳にしつつ、ふふっ、と軽く笑みを浮かべていた。

「慕(した)われておるな、あやつは。」

ふと言い放ったあと、エボシはその場に居合わせた皆へ呼びかける。

「皆、用心せよ。石火矢が止まった。奴らは何か企(たくら)んでいるはずだ。向こうには焙烙火矢もある。門か外壁か、吹き飛ばされて侵入を許せばこちらは持ちこたえられん。周囲を警戒しつつ、二(に)の郭(くるわ)への避難も考えておけ。」

「聞いたなおめぇら。壁に取りつかれないよう、何人か上で見張れ。奴らが来たら石でも投げて追い返すんだ。少しでも時を稼ぐぞ。いいな?」

「へい。」

威勢の良い返事をした男衆は、駆け足で散っていくのだった。



一方、アシタカはといえば、高さのある法(のり)の上に仁王(におう)立ちして、集団の長を待っていた。

ざわつく師匠連の手の者たちを眼下に見下ろしていたアシタカに、隣に立っていたサンが強張(こわば)った顔つきで話しかける。

「…アシタカのことは信じてる。でも、私にはこいつらが話を聞いてくれるようには見えない…。」

サンの不安をくみ取ったか、アシタカはサンを見つめて答える。

「それでも、戦(いくさ)を続けていては、この地に明日(あす)はない。」

「でも、こいつらとの話がこじれたらどうするつもりなんだ?」

アシタカは前を向いた。

「…分からない。だが、今はやれることをやりたい。」

そう言ったアシタカのまっすぐな横顔を目にして、サンは口もとを緩めていた。

「貴様がエボシ踏鞴の新たな頭目(とうもく)か。」

アシタカとサンが話していると、下方から声がした。一団の頭(かしら)であった。

「あいつ、森にいた奴だ…!」

進み出てきた男を一目見るなり、サンが拳を握りしめて言った。そんなサンを横にしながらも、アシタカは冷静に男へ呼びかける。

「そなたがここにいる者たちの長か! 我が名はアシタカ! この地に生きる者だ! 頭目ではないが、皆の代わりとしてそなたと話がしたい!」

頭(かしら)の男はアシタカとサンの眼下で立ち止まると、二人を見上げて口を開く。

「話とはなんだ。今さら貴様らがこの地を去るとも思えん。それとも、我らと共にこの地で鉄を採り、金(かね)を返すとでも言うのか。」

アシタカははっきりと返す。

「それはない。ここにいる皆は、もうここで鉄を掘らないと誓った。」

「ではなんだというのだ。他に話すことがあるのか。」

男の物言いは、どこかアシタカの反応をおもしろがっているようにも聞こえた。

「それは話してみなければ分からない。」

アシタカは一歩たりとも退(しりぞ)かなかったが、男は薄ら笑みを滲ませて言葉を返す。

「どうかな。我らの使命は貴様らをこの地から追い出し、鉄を採ること。そこに妥協を見出すことが出来ると?」

「それはそなたたちの目的ではなく、手段ではないのか。師匠連の望みは、おあしの回収だと聞いている。」

男はまばたきを打って目を丸くすると、いきなりはっはと笑い出した。

「…なるほど、ただの青二才ではないようだな…。確かにそうだ。師匠連の目的は金(かね)だ。間違いない。」

男は可笑(おか)し気(げ)に言い放ったが、次には語調を戻してアシタカに現実を突きつけた。

「悲しきかな。だが、人には怒りや恨みといったどうにもならん情がある。エボシは怒りを買った。金(かね)だけでは師匠連は納得しない。それに見せしめをしなければ、師匠連の面目も立たん。世には理屈では解決せん事情もあるのだ、若者よ。」

男の言い分(ぶん)にも、アシタカはひるまなかった。

「その怒りも恨みも、師匠連のもの。そなたたちのものではないはずだ。違うか。」

「その通りやもしれんが、我らは師匠連に従う身。目上の者に異論を唱えることは出来ん。これもまた、世の道理だ。」

「己のものではない遺恨のために戦をして、命をかけると言うのか。」

「それが道理だと言っている。」

この時、男の背後で、淡く黄色味がかった煙が音も無く、もくもくと昇りはじめていたが、アシタカは会話に集中していて気づいていないようであった。

「あの煙…。」

サンが隣でつぶやいたが、アシタカは男との会話を続けていた。

「そなたたちの立場は理解している。だが、命をかけるような戦いを急ぐ必要はないはずだ。返すべき銭は工面(くめん)する。幾らかは前もって返す。どうかこの約束を懐(ふところ)に、一度この場から引いてはくれないだろうか。」

ふぅ、と男はわざとらしく溜息をつき、腕を組んだ。

「残っていた鋼(はがね)を売り、新式の石火矢や拾い集めた武具も町で売ったことは知っている。だがその大金も、食糧や大工、下流の村のためにほとんど費やしているとの調べがついている。幼稚(ようち)なはったりは効かんぞ、若者。」

男は、やれやれとばかりに首を横に振っていた。

「はったりを言ったつもりはない。踏鞴場の民はよく働き、手先も器用な者が多い。それにエボシは諸国を知り、交易に通じているだけでなく、先見の明(めい)もある。それは私より、師匠連やそなたたちこそよく知っているはずだ。皆の力があれば、必ず借りは返せる。もちろん、そのために私も力を尽くす。」

「貴様は何も分かっておらんな。そのエボシこそ、問題なのだよ。」

男は言う。

「師匠連の怒りはエボシへのものだ。よって、金(かね)の回収だけでは事足らず、奴の首も所望(しょもう)している。」

アシタカは唇を結び、眉を立てて拳を握りしめた。

「エボシを渡すことは出来ない…!」

奥歯を噛みしめて言い放ったアシタカ。彼の返答に、男は口角を上げていた。

「で、あろうな。」

ふすん、と鼻息をついた男。すると、そこに手下が駆け寄り、男にひそひそと耳打ちをはじめた。いつのまにか、男の周りには石火矢衆とは異なる猟師のような身なりの手下が複数名、そろそろと集まってきていた。

「…それで構わん。やれ。」

なにやら、男は小声で手下に命じた。手下は頭(かしら)に一礼をすると、踏鞴場との前線へ踵(きびす)を返すのだった。

男はアシタカへ視線を戻すと、遊びの無い声色で告げる。

「暇をもてあそぶのもここまでのようだ。若者よ、すまんがこれ以上貴様の相手をするつもりはない。堂々たる話ぶり、感心したぞ。」

言うなり、男はすらりとアシタカに背を向け、前線へと去っていった。直後、男と入れ替わるようにして、猟師の身なりをした幾人もの手下が、アシタカとサンの眼下に立ち塞がる。鼻と口に布をあてがった手下の者たちは、腰からよく磨かれた鉈(なた)を抜くか、あるいは橙色に着色された握りこぶし大の玉を腰袋から取り出していた。

「あの煙玉(けむりだま)だ!」

サンが気づいた時には、点火された煙玉が宙(ちゅう)を舞っていた。

ぱん、ぱん。破裂音とともに、黄色味がかった煙がむわっと広がり、アシタカとサンを包む。

サンはアシタカの腕を掴み、力づくでその場から引き離した。

「目と鼻をやられる!」

煙から逃れつつサンが叫ぶと、後ろで控えていた村の男たちも鼻をつまみ、あたふたと煙から距離を取っていく。

「サン、大丈夫か!」

山犬兄弟も煙から逃れ、サンと合流した。

「アシタカが!」

サンによって岩陰に引っ張り込まれたアシタカは、彼女に腕を掴まれたまま、げほげほと苦し気に咳(せ)き込んでいた。

「…私は…大丈夫だ…皆は…?」

むせながら尋ねてきたアシタカに、サンは「みんな大丈夫だ。それよりお前こそ…」と声をかけ、その場に座らせようとする。しかし、アシタカは座らなかった。

「踏鞴場が…。」

赤く充血した目を見開いたアシタカが、背筋を立てようと身を起こしたその時であった。

どん、と石火矢とは比較にならないほどの爆音が轟(とどろ)き、その場にいた者の身体を、空気そのものを、ずん、と突き上げ、震わせた。

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