最終章 後編
どん、という爆発音の直後、衝撃波とともに旧大門北側の巨大な木柵が吹き飛び、大小多数の木片がばらばらと頭上から降り注いできた。
「壁が…!」
エボシの側(そば)で身をすくめていた女衆の中で、まっさきに顔を上げたのはトキであった。もとより倒壊していた長屋の屋根越しに、もくもくと巨大な煙が昇っていくのが見えている。
「おめぇら、行くぞ! トキ、エボシ様を二の郭(くるわ)へ!」
叫んだお頭は、甲六をはじめとする男衆を率い、爆破された箇所へと走っていった。
「あんた! 頼むよ! 諦めるんじゃないよ!」
トキが走っていく甲六に声をかけた。
「おうよ! 任せとけ!」
当初の弱気はどこへやら、トキの激励に、甲六は拳(こぶし)を突き上げていた。
ひた走り、焙烙火矢の爆発地点に一番乗りしたのは、お頭であった。
「おい! 生きてるか!」
お頭は、濃霧のような白煙と硝煙(しょうえん)の臭いが立ちこめる中、見張りに立っていた男が一人、散乱する木片に混じって倒れているのを見つけた。
お頭は駆け寄り、うつ伏せになっていた男の身体を起こす。
「うぅ…すまねぇ。煙幕で気づくのが遅れちまった…。」
お頭を見た男は、申し訳なさそうに謝るのだった。
「あほう。こんな時に謝る奴があるかってんだ。それよりしっかりしろ。大丈夫だ、この程度じゃ死にはしねぇ。」
男には細かな木(こ)っ端(ぱ)が刺さってはいたが、どれも傷は浅く、致命傷となるものではない。
「お頭! 奴らが来やすよ!」
お頭に追いつくなり、甲六は倒壊した木柵の先をじぃっと見つめていた。
視界を遮るほどに滞留する白煙の先に、何人もの人影が映った。はじめ、うっすらとしていた人影は徐々に輪郭を濃く、はっきりとさせていく。
煙から姿を現したのは、石火矢を携えた何人もの石火矢衆であった。
「…あ、こりゃ駄目だ…。」
持っていた刀を落とし、あんぐりと口を開いて甲六が言った。
「馬鹿野郎! 逃げるぞ!」
倒れていた男を肩に担ぎ上げたお頭は、甲六に叫ぶなり、すぐさま来た道を戻って走り出していた。
「あ、ちょ、待って!」
回れ右をしてお頭を追いかける甲六。急行してきたばかりの他の男衆も、大勢の石火矢衆を一目見るなり、慌てて引き返していく。
「放て!」
響き渡る号令。
どうん、どうん。次々と放たれる石火矢の音を背に、男衆はたまらず二の郭へと走っていた。
煙幕が霧散(むさん)し、爆発の白煙も流れ去っていく。轟(とどろ)く石火矢の発砲音。アシタカの黒目には、石火矢を携えた石火矢衆と、猟師のような装いの何人もの男たちが列をなして踏鞴場内に侵入していく光景が映っていた。
どうん、どうん。岩陰に突っ立っていたアシタカとサンにも、眼下の路上から石火矢が撃たれた。
礫(つぶて)は岩に命中し、砕けた石片が飛び散る。
「皆のもとへ…! ヤックル!」
頭を伏せたサンを胸の中で庇(かば)いつつ、アシタカはヤックルを呼んだ。
「…私も!」
山犬を探すサン。ヤックルと二頭の山犬は、石火矢を避けながら二人のもとへ駆けてきた。
「旦那! どこへ行くつもりだよ!」
仲間とともに岩陰に潜んでいた若造が叫んだ。
「踏鞴場の皆のもとへ! そなたたちはここから動くな!」
「無茶だ! いくら赤獅子でも、あんな大勢相手に無傷でやり過ごせるはずがねぇ!」
「今は正門が手薄だ! きっとやり過ごせる!」
駆け付けたヤックルに飛び乗るアシタカ。山犬にまたがったサンは、残るもう一頭には「お前はそっちの人間たちに付いてやりな」と言って聞かせている。
「あっちに行ってどうにかなるのかよ!」
若造がアシタカの背に投げかける。アシタカはヤックルを走らせつつ背中で答える。
「どうにかする!」
打って出たアシタカとサンは、当然のように石火矢の砲撃に晒(さら)された。撃ち込まれる礫(つぶて)。砂土(すなつち)が飛び散る中、斜面を駆け下りて勢いづいたヤックルと山犬は、二人を背に乗せたまま高く跳び、後衛として路上に陣取っていた者たちの頭上を越えていった。
宙(ちゅう)へ跳んだアシタカとサンへ石火矢が向けられたのを見計らい、村の若造が石火矢衆への投石をはじめた。二人を援護する若造。一人の反撃をきっかけに、仲間たちもが、我も我もと石を拾っては投げはじめた。中には岩を転がし落とす者もいる。
投じられた石が、後衛の石火矢衆に降り注ぐ。頭に、背中にと、容赦なく直撃する石に、石火矢衆は旧門へと突(つ)っ走(ぱし)るアシタカとサンを狙う余裕が無くなっていた。
ヤックルと山犬は、師匠連の手の者たちの中を疾風(はやて)の如く駆け抜け、旧門を塞いでいた廃材の山も軽々と跳び越えていく。
踏鞴場内に着地すると、そこにはすでに何十人もの輩(やから)が侵入していた。しかし、二人がヤックルと山犬の足を止めることはない。
背後から不意に、それも猛烈な速さで追い越していった赤獅子と山犬に、侵入者たちは皆、身を仰(の)け反(ぞ)らせた。驚いた彼らは為す術(すべ)無く目をしばたかせ、嵐のように過ぎ去っていったアシタカとサンを、呆然(ぼうぜん)と見送るほかないのであった。
アシタカは、二の郭(くるわ)へとヤックルを飛ばした。ヤックルと山犬のあまりの速さと勢い、そして迫力に、師匠連の手の者は誰もがたじろぎ、武器を構える間(ま)もなく道を空けていく。
「山犬!」
「通してはならん!」
怒声を合図に、猟師の身なりをした者たちが鉈(なた)を手に立ち塞がる。
「押し通る!」
アシタカの声。走るヤックルは四肢を踏み込み、行く手を塞ぐ者たちの頭上へ跳ぶ。
呆気(あっけ)に取られ、宙(ちゅう)を舞う赤獅子を半開きの口で見上げる侵入者たち。
続いて突っ込んできた山犬が、そんな師匠連の手の者たちを漏れなく蹴散らしていく。
「またあれだ!」
先行するアシタカに、サンが叫んだ。アシタカが前方を見やると、数人の石火矢衆が、閉ざされた二の郭(くるわ)の門に焙烙火矢を仕掛けている最中であった。
門の上では、トキや甲六がこれでもかとばかりに石を投げつけ、石火矢衆を追い払おうとしている。しかし、護衛役が掲げた楯(たて)により守られた石火矢衆は、投石など物ともせずに焙烙火矢を運び、門の下に据え付けている。
「やめろ!」
目を見開いたアシタカ。ヤックルは、行く手を遮ろうと前に出てくる者を次々に蹴散らしつつ、二の郭(くるわ)へと坂道を駆けた。
「アシタカ様だ!」
「旦那ぁ! …って、もののけ姫まで!?」
アシタカに気が付いたトキと甲六は、後方に付いているサンと山犬を目にして驚きを隠さなかった。
慌てふためく侵入者たちを蹴散らし、二の郭の門に辿り着いたヤックルと山犬は、今まさに焙烙火矢を据えていた石火矢衆も易々(やすやす)と追い払う。
「皆は無事か!」
門前から石火矢衆を一掃したアシタカは、トキと甲六を見上げて尋ねた。
「怪我人はいるけど、今んとこ大丈夫だよ!」
トキが、はつらつと返事をした。トキの隣では、甲六が片手を挙げて「助かりやしたぁ!」と叫んでいる。
「アシタカ。」
生気のあるトキと甲六の姿を目にし、すっかり頬を綻(ほころ)ばせていたアシタカを、サンは張り詰めた口調で呼んだ。
アシタカが振り返ると、坂の下に、石火矢を手にした多くの石火矢衆と、鉈で武装した猟師の身なりの者が大勢集まってきていた。
「また貴様か。」
居並ぶ師匠連の手の者たちの中から、男の一声が聞こえてきた。集団の中から進み出てきたのは、先刻、アシタカと言葉を交わしたばかりの頭(かしら)であった。
アシタカは男に向き直り、些(いささ)か強めの口調で投げかける。
「まだ双方死者は出ていない! 今なら引き返せるはずだ!」
アシタカの言葉に、頭(かしら)はもはや薄ら笑みさえ浮かべなかった。
「私を前任者と同じと思うでないぞ、若者。この期(ご)に及んで話を聞いてやるほど甘くはない。」
頭(かしら)の合図に従い、背後に控えていた石火矢衆が最前列に進み出てきた。
「だ、旦那! やばいですって!」
門の上から様子を見ていた甲六が、身を乗り出して口走った。
かたや、両の拳(こぶし)を握るアシタカ。きゅっと唇を結んだ彼は、頭(かしら)を睨(ね)めつけ、すっと歩を歩み出した。純黒の髪が、逆立っているようにも見える。
「待て!」
アシタカが歩み出したその時、門の内側からエボシの声がした。エボシは声を張り上げ、頭(かしら)に呼びかける。
「よく聞くがいい! 私とて師匠連の目的は分かっているつもりだ! だが良いのか! お主らがこの地で鉄を採ろうとすれば、そこにいる山犬一族や森のもののけ達が黙ってはおらんぞ! それでは神殺しに費やした金(かね)を取り戻そうとしたところで、再び人員と金(かね)を浪費するだけではないのか!」
頭(かしら)も声を張ってエボシに答える。
「もはや森のもののけ共(ども)に抵抗する力が残っていないことは分かっている! そこにいる民のためにも潔(いさぎよ)くあきらめろ、エボシ!」
「ならばあきらめるとしよう! いずれ金(かね)を返し、この私の首も渡そう! どうだ、これならば急いでこの地を奪う必要もなかろう!」
エボシの言葉に、アシタカは門を振り向いて叫んでいた。
「駄目だ! エボシ!」
「なんてこと言うんです! エボシ様!」
「そんなのエボシ様らしくねぇですぜ!」
門の内側では、男も女も、踏鞴場の民は全員がエボシの発言に口をそろえて反対していた。
「エボシ様、それはどういうおつもりで?」
お頭も、エボシを問い詰めていた。エボシはその隻腕で皆を静めると、声量を落として言い聞かせる。
「落ち着くがいい。この私がそう易々と首を渡すと思うか?」
男衆も女衆も顔を見合わせ、目をしばたかせる。そんな中、牛飼いのお頭だけは腕を組み、安堵(あんど)の息を漏らすのであった。
時に、門の外では侵入者の頭(かしら)が眉を寄せていた。
「エボシよ! 見え透いた嘘は、ここにいる者たちのためにはならんぞ! 皆のためにも、さっさと門を開け放って無用な戦(いくさ)を終わらせよ!」
「兵を引けば門を開いてやろう! 貴様一人が残り、あとの者は去れ!」
門の向こうから、エボシの凛とした声音が響いてきた。彼女の言い方は、どこかおもしろがっているようにも聞こえた。
「ふざけおって…。いいだろう! そちらにその気がないということは良く分かった!」
言い放った頭(かしら)は、脇で控えていた石火矢衆に手で指示を飛ばす。
「やれ。」
松明(たいまつ)を手にした石火矢衆が、アシタカとサンの前に進み出てきた。手にした松明が、焙烙火矢の導火線へ着火するためのものであることは明らかであった。
「やめてくれ。」
アシタカは両手を広げ、松明を持った石火矢衆の前に立ち塞がった。
着火役の石火矢衆はアシタカに気圧(けお)され、立ち止まってしまう。サンもアシタカの隣に並び、石火矢衆を睨んだ。
「往(い)ね、若者。でなければ石火矢を放つ。これが最後の忠告だ。」
頭(かしら)の呼びかけにも、アシタカは動じなかった。
舌打ちをする頭(かしら)。
「惜(お)しいものだな。…殺せ。」
頭(かしら)からの淡泊(たんぱく)な命令を受け、石火矢衆の一人が至近距離からアシタカを狙う。だが、それでもアシタカは動じない。
曇りなき眼(まなこ)の、無防備な少年を前に、石火矢を手にしたその者の手は、ふるふると震えていた。
「何をしている。放て。」
石火矢を構えたまま止まってしまったその者に、一団の頭(かしら)は再度命じた。ところが、その者は石火矢を構えていながら、頭(かしら)を無視してアシタカに話しかける。
「…旦那、どうか、ここはお引き取り願えねぇですか…。」
「この声…。」
アシタカが小声でつぶやいた。
「お前、どういうつもりだ。」
石火矢衆の勝手な会話に、頭(かしら)は苛立ちを見せた。その者は頭(かしら)に口答えする。
「…俺には、このお方(かた)を殺(あや)めることは出来ねぇ…。」
「どうしたというのだ。」
語気を尖らせ、再三に渡って詰い詰める頭(かしら)。
かたや、その石火矢衆の瞳をじっと見つめていたアシタカが、はっとして声をかける。
「そなた、もしやあの時の…。」
その者は、頭巾(ずきん)からのぞく目もとを、にこりと綻(ほころ)ばせた。
「覚えておいでですかい、旦那。あんたは初めてこの地を訪れたあの日、川で倒れていた俺を拾って、命を救ってくれた…。シシ神の森からここまで、あんたは俺を一人で負(お)ぶって歩いてくれたんだ…。その恩を、俺は忘れてねぇ。」
そう言うと、その者は構えていたはずの石火矢を下ろした。
「あ! お前あの時の!」
門の上から、甲六のすっとんきょうな一声が響いた。
偶然か必然か、驚くべきことに、今アシタカの目の前に立っているその者は、アシタカが初めてシシ神の森にやってきたあの日、川岸に打ち上げられていたところを、甲六ともども助け出したあの時の石火矢衆その当人であったのだ。
「そうか、そなた傷は癒えたのだな…! 見たところ傷の障(さわ)りもないようだ。良かった。」
「えぇ、デイダラボッチが消えたあの時、身体中の痛みも一緒に吹っ飛んじまいましたよ。おかげさまで、今はすっかりこの通りですぜ。」
眼前の状況など忘れたかのように笑みをこぼしたアシタカを見て、石火矢衆のその者も目を細め、両の目尻を八の字に下げていた。
張り詰めていたはず空気が解(ほど)かれていく。だが、そこに頭(かしら)が水を差すのは、当然の成り行きとも言えた。
「かつての行いが報(むく)われたということか。だが、その人望(じんぼう)も我らとは縁無し。石火矢衆は一人ではない。」
頭(かしら)の号令のもと、他多数の石火矢衆が前進をはじめる。
「旦那。すまねぇが、俺にはちょっとの時を稼ぐことぐらいしか出来ませんで。そのうちに、どうかお引き取りを。」
アシタカに言ったその者は、近づいてくる石火矢衆を顧(かえり)みると、たった一人で石火矢を構え、かつての仲間に砲口を向けるのであった。
アシタカを庇(かば)うように立つ、一人の石火矢衆。アシタカはその者の肩へ手を伸ばし、口を開きかける。
「待て……!」
まさしくその刹那(せつな)であった。アシタカの喉を通りかけた言葉はしかし、彼の口ではなく、時を同じくしてその場に転がり込んできた別の者の口から発せられることとなった。
「待ぁて待て待て待て待てぇーい!」
この時、大声を上げつつ師匠連の手の者たちの中をかき分けて乱入してきたのは、他ならぬゴンザであった。そして、興奮したゴンザを追うようにして、何故か馬に乗った武者が三騎、蹄(ひづめ)の音を響かせながら郭(くるわ)の中に入ってきた。
「師匠連とやらの手の者たちよ、武器を収めよ! 我らは公方(くぼう)様の使者として参った! 帝(みかど)より直々(じきじき)の御状(ごじょう)を賜(たまわ)りし公方様より、そなたらへの書状をお預かりしている!」
騎馬武者の一人、三騎の中で唯一、小奇麗な正装をまとった侍が、高らかに声を張りながら、侵入者たちの中を堂々と貫いて進んでくる。
アシタカとサンを含め、その場に居合わせた全員の視線が、一斉に使者へと注がれた。見れば、騎馬武者の後ろには門の外で待っていたはずの下流の村人たちがくっついており、使者に便乗して、何食わぬ顔で踏鞴場に入ってきていた。
「公方? アサノ公方か?」
「帝からの御状とはどういうことだ…。」
「なぜ侍がここに…。」
ざわつく師匠連の手の者たちを、ゴンザが「えぇい! 静まれぇい!」と一喝(いっかつ)する。ゴンザは一団の頭(かしら)を押し退(の)けると、石火矢衆をかき分けてアシタカのもとへやってきた。
「エボシ様は?」
開口一番に尋ねてきたゴンザに、アシタカはきょとんとしながらも答える。
「エボシなら中にいる。無事なはずだが…。」
「よし、ご苦労。」
ゴンザが鼻を鳴らし、胸を張ってやけに偉そうに言ったところで、アサノの使者も門前に到着した。
「師匠連の者たちよ、かしこまって聞くがよい!」
使者は馬首(ばしゅ)を転じて、馬上から侵入者たちを眺望した。やはりというべきか、何の脈絡(みゃくらく)も無く現れたアサノの使者に、一団の頭(かしら)は黙っておらず、石火矢衆を退(の)けて使者に迫った。
「これはどういうことだ。帝の御状と公方だと? 我々と何の関係があるというのだ。」
「無礼者! 下がれい!」
使者が叫ぶと、お供の二騎が直ちに頭(かしら)へ薙刀を向けた。刃(やいば)を向けられた頭(かしら)は歯をくいしばり、使者を睨(ね)めつけて止まる。それでも頭(かしら)は、石火矢衆が石火矢を構えようとするのを手で制するのであった。
お供に守られているアサノの使者は、頭(かしら)を筆頭とする師匠連の手の者たちを見回すと、懐(ふところ)から書状を取り出し、高らかと読み上げ始める。
「公方様より、師匠連ならびにそなたら配下の者たちへの下命(かめい)は以下の通りである! 一、我が領内での武力活動の一切を禁ずる。武力の行使が認められた場合、天命(てんめい)によりこれを討伐する。なお、武力を伴わない商(あきな)いについてはこの限りではない。一、シシ神の森、及び隣縁(りんえん)の村々への一切の立ち入りを禁ずる。立ち入りが認められた場合には、天命によりこれを討伐するものとする。なお、これは商いでの立ち入りを含む。一、領内の国衆(くにしゅう)との接触を禁ずる。商いは商人ならびに職人との商いのみ認める。国衆との接触が認められた場合、領内での活動および通行の一切を禁ずるものとする。一、此度(こたび)のシシ神の森における一件の一切について、口外を禁ずる。口外が認められた場合、領内での活動および通行の一切を禁ずるものとする。以上、しかと心得よ。」
言って、使者はアサノ公方からの書状を広げて一同に見せた。書状を見た一団の頭(かしら)は再び使者に迫り、薙刀を突きつけられながらも問い詰める。
「天命? 討伐だと? 馬鹿な。我らの行動は天朝よりお認め頂いたもの。帝からの書状であればこちらにも……」
懐をまさぐる頭(かしら)を、使者が遮る。
「その御状はすでに失効しておる! 帝より賜った新たな御状にその旨あり! 疑うならばこれここに在(ま)す御状、とくと刮目(かつもく)致すがよい!」
アサノからの書状を収めた使者は、次には懐から布で丁重に包まれた御状を取り出し、広げて頭(かしら)の面前に突き出す。
「帝は、そなたらが公方様の下命を破った場合、師匠連とやらの御所(ごしょ)への立ち入り禁止、および全ての特権はく奪をもお考えになられているとのこと。立場をわきまえ、よくよく思案して行動するがよい!」
使者は、周りの者へもぐるりと御状を見せた。
「本物、なのか…?」
「そうみたいだが…。」
一同がざわめく中、今度は矢継ぎ早にどこからか、ぴぃ、ぴぃ、と指笛の音が響いてきた。
その場にいた全員が振り向く。大門から、猟師の格好をした男が一人、早馬(はやうま)に乗って馳せてきていた。
「使い、か…?」
皆が呆気(あっけ)にとられる中、一団の頭(かしら)だけが独りつぶやいた。
猟師の身なりの使いは一直線に頭(かしら)のもとへ参じると、下馬するなり頭(かしら)に駆け寄り、なにやらひそひそと耳打ちをする。
「…そうか、分かった。」
耳打ちされた頭(かしら)は、目をつむって短くうなずいた。そして、アサノの使者を見上げて冷静に言うのであった。
「どうやら、御状を確かめるまでもないようだ。師匠連より、直ちに撤収せよとの命(めい)が下された。されば、我々に争う余地はない。」
頭(かしら)は配下の者たちへ告げる。
「引き上げだ! 帰るぞ!」
急転直下、であった。場(ば)に漂っていた殺気が、一声を機に霧散(むさん)し、跡形も無く失せていく。
「先頭としんがりは我々が務める! 石火矢衆は小荷駄隊(こにだたい)を囲み中央に!」
「石火矢衆は焙烙火矢を回収し、石火矢に油紙を!」
「念のため斥候(せっこう)を出しておけ! 地侍どもに用心しろ!」
指示が飛び交い、大勢の者が一斉に動き出した。師匠連が差し向けた一団は今や、二の郭に立て籠もるエボシ一同になど目もくれず、粛々と撤収の隊列を組んでいた。
門前で呆然と佇(たたず)むアシタカとサンの横を、数人の石火矢衆が焙烙火矢を回収するため、そそくさと素通りしていく。うごめく群衆を、立ち尽くして見守っていたアシタカに、一団の頭(かしら)が声をかける。
「若者よ、運が良かったな。だが人の世は移ろうもの。天朝も侍も、事あらば再び手のひらを返し、貴様らを貶(おとし)めるであろう。あまり人を、世を当てにするでないぞ。」
投じられた忠告に、アシタカは屹然(きつぜん)と放つ。
「人を、世を、まだ見ぬ明日(あす)を信じずに、どうして生きていけるというのか。信じればよいというわけではないのは分かっている。しかし、信じなければ共に生きていくことは出来ない。そなたは、そうは思わないだろうか。」
真顔で返してきたアシタカに、頭(かしら)はぱちぱちと目をしばたかせた。
「…そうか、信念だな、貴様の。」
頭(かしら)は苦笑いを抑えつつ言うと、アシタカに背を向けるのであった。
ここに、百名を超える師匠連の手の者は去っていった。嵐のように踏鞴場を襲ったこの日の騒動は、その始まりと同様、唐突に終わりを告げたのであった。
さて、にわかに静けさを取り戻した踏鞴場で、アシタカは所在無さ気(げ)に突っ立っている一人の石火矢衆を目に留めた。
アシタカは彼に、にこりと微笑んで話しかける。
「そなたさえ良ければ、この地で良い村を築くのを手伝ってほしい。」
かつてアシタカに命を救われたその者は石火矢を放り、頭巾を脱ぎ捨てて素顔を見せると、八重歯をのぞかせて笑った。
「今さら石火矢衆には戻れませんで。願ってもねぇお言葉ですぜ、旦那。こちらこそよろしく頼みやす。」
屈託のない返事に、アシタカは目を細めてけらけらと笑うのであった。
二人が笑みをこぼしていると、アサノの使者がお供を従えて彼のもとへ近づいてきた。使者は馬をとっことっこと進めつつ、馬上からアシタカに求める。
「門を開けるよう伝えよ! たたら者エボシに、公方様より書状、および言伝(ことづて)を預かっておる!」
口を開きかけるアシタカ。だが使者に応じたのはアシタカではなく、横からアシタカを押し除けて出てきたゴンザであった。
「はっ! 直ちに! …おい! 門を開けろ! 俺だ! ゴンザだ! 公方様の使者がお出でだ! エボシ様! このゴンザ、無事に文(ふみ)を届けましたぞ! 奴らは去りました! 門を開けて下され!」
がぁがぁと喚(わめ)くゴンザに、傍(そば)に立っていたサンは耳を塞ぎ、顔をしかめている。
「でかしたぞゴンザ! よくぞ間に合ってくれた! 今、門を開けさせる!」
エボシの明るい声が響き、ほどなくして門が軋(きし)めく。
ぎしぎしと鳴った門を目にし、サンがアシタカを見向いた。
「私はもう行く。ここにいる奴らがアシタカを慕(した)っていることが良く分かった。人間がこの地に居座ることには言いたいこともあるけれど、でも、私もアシタカを信じてる。ここにいる奴らもアシタカを信じているのなら、アシタカがいてくれる間は様子を見る。だから、今はせめてあの女と出くわす前に、ここから立ち去りたい。」
アシタカは深くうなずき、微笑んだ。
「共に来てくれて、ありがとう。」
サンも深くうなずいて、優しげな微笑みを返した。
「さぁ、行くよ!」
兄弟に呼びかけたサンはその背に飛び乗ると、アシタカに軽く手を振り、森へと帰っていった。
「アシタカ、ゴンザ、よくぞ皆を救ってくれた。」
サンを見送っていたアシタカの耳に、エボシの声が届く。
「このゴンザ、エボシ様のため日夜(にちや)駆け回り、どうにか間に合うことが叶いました…! エボシ様が無事で何より…何よりでございます…!」
門から歩いて出てきたエボシ。彼女の姿を目にとめるや、ゴンザは目もとを拭(ぬぐ)いながら言葉をこぼしていた。
「苦労をかけたな、ゴンザ。よくやってくれた。感謝しているぞ。」
隻腕をゴンザの肩に添え、エボシは優しく労(ねぎら)いの言葉をかけた。
「ははぁっ!」
ゴンザは充血した目をこすりつつ、頭を下げる。そこへ、トキを筆頭とした女衆が茶々(ちゃちゃ)を入れにやってきた。
「何だい、あんた泣いてんのかい?」
「泣きたいのはこっちだよ。もっと早く来(く)りゃ、何事も無く済んだってのにさ。」
いつものように茶化す女衆を、この時ばかりはエボシも微笑んで制するのであった。
「皆、今回ばかりはそうからかわないでおやり。ゴンザには私から大変な使いを頼んだのだ。役目を果たした男は、褒めてやるものさ。」
「あら、エボシ様がそう言うんじゃ、仕方ないねぇ。」
「ま、よくやったよゴンザ! ありがとさん!」
袖(そで)で何度も目を拭っているゴンザの背を、トキがぱんぱんと叩いている。エボシに言われるがまま、一転して朗(ほが)らかにゴンザを褒めちぎる女衆であった。
ところで、にぎやかな笑い声に囲まれていたエボシのもとへ、アサノの使者が馬を進めてきた。
「たたら者エボシ! 公方様はそなたの文(ふみ)を受け、件(くだん)の危殆(きたい)について帝に上奏(じょうそう)をなされた! 帝は事の顛末(てんまつ)を聞(き)こし召(め)し、神殺しは誤断(ごだん)なりと宣(のたま)われたとのこと! よって、神殺しを上奏した師匠連なる者どもをお咎(とが)め給(たま)い、公方様へは至急(しきゅう)、神々の怒りを鎮めよとの命(めい)をお下(くだ)しになられた! 公方様はこれについてそなたの案をお認めになり、直轄地であるこの地における社(やしろ)の創建(そうけん)、及び宮守(みやもり)の任命の権をお認めになられた! なお仔細(しさい)は書状にあり! これよりは森に棲(す)まう神々の鎮静(ちんせい)に努めよ!」
使者の張り上げた声音は、踏鞴場中に通った。エボシは使者と向き合うと、一礼もせずに言い放つ。
「相(あい)分かった。森のもののけ…いや神々は、我らが天朝に代わり丁重に祀(まつ)る。帝にはご安心召(め)されよと伝え願う。」
およそ公方からの使者への応対とは言えぬ物言いであった。とはいえ、使者も今となってはエボシの態度にも慣れたと見え、特に顔色を変えることもなく付け加える。
「エボシよ! 公方様はこれまでのそなたの績(せき)を高く評価しておる! 地侍や我らとの戦のみならず、山犬、大猪といった獣との戦にも長(た)け、踏鞴の経営、商(あきな)いも申し分なく、民の統治もこの上なし! そのうえ、計略をもって帝、公方様、師匠連とやらと渡り合い、生存を計(はか)りし此度(こたび)の策は実に見事! これらをもって、公方様はそなたをぜひ家臣に迎えたいと仰(おお)せである!」
自称とはいえ、将軍家として権威ある公方が、名もなき民の出(で)である者、それも女子(おなご)を直臣(じきしん)として迎え入れるとの待遇は、前例のない話である。しかしながら、やはりというべきか、エボシは高笑って、公方の申し出を突き返すのであった。
「それはたいそうなことだ。だが、私は持ちつ持たれつの関係を結ぶことはあっても、何者かの配下に入るということはない。丁重にお断りさせてもらおう。」
胸を張って堂々と断るエボシの言い方には、丁重のての字も無いのであった。
「致し方なし! が、気が変わればいつでも公方様のもとへ参上致せい!」
公方からの書状を渡した使者は、調子変わらず、甲高い声を張り上げると、手綱(たづな)を引いて馬首を転じた。
「言伝(ことづて)、しかと伝えたぞ!」
言い残し、馬を走らせた使者は、お供の二騎を従え、颯爽(さっそう)と踏鞴場から去っていくのであった。
「さて、アシタカ。」
使者が砂埃(すなぼこり)を昇らせて去っていくと、エボシはふうっと吐息をついてからアシタカのもとへ歩いた。
「そなたもよく時を稼いでくれた。そなたにそのつもりはなかっただろうが、何にせよこうしてゴンザと使者が間に合い、皆が助かることが出来たのは、そなたが粘り強く対話を試みてくれたおかげでもある。感謝しているぞ。」
アシタカは、エボシを真面目な面持ちで見つめる。
「皆が無事で良かった。だが、それはここにいる者たちだけのおかげではない。山犬一族も共に駆け付け、私たちを助けてくれた。それに、そこにいる者たちもまた、自らの意志で駆け付け、手助けしてくれたということを忘れてはならない。」
アシタカはそう言うと、すっかり人のいなくなった路上で、手持ち無沙汰に立ち尽くしている下流の村の若者たちへと目を向けた。
アシタカにつられ、エボシも若者たちへと目をやる。微(かす)かにうなずいて見せた彼女は、アシタカをその場に残し、一人で下流の村人たちのもとへ歩み寄っていくのであった。
「そなたらが下流の村の者か。我らの窮地(きゅうち)に駆け付けてくれたこと、深く感謝している。どうかこれからは互いに助け合い、共にこの地で生きてゆきたい。そのために、我々と村の懸け橋となってはくれぬか?」
一人一人の瞳を順に見つめ、穏やかな口調で語りかけてきたエボシに、下流の若者たちは皆一様に顔を見合わせる。
「…おうよ。もとよりそのつもりだぜ。あんたらにそのつもりがあるんだったらよ。」
皆を率いる若造が、どこか怪訝(けげん)そうな面持ちを見せながらも、エボシに前向きな答えを返した。そこへ、ゴンザが、血相を変えて飛び入ってくる。
「エボシ様! このような見知らぬ男たちに安易(あんい)に近づいてはなりませぬぞ! 一度は我らを襲った者です! 何をしでかすか分かったもんじゃありません!」
両の腕を開き、鬼の形相(ぎょうそう)で若者たちの眼前に立ち塞がるゴンザ。かたや、ゴンザの蔑(さげす)みをただで聞き流す若造ではなかった。
「おい、てめぇ! 聞き捨てならねぇな! それがわざわざあんたらを助けに来てやった俺たちに言う言葉かよ! ほかに言うことがあるだろうよ! ほかに!」
「生意気な若造が! 偉そうな口を利(き)くな! お前が一体何をしたというのだ!」
「ゴンザ。」
言い争いが始まったとみるや、早々にエボシが口を開く。
「この者の言う通りだ。我々のために下流から駆け付けてくれたこの者たちに、お前からも礼を言ってやっておくれ。」
「しかしエボシ様…!」
食い下がるゴンザ。だがエボシは真顔の一片たりとも微動だにせず、ゴンザを見つめている。
「ゴンザ、私からの頼みだ。よいな。」
「…あ、はい。」
ぼそっと一言を落とし、しぶしぶ従うゴンザ。
「…エボシ様の窮地に駆け付けてくれたこと、礼を言う…。」
ようやっと、喉のどこからか絞り出されてきた礼の言葉を、若造は毒気(どくけ)を含ませた言い方できっぱりと訂正する。
「別にそこの女のためじゃねぇけどな。ま、いいとするよ。」
ここぞとばかりに、ふすん、と鼻を鳴らした若造を目の当たりにして、ゴンザは額(ひたい)にしわを寄せていく。
「貴様っ…! エボシ様をそこの女呼ばわりするなど…!」
こめかみに血管を浮かべるゴンザ。ここでさらなる一悶着(ひともんちゃく)を未然に止めたのは、傍らで話を聞いていたエボシ踏鞴の女たちであった。
「はいはい。もういいから、ゴンザはあっち行って頭でも冷やしな。」
「あんたがいると騒がしくてまいっちまうよ。」
呆れた様子で言いながら、トキと女衆はゴンザを無理やりその場から連れ出していく。
「おい、待て! 話はまだ…!」
「まぁまぁ、ゴンザの旦那。ここはおとなしく引いてくだせぇ。」
女衆に加え、牛飼いのお頭といった男衆も合流し、踏鞴場の皆でゴンザを引き離していくのであった。
「ほら、あんたたちもいつまでそこに突っ立ってるつもりだい? こっち来て一息入れな。たいしたもんは無いけどさ、お礼に食わせるおまんまくらいならあるから、遠慮せずに呼ばれな。」
力押しでゴンザを連行しつつ、トキは下流の村の若者たちに呼びかけた。エボシもまた、穏やかな声で語りかける。
「聞いての通りだ。遠慮はいらぬ。酒はないが、せめて飯(めし)で礼をさせておくれ。」
「おう、そうかい。ま、飯が食えるんなら断る理由もねぇや。邪魔するよ。」
村の若者たちの顔つきが、眉を寄せた怪訝(けげん)そうなものから、ぱっと明るい表情へと切り替わっていく。若者たちは、遠慮する素振りなど微塵(みじん)も見せることなく、踏鞴場の民に付いて二の郭(くるわ)の門を潜(くぐ)っていった。皆、満足げな笑顔であった。
師匠連の手の者、アサノの使者、サンと山犬兄弟、ゴンザと踏鞴場の女衆、男衆、そして下流の若者たち。皆が去り、しんと静まった二の郭(くるわ)の門前には今、アシタカとエボシの二人だけが残されていた。
「エボシ。」
門へと歩を踏み出したエボシを、アシタカは呼び留めた。
無言で振り向いたエボシに、アシタカは尋ねる。
「…私には、あの侍の使者が言っていたことがよく分からなかった…。そなたが打った策というのは、一体どういったものだったのだろうか。」
エボシは目をつむって言う。
「なんということはない。単に、人間の抱く畏(おそ)れと欲を利用しただけのことだ。」
「畏れと欲…。」
ぽつりと繰り返したアシタカに、そっと瞳を見開いたエボシが教える。
「文(ふみ)を出したのだ、アサノに。ゴンザを遣(つか)わしてな。」
エボシは門前に立つと、そこから望む峰々を眺めた。
「神殺しを行ったあの日、アサノと配下の侍どもは、デイダラボッチの恐ろしさを己のその目で見て城へ逃げ帰った。神の存在を前にすれば、人間ごときの力ではどうにもならないことを、奴らは身をもって知ったのだ。あのデイダラボッチが城へ向かえば、鉄を横取りするどころの話では無いと、アサノ自身が思い知らされたことであろう。だからこそ私はアサノに、森の神々がかつてなく怒(いか)っていること、そしてこれ以上、神の怒りを買っては領地領民どころか公方自身の命も危ういであろうことを忠告したのだ。そしてそれと同時に、町にも同様の噂を広めさせた。神が怒っているとな。そのうえで、此度(こたび)の神殺しを画策し、デイダラボッチを怒らせた元凶(げんきょう)である師匠連をこの地から追い出すよう進言(しんげん)した。」
「だが、デイダラボッチは…シシ神はすでに姿を失っている。」
疑問を口にしたアシタカに、エボシは話を続ける。
「そうだな。実のところ、文(ふみ)の中身の半分以上はほらを吹かせてもらった。…だが、あながち全てが大げさな嘘だとも言い切れん。実際、そなたはシシ神が死んだと思うか?」
「いや。シシ神は生と死、そのものだ。姿は消しても、この世の生きとし生ける者、皆の命として存在し続けている。」
静かに、とはいえ即座に語ったアシタカ。エボシはこくりとうなずき、口を開く。
「そういうことだ。…人は、姿は見えなくとも、神の存在を感じるもの。この乱世、侍どもは常に生と死の狭間にいる。その中であのデイダラボッチを目にすれば、日ごろ感じ取っていた命を司(つかさど)る神の存在を、現実のものとして意識せざるを得ん。シシ神が実体として在(あ)ろうと無かろうと、もはや畏怖(いふ)の対象として胸に刻まれたことに変わりはないのだ。」
アシタカは口を挟まず、閉口してエボシの話に耳を傾けている。
「ついでに言えばな、もともとアサノは、天朝から与えられた特権を振りかざして領内で好き勝手する師匠連のことを、快(こころよ)く思っていなかった。このことについては以前にも話したな。これに、新たに生じたデイダラボッチへの畏れを加味(かみ)すれば、この期(ご)に及んでシシ神の森に手を出そうとする師匠連を、アサノが黙って見ているはずがない。アサノには動機がそろっていたのだ。私はそこに目をつけた。つまり、これ以上シシ神の森を刺激したくないうえ、師匠連を領内から締め出したいとも考えていたアサノに、師匠連と手を切った私が話を持ちかけたという形だ。もとより、アサノには私の話を無視することはできなかった。私こそが師匠連と手を組み、シシ神の森を開拓し、もののけどもと戦っていた実行役張本人であるのだからな。」
ほくそ笑むエボシ。
「だが師匠連の行動は天朝より認可を得たもの。要するに、師匠連によるシシ神の森への干渉を阻止し、奴らをアサノ領内から追放するには、何よりも帝の意志が重要であるということは、私もアサノもとうに分かっていた。だからこそ、一応は公方を名乗っているアサノから、直接に帝へ文(ふみ)を送らせたのだ。此度(こたび)の神殺しの件と、その影響により神や森のもののけどもが怒り狂っていること、デイダラボッチの恐ろしい仔細(しさい)、師匠連の責などに言及し、ほらも交(まじ)えて記(しる)した書状をな。」
ここで、アシタカは指で顎下をなぞりつつ、つぶやく。
「…帝とやらは、一度は師匠連に神殺しを許しておきながら、失敗して神の怒りに触れたと知るなり、今度はアサノの話を聴きいれたということか…。」
「帝も人ということだ。都(みやこ)にいる帝や公家(くげ)は、シシ神が姿を失ったことさえ知らぬ。デイダラボッチが都へ向かえば将軍家でも止められないというアサノの脅しも効いたのだろうが、何より帝が手の平を返した根本には、人間の持つ神や山海、獣に対する畏(おそ)れがあるのだろう。その畏れは生(せい)に由来している。ちっぽけな人間など、いつ命を奪われてもおかしくはないという、死への恐れだ。どのような世になろうとも、人間の死への恐れは消えぬ。だからこそ天朝もアサノも、此度(こたび)の話に乗った。…いや、乗り換えたと言うべきか。いずれにせよ、供御人たる師匠連は、帝から関係を絶たれてしまえば数多の特権を失い、何者でもなくなってしまう。ゆえに、天命に従うほかなかったというわけだ。」
そっと息をついたエボシ。アシタカは天を仰ぐと、果てしない青空を流れゆく、豊かな白雲を黒目に映した。
「…シシ神の首には、不老不死の力があると信じられていると聞いた。神殺しの始まりが不死への欲求…死への恐れであるのなら、神殺しの終わりもまた、死への恐れによるものであったということか…。皮肉なものだ。」
大空へと放たれたアシタカの言葉に、エボシはふっと笑っていた。
「まったく、その通りだな。」
頬(ほほ)を緩めたエボシに、アシタカは次なる疑問を投げかける。
「…しかし、アサノの使者が言っていた社(やしろ)の創建とは一体…。」
「そのことについては気にするな。名目上はこの地の領主であるアサノの代わりに、我々が森のもののけどもを鎮(しず)めてやると私が言った。踏鞴は止(や)め、神を祀るための社(やしろ)を我々が建てる。その代わり、税の免除と自治の権を認めろとな。これによりアサノは銭(ぜに)を出さずに、シシ神の怒りの鎮静という天命を果たしていると言うことが出来る。それに奴らとしては二度とシシ神の森を刺激したくない以上、もはや砂鉄も諦めているからな。人も少なく田畑も無い、山奥のちっぽけなこの場所には、税を取り立てるほどの価値も見出してはいない。踏鞴の操業が無くなり、川が穏やかになれば、下流の民への示しもつく。アサノからすれば最善ではないが、悪手でもない案であったはずだ。」
「だが社(やしろ)を建てるとなればまた材木が要る。人手も無い中でどうするつもりだ。」
アシタカの指摘にも、エボシは首を横に振っていた。
「心配は無用だ。手もとにある材で小さな祠(ほこら)でも建てればよい。たいそうな社(やしろ)を建てるとは言っていないからな。山犬一族や他のもののけどもを鎮めてさえいれば、アサノも帝も何も言うまい。」
「それならいいのだが。本当にこれで全て終わったのだろうか…。」
エボシは真顔となり、アシタカに言う。
「本当の終わりはないであろう。この和議とて当面のもの。人の死への恐れは永遠であろうが、神や山海、獣への畏れは代(だい)を経れば忘れ去られてしまうものだ。シシ神もデイダラボッチも、後(のち)の世では忘れられていることだろう。だからこそ、此度(こたび)の我らの業(ごう)を語り継ぐことが大事でもある。だが、それだけで良き村を守っていくことは出来ぬ。いずれは新たな策を必要とするであろうことも目に見えている。その時はまた、一から生き残る術(すべ)を考えねばならん。」
最後まで抜け目の無いエボシに、アシタカは下唇を噛んでいた。
「…エボシ、今回の件で、私は皆の力になれなかった…。そなたの策がなければ、この地は…踏鞴場も森も、皆も、すべてを奪われてしまっていたはずだ。私が信じるものは、やはり甘いのだろうか…。」
語尾が小さく、うつむいて言い淀んだアシタカに、エボシは明るく言い放つ。
「信念が揺らいでいるか? そなた、何か勘違いしておるようだな。此度(こたび)の策、そなたがいなければ考えもつかなかったであろう。」
顔を上げたアシタカに、エボシは遠く峰々を眺めながら口を開く。
「かつての私であれば、敵対してくる者と和議を結ぶなど、思いもつかなかったことであろう。まさか、この私がアサノに文(ふみ)を寄越すとはな。」
アシタカへ視線を戻すエボシ。
「これも、そなたがいたからこそだ。忘れるな、そなたがその信念を無くせば、私は歯止めが効かぬぞ。」
そう言ったエボシは、にやりと笑っていた。
「…そうだな。」
だが、アシタカの返事は暗かった。見かねたか、エボシはアシタカに近づき、彼の肩に隻腕を添えると、両の眼(まなこ)をじっと見据えて諭(さと)す。
「アシタカ、そなたは未熟だ。どのような世であっても生きていく…そう決意した者というのは、往々(おうおう)にして己に期待し過ぎているものだ。行く道を信じ、強くあらねばと前ばかり向いていると、純粋な、等身大の己を見失ってしまうことがある。狭(せば)まった視野は、世の流れ、あるいは己を慕ってくれている周りの者たちの本当の想いを見誤ることにつながる。そうして、知らぬうちに独りよがりとなっていることさえあるのだ。かつての私がそうであったように。」
エボシは一の郭(くるわ)を見渡しつつ、アシタカに語りかける。
「良い村を築きたい。そのために、そなたには皆を導いてもらいたい。だがな、その一切合切(いっさいがっさい)をそなた一人に背負わせるつもりはないのだ。道が分からぬ時は、私を頼っても良い。私だけではない。そなたの周りには、そなたを慕う者、そして頼れる者たちがいるではないか。この地で皆と共に生きていくことを、そのための決意を、一人で背負おうとするな。私は死んではおらぬ。私が生きてここにいる理由が、そなたにも在(あ)って欲しいものだ。」
エボシの目の前で、アシタカは右の手の平へ目を落とした。彼の手の平には、うっすらと痣(あざ)の跡が残っている。
「…確かに、私は少し先走っていたのかもしれない…。皆と共に生きていくと言いながら、この胸の内では、独りで生きてしまっていたのかもしれないな…。」
そう口にして、ぎゅっと手の平を握りしめたアシタカは、まっすぐにエボシを見つめ返し、輪郭を取り戻した口調で言う。
「ありがとう、エボシ。」
言われたエボシはまるで息でも漏らすかのように、ふふっと小さく笑うと、アシタカに優しく返す。
「それは、こちらの台詞だ。」
エボシの一言に眉尻を下げたアシタカは、一度だけ、そっとうなずくのであった。
「エボシ様! アシタカ様!」
二の郭(くるわ)から、トキの声が聞こえてきた。
「二人とも何してんですか! たいしたもんはないけど、みんなでぱぁっとやるんですから、早く来てくださぁい!」
トキの底抜けに明るい声で呼ばれたアシタカとエボシは、瞳を見合わせると互いに微笑み、同時に歩を踏み出すのであった。
こうして、シシ神の首をめぐる物語は、少しの後記(こうき)を付け加え、一応の落着(らくちゃく)を迎えた。また一つ、小さな物語を終えた彼ら彼女らであったが、これがこの地に生きる者の、踏鞴場に生きる人間と森に生きるもののけ双方の復興の物語の終わりを意味しているわけであるはずがなく、ましてや人生という長い物語の終末でもないことは、言うまでもない。
そう、この地で、この世界で生きていくという、彼ら彼女らの長い物語が、ここに終わることはない。
森において、シシ神の消滅とともに新芽が生まれ、新たな緑が育ちはじめたように、踏鞴場に生きる人々もまた、あの日以来、新たな「いい村」へと向け、歩みを刻んでいる。アシタカとサン。踏鞴場に生きる少年と森に生きる少女が一つの壁を乗り越えたように、踏鞴場の民も日々、次々と現れる壁を、少しずつ、しかし着実に越えていきながら、確かにこの地で生き、物語を続けていくのだった。
エボシの策により師匠連の手の者を退(しりぞ)けてからも、踏鞴場では良い村へと向けた大きな、かつ象徴的な歩みが、一歩、二歩と、時の流れとともに刻まれていった。
神殺しに端(たん)を発した、語りきれないほどの出来事があった梅雨が明けるや、夏にはエボシが呼び寄せた大工衆により、ついに一軒目の家屋が再建されていた。囲炉裏(いろり)を備えた一室(いっしつ)だけの小ぶりな建家(たてや)であり、簡易なものではあったが、それでも嵐や雪にも耐えられる、しっかりとした造りの家屋が建てられていた。
だが、牛飼いのお頭の言っていたように、踏鞴場でかき集めた材にはまともなものが少なく、二軒目を建てた時点で建材として使える材、特に構造上それなりの太さを要する柱や梁(はり)は足りなくなっていた。
よってその年の秋、虫害の減る伐採に適した時期を待って、いよいよ森から木を伐り出すこととなった。
かねてからアシタカがサンに伝えていたように、踏鞴場の民はかつてのシシ神の森で、数本の杉(すぎ)の天然木を伐った。
ほとんどが枯死(こし)していた森において生存していた木には、健(すこ)やかな木から枯れる寸前の木まで、様々な状態のものが見つかっていたが、森のもののけたちへのせめてもの配慮として、伐採の対象木として選ばれたのは、枯死寸前の弱った木であった。さらに大径木(たいけいぼく)は避けられ、小家(こいえ)に用いるような小中径木ばかりが選ばれた。森のもののけへの配慮とは言いつつ、乾燥や搬出、加工という手間(てま)の面からも、枯死寸前の小中径木が踏鞴場の民にとっての最適解でもあった。
かろうじてデイダラボッチの侵食(しんしょく)から逃れていたそれらの天然杉は生命力が衰えており、皮も葉も色が落ち、干からびて、見るからに弱々しいものであったが、それでもやはり、生き残った数少ない木を伐るという行為に、サンはもどかしさを隠さなかった。アシタカと、事情を知っている杣人(そまびと)の案により、伐採を行う前日には酒を供え、当日も山に感謝を示す儀式が行われたが、サンの様子は何ら変わらなかった。
アシタカを信じると言ったサンは、杣人(そまびと)への手出しこそしなかったものの、アシタカと共に伐採を見守った彼女の唇は固く結ばれており、その日は終始無言で、握られた拳もついに解(ほど)かれることはなかった。サンの想いを知っているアシタカは、だからこそそんな彼女の握られた拳を自らの手で包み、強く手をつないで側(そば)に立ち続けたのであった。
ところで、そうして伐られた数本の杉は、一部はその場で玉切り、丸太にされ、牛飼いによって踏鞴場へ運ばれた。残りの杉は、一旦そのまま山に置かれ、半年ほど葉枯(はが)らしによる乾燥をさせることとなり、乾燥して軽くなった春以降に、改めて運び出す段取りとなっていた。
一方、踏鞴場へ運ばれた丸太は、冬までの建築を考慮すると乾燥させる余裕が無かったため、乾燥割れを防ぐための背割りを施(ほどこ)すなり、すぐに柱や梁として用いられた。
こうして三軒目、四軒目と小家が建ってゆき、冬を迎えるまでには数軒の簡素な家が、大踏鞴の跡地に並んでいた。
その年の冬、つまりはシシ神の一件以降、初めて迎える冬の寒さを、踏鞴場の民はこのたった数軒の小さな家で暖をとり、身を寄せ合うことでしのいだ。山奥にあるこの地では当然、真冬ともなれば積雪もあり、寒さの中での暮らしはつらく、厳しいものであったが、大人数で窮屈(きゅうくつ)とはいえ、どうにか皆を収容できるだけの丈夫な家屋が間に合ったことで、全員が無事に越冬することが出来たのであった。
そして季節はめぐり、春となった。
「旦那、これでいいんですかい?」
人肌になじむ陽気の春の朝。鶯(うぐいす)がさえずる青空の下で、甲六の声は新芽(しんめ)の輝く野原に響いた。
「そうだな。だがもう少し、土を踏み固めてもいいかもしれない。」
続いて、アシタカの声。さらに、甲六が答える。
「こりゃなかなか大変ですぜ、旦那。あと何本あるんですかい。」
「まだまだある。頼むぞ、甲六。」
「そんなにあるんですかい? まぁ、旦那から頼まれちゃ仕方ねぇや。あ、そういえば旦那、山犬の姫とはどうなってるんで?」
そこに、トキの声が割り込んでくる。
「あんたわざわざ無駄口が多いんだよ! いいから黙って手ぇ動かしな!」
「…へい。」
しょんぼりとした甲六の返事。踏鞴場の民の大きな笑い声が、春の野山に満ちるのであった。
この日、アシタカを含めた踏鞴場の民は、暖かな日差しの下で、山に杉や檜(ひのき)の苗木(なえぎ)を植えていた。もちろん、「良い村」を築き、存続させていくために必要となるであろう糧(かて)を後世に残すため、アシタカが呼びかけたのであったが、サンの「これからは、お前たちが使うための木は、お前たち自身の手で育てろ。その手で植え、育て、守っていくんだ。猩猩一族が山や森、木のことを教えてくれる。しばらくは私が猩猩とお前たち人間の間に立つ。でも、その先は私も猩猩も手助けしない。自分たち自身で山と向き合っていけ。分かったな。」という言葉が、よりアシタカや踏鞴場の民の行動を促したであろうことは、言うまでもない。
実際、この日に先立って、アシタカはサンと共に猩猩一族のもとへ出向き、樹種やそれに応じた植林と保育の知識を学んでいた。苗木も、今回ばかりは猩猩が用意するとの運びとなり、こうして猩猩一族が手の回らない踏鞴場近辺の野原に、踏鞴場の民が総出で、田畑の耕運(こううん)の合間を縫(ぬ)って植え付けを行っているのであった。
そして、踏鞴場の民が植え付けに汗を流しつつ、賑やかに会話をしている今も、サンは少し離れた丘の上から、人間たちが木を植えていく様子を見守っているのだった。
「にしても、まさか踏鞴場で暮らしてる俺らが、木を植えることになるとはな。人生ってのは分からねぇもんだ。」
しょげた甲六への笑いも静まったところで、鍬(くわ)を振るいつつ、牛飼いのお頭が口を開いた。
「まったくね。踏鞴を踏んでたあの暮らしは何だったんやら。」
息をついたトキが、土汚れた手の甲で額(ひたい)を拭う。そこに、性懲(しょうこ)りもなくいつもの口調で口を挟む甲六。
「お頭、前から思ってたんだけどよ。もう踏鞴もねぇってのに踏鞴場って呼ぶのもおかしくねぇですかい?」
「…まぁ、確かにな。俺もそう思ってはいた。」
鍬(くわ)を土に突き立て、一息(ひといき)を入れるお頭。
トキも手を止め、同意の言葉を口にする。
「エボシ様も、良い村にしようって言っていたことだし、ここらで村として名付けるのもいいかもしれないね。」
がなり立てないトキを見て安堵(あんど)したか、甲六はここで調子良く提案する。
「村の名前かぁ。…なら、踏鞴村(たたらむら)でどうだ? 分かりやすいだろ?」
甲六の口から出てきた案に、トキは、はぁ、と息をつく。
「馬鹿。あんた、話を聞いてたのかい? 踏鞴が無いのに踏鞴場じゃおかしいって話をしてたばっかりじゃないか。踏鞴村じゃなんにも変わってないじゃないのさ。」
だが、他方でお頭が言う。
「いや、いいんじゃねぇか。踏鞴村で。」
「はあ? あんたまで何言ってんのさ。」
「まぁ聞け。確かに、踏鞴はもうねぇ。だが、俺らがここに住み始めたのは、エボシ様が開いた大踏鞴があったからこそだ。それに、今こうして村として建て直しているのも、踏鞴の操業でシシ神や山のもののけたち、師匠連とかいう奴ら、下流の村や侍連中といろいろあった結果だ。それを、この地で何があったのかを、これからも忘れねぇでいくためにも、踏鞴ってのを村の名に残すのは、悪くねぇだろうよ。」
「だろ? 俺もそう思ってたんだよ。」
「ったく、調子いいんだからあんたは。…でもまぁ、そうかもしれないね。ねぇ、アシタカ様はどう思います? …あら、アシタカ様は?」
トキが見回すが、いつの間にかアシタカの姿はなくなっていた。
「ああ、アシタカ様なら、山犬の姫のところへ行ったよ。」
女衆の一人がそう教え、サンが立っている丘を指さした。トキ、甲六、お頭が一斉に振り見ると、サンのもとへ丘を登っていくアシタカの姿があった。
「旦那ぁ! まだ終わって――」
「馬鹿! 声かけんじゃないよ! 行かせてやりな!」
叫んだ甲六を、トキはすかさず遮(さえぎ)った。
「きっと、山犬の姫が一人でいることを気にかけてんのさ。そういう仲だからさ。静かに見守ろうじゃないの、あの二人のこと。」
トキは、清々(すがすが)しい表情で、丘に立つアシタカとサンを見つめるのだった。
「今日はもう終わりか?」
丘を登ってくるアシタカに、サンが明るく声をかけた。爽やかな風が、野原をさわさわと波打たせている。
「少し休息をとっているところだよ。苗はまだまだある。」
アシタカはサンの隣に立つと、会話に花を咲かせている踏鞴場の人々を、丘の上から一緒に眺めた。
「そうか。」
サンは小さく、一言だけ返すと、丘の下で鍬(くわ)を置いて休憩している人々、そしてその背景に見える、湖に浮かぶ踏鞴場を眺めた。
「お前らに、木を伐るなら木を植えろと言ったのは私だけど…でもまさか、本当にこんな日が来るなんて、思ってもみなかった…。」
そう口にしたサンの眼差しは、至って真剣なものであった。アシタカは、そんな彼女に微笑みを見せる。
「森がなければ、人は生きていけない。住まいを建て、火を焚(た)き、道具を作って、食べ物を得る…。全てに、木が必要だから。森を育(はぐく)み、保っていくことは、人の暮らしを後(のち)の世につなげていくことにもつながるんだ。だからこうして皆、汗を流してくれるのだよ。」
さらさらと抜けていくそよ風が、サンの髪をなびかせる。
「アシタカが言っていた通りだな。…でも、それなら私が今まで見てきたものは何だったんだろう…。」
ぽつりとこぼしたサン。アシタカは、遠くで楽しげに笑っている踏鞴場の民へ目をやった。
「サン。私は、郷(さと)を出てからこの地に至るまでに、多くの国々を目にしてきたよ。その中には、木を伐り尽くしてしまった国があれば、森を維持していくために決まり事を定める国もあった。裸(はだか)になってしまった山に、木を植えている国もあったよ。ちょうど、今の私たちのように。」
アシタカの話を聞き、サンはとたんに目口を開いた。
「他にも、木を植えている人間がいたのか!?」
「ああ、そうだよ。」
「信じられない…。」
つぶやいたサンに、アシタカは優しい口調で教える。
「サンが見てきたものも、人の姿であることに違いはない。でも、全ての人がそうではないということも、知っておいておくれ。これまでもこれからも、人は森に頼って生きていかなければならない。だからこそ、人は森を生かそうともしてきた。いつの時代もね。…ただ時々、少しの間だけそれを忘れてしまう者もいる。この地の人々がそうであったように。」
サンは、一帯に広がる幼い草原、そして残雪が白く輝いている峰々を見渡しつつ、静かに言う。
「…でもその少しの間に、あまりにも多くのものが失われてしまった…。」
アシタカも、彼方へ連なる峰々を見渡した。
「そうだ。けれど、全てが失われたわけじゃない。」
力強く言ったアシタカは、サンに向き合った。
「サン、よく聴いておくれ。私は、この地がかつてどれだけの緑に満ち溢れ、栄えていたのかを知らない。どんなに深く、どんなに美しく大きな森がこの地に広がっていたのかを、私は知らない。古くからこの地に生き、過去を知る者は、今この景色を前にして言うのかもしれない。かつて満ち溢れていた緑は失われてしまった、この地は変わってしまった…と。けれど、私は今、この地を見つめてうつむきはしないよ。なぜなら、そなたも私も、かつてのこの地ではなく、今のこの地に生きているのだから。今と、そして未来のこの地で生きていく私の目には、シシ神が遺(のこ)した幼い緑よりも、森のことを思い出し、共に生きようと心に決めたあの踏鞴場の皆の姿こそが希望に見える。だから、どんなにかつての世が美しいものであったとしても、かつての世に生きた者が今この景色を見てどんなことを言おうとも、私は私たちが生きていく世を諦(あきら)めたりはしない。失われたものばかりに想いを馳せ、かつてのこの地に生きたかったと思うことはない。私はサンが隣にいる、今のこの地に生きたいから。人々のあの姿、この景色こそが、私たちの世界なのだから。うつむきはしないよ、生まれた希望を前にして。」
アシタカの澄んだ瞳は、サンの柔らかな眼差しを掴んで離さなかった。
サンも、アシタカの一抹(いちまつ)の淀みも無い、無垢(むく)なる黒目を見つめる。
「アシタカ。」
サンは、一つ一つ言葉を選ぶように、ゆっくりと唇を開く。
「…私は、シシ神様がいなくなってからずっと、こんなに小さく頼りない芽しかないこの地で生きていくのかと、うつむいてしまっていた…。遺(のこ)された芽を育てていかなければならないと分かってはいたけれど、それを育てたところで、かつてあった森が蘇(よみがえ)るわけじゃないのも分かっていたから…。」
サンは、すぅ、と深く息を吸い、そして続ける。
「でも、アシタカと一緒にこの景色を見ていて、今は思うんだ。過去にあった世界を取り返す必要は無い、って。過去にあった、深くて大きな森は恋しいけれど、アシタカの言う通り、そこはもう、私たちが生きる世界じゃない。私も、アシタカも、あの人間たちも、今を生きてる。人間を許したわけじゃないけれど、これからの世界が、今を生きる私たち自身の手で育てられるのなら、うつむくことなんかない。アシタカと歩んで見えてくる世界がどんなものであったとしても、きっと私にとっては美しいものになると思う。アシタカが隣にいるから。兄弟たちが共にいるから。これから先も、良いことも悪いことも、色んなことがこの世界では起きると思う。でも、そんなことで私たちの生きる世界は終わらないし、終わらせるつもりもない。」
サンの髪が、春の暖かな風になびいた。
「アシタカは言ったな。共に生きよう、って、私に。あれからずっと、毎日毎日、笑ったり怒ったり、悩んだり悲しんだり、色んなことばかりだ。でも、そのおかげで分かってきた。何度立ち止まったって、何度振り返ったっていい。だけど最後には前を見て、どんなに小さくても一歩踏み出す。これが、生きるということなんだ、って。共に生きるってことは、一緒に立ち止まって、一緒に振り返って、一緒にまた前を向いて一歩を踏み出すってことなんだ、って。」
そう言って、サンは全身に風を浴びつつ、前へと歩み出た。
「アシタカがああ言ってくれなければ、私は今もうつむいていたと思う。これからの世界に生きたいと思えなかったと思う。だから、ありがとう。あんなに温かな言葉を渡してくれて。そして、今度は私から言わせて欲しいんだ。」
サンはアシタカを振り返ると、これまでのどんな時よりも明るい笑顔を見せ、言うのだった。
「アシタカ、生きよう! 一緒に!」
アシタカは深くうなずく。
「生きよう、共に! どんな世界が待っていようとも、共に歩めば、生きていけるよ。必ず。」
また、風が吹いた。さらりと草原を波打たせた一風は、名も無き草花を撫(な)でて舞い上がり、ふわりとアシタカとサンの髪をなびかせて、青空へと高く昇っていく。
麗(うら)らかな天空に輝く春の陽は、今日も変わらず、世界を明るく照らしていた。
おわり