甲六という男

「腹、減ったな…。」

この言葉、もはや甲六の口癖となっていた。

「おめぇよぉ、まだ朝飯食ったばっかじゃねぇか。」

呆れかえる牛飼い達。そんな光景もまた、今では見慣れたものである。

 澄んだ空気に、肌にはひんやり冷たい北からの風。日に日に冷気の強まるこの時節、陽の温もりはますますありがたい。それが、秋である。

 懸命に世話を続けてきた作物達も、ここにまできてやっと収穫を向かえる。実りの秋とも呼ばれるが、それは作物果実の実りのみならず、なによりそれまで重ねてきた労力が収穫というかたちで「実る」という意味でもあるのだろう。いずれにしても、この新たな村の人々にとっては、この先に待ち構える長い冬を越すための大きな実りであることに変わりはなかった。もちろん、その実りを前にしてもなお甲六があの口癖をこぼすのにはわけがある。
実りの秋とはいえ、この時期に得ることのできた作物の多くは、人里に降り、僅かな米と交換されるか、干す漬けるといった形で手を加えられ、保存される、あるいはそのまま蔵に直行し蓄えられ、冬を越すための食糧となってしまう。ようするに、収穫したからといってそれらがすぐに彼らの腹の中に収まるというわけではないのだ。そしてここにいるのは、そんなことは重々承知の甲六である。

 朝から木鍬を振りかざし、里芋を掘り出しては背負い籠に放り込む。食べるために働けど、腹を減らした男がその手に掴むその芋も、この日のうちに彼の腹に収まるわけではない。その日、お天道様もまだ昇り切らない昼前から甲六が例の言葉を呟いたのも、ある意味では無理もない話であった。

「…うまそうだな、これ。」

土の中からひょっこりと出てきた里芋を眺め、甲六が呟いた。

「しばらくはこんな芋ばっかだ。すぐに飽きちまうよ。」

仲間の言葉に溜息をつき、腰を屈めて芋を拾う甲六。痛ましいことに、屈めた拍子に背の籠から芋が次々転がり落ちてくる。その様子を目にする牛飼い達。彼らは呆れつつ、自らの仕事に戻るのだった。

 そんなこの日、甲六がそのような調子ではあったものの、男達の収穫作業も思いのほかはかどったこともあり、陽が昇りきったところで早めの休息を取ることとなった。

「おーい、甲六ぅー。」

甲六が畑の脇で横になっていると、ふと彼の名を呼ぶ声が聴こえてきた。何事かと横たえていた身体を起こし、声の主を探す。どうやら、声の主は、畑が開かれた下の郭ではなく、今は長屋の並ぶ上の郭から叫んでいるようだ。男が再び叫ぶ。

「アシタカの旦那がおまえのこと呼んでんぞぉー!」

「…あ? 旦那が?」

特に身に覚えのない呼び出し。甲六は眠たげな目をこすりつつ、「おー、わかった! 今行く!」と返事をする。

 上の郭に行くと、さきほどの男が待っていた。甲六が近づくとその男は「赤鹿の厩にいる。」とだけ言い、そそくさと歩いていってしまった。赤鹿の厩とは、ヤックルのための厩舎のことだ。そこにアシタカもいるということであった。

 厩は長屋のすぐ隣に建てられていた。

「旦那ぁ、なんか用ですかい?」

声を上げつつ、甲六が厩に入っていく。

「旦那ぁ、旦那ぁ?」

 その厩にアシタカのいる様子はなかった。そこかここかと辺りを見回すが、何の気配もない。そこにいるのは、この厩舎の主…つまり、ヤックルだけだ。

「…いねぇや。」

一人呟く甲六。と、そこにいるヤックルの視線に気がつく。じっと甲六を見つめるヤックル。

「…よ、よぉ。」

じーっとこちらを見つめてくるヤックルに、思わずたじろぐ。と、次の瞬間、ふいにヤックルがその鼻をブフンと鳴らした。

「な、何だよ。」

驚く甲六。そんな彼の様子を見つめるヤックル。何かを訴えているようにも見えた。すると、今度はヤックルがその鼻先をぐっと突き出し、何かを指し示すような仕草をしはじめる。

「…だ、だから何だって…。」

ヤックルは彼に何かを伝えようとしている。そこまでは甲六にも分かるのだが、それが何を意味しているのかが彼には皆目見当もつかないのだった。そんな男を見兼ねてか、ヤックルが再びブフンとその鼻を鳴らし、続けてまた鼻先で何かを指し示す。

「おっ。」

見ると、鼻の先で指し示すその先に、一つの革袋が置かれている。そこはヤックルからは届かない場所であった。
袋はふっくらと膨らんでおり、何やらたくさん詰め込まれているようだ。甲六はそのことに気がつき、革袋を手にとってその中を覗きこむ。中には大小様々な果実や木の実が詰め込まれていた。

「なんだ、お前、まだ飯食ってねぇのか。」

 どうやら、その革袋に入っているのはヤックルの朝飯のようだ。彼の言うことが分かっているのかいないのか、ヤックルは再びその鼻を鳴らすと、甲六をじっと見つめるのであった。

「わ、わかったよ。」

その訴えるような瞳に気圧されたのか、甲六は革袋から木の実、果実を取り出してやると、ヤックルに食べさせてやるのだった。

「…おまえ、いいもん食ってんだな。」

自らの手の上にいっぱいに盛られた色とりどりの木の実や果実。それをもしゃもしゃとおいしそうに食べ続けるヤックルを見て、甲六が思わず呟いた。構わず口を動かすヤックル。そんな様子を見ていると、どこからか腹の鳴る音が聞こえてくる。無論、甲六の腹だ。

「…ちっとならもらっても、いいよな…。」

ヤックルが再び鼻を鳴らす。どうやら否定されたらしかった。

「甲六。もう来ていたのか。待たせてすまなかった。」

 ちょうど、ヤックルが食べ終わるか終らないかというとき、背後から声をかけられた。甲六が振り返ると、厩の入口にアシタカが立っていた。

「お、旦那。今朝は山行きだったんですかい。」

「あぁ。今朝はサンと共に日の出を見に行く約束をしていたんだ。」

事も無げにそのようなことを言いのけるアシタカ。そう口にする顔は何やら嬉しそうである。甲六はまともに聴いているのかいないのか、「そりゃあ仲の良いこって。」とだけ応じるのだった。

「この季節は空が澄んで眺めが美しい。甲六もおトキさんと行ったらどうだ。おトキさんもきっと喜ぶだろう。」

予想だにしなかったアシタカの発言に、当の甲六はすぐさま「まさか」といったように顔を強張らせ、何を恐れてか、声を潜めてこう言うのだった。

「…旦那、この忙しい時期ですぜ。おトキのこってす。んなこと言ったら張り倒されちまいやすよ。」

そんな甲六のもっともな言葉に、アシタカも思わずハハと笑っていた。

「たしかに、甲六の言う通りかもしれないな。」

そう言いつつ、厩舎に入ってくるアシタカ。甲六はそんな彼を見て思い出す。

「あ、そういや旦那。こいつ、朝飯まだ食ってなかったみてぇだったんで、俺がやっときやした。山帰りなら飯やんねぇとかわいそうですぜ。ずいぶん腹空かせてたみてぇで、すげぇ勢いでたいらげちまった。」

「飯?」

甲六の言葉に動きを止めるアシタカ。彼にとっては思いもしなかった言葉のようで、足を止め、しばしの間その目を丸くする。しかし、甲六の顔、その甲六が手にしている革袋、そして、もしゃりもしゃりと口を動かし続けるヤックルへと視線を移していった彼は、すぐさま事情を察したのだろう。次の瞬間には腹を抱えて笑いだしていた。

「な、何がおかしいんで?」

突然の笑いに驚く甲六。アシタカは、そんな甲六にはお構いなしにからからと笑っている。

「…そうか、ヤックルが食べてしまったか…。」

笑いを抑え、彼が一人言のように口にした。

「『食べてしまった』って…。」

束の間、その手に握る革袋を見つめ、考える甲六。すぐに間違いに気がついた彼は、アシタカに尋ねるのだった。

「…えっ、だって旦那ぁ…これ、こいつの朝飯じゃ…。」

「ヤックルなら、今朝の分はもう、そなたがここへと来る前に食べ終えている。」

甲六にとって、思いもよらない言葉だ。

「えっ、じゃあさっきの食いもんは…」

アシタカが申し訳なさそうに答える。

「あれは、そなたに食べさせようと私が取っておいたものだ。朝方、森へ入った帰りに、サンから山のように手渡されたのだが、私一人ではとても食べ切れない。それ故、いつも腹を空かせていたそなたにと思い、ここに取っておいたのだ。」

予想外の展開だった。

「じゃ、じゃあ旦那ぁ、こいつわざと俺の…」

そう言い、物凄い勢いでヤックルを振り返る甲六。視線の先にいるヤックルはといえば、その口をもしゃもしゃと動かすばかり。

「あぁ、すまない甲六。ヤックルを許してやってくれないか。悪気は無いんだ。」

彼はそう言いながらヤックルに歩み寄ると、いつものようにその喉元を掻いてやった。当のヤックルは、気持ちよさそうに目を細める。

「そ、そんな…。旦那ぁ、あんまりっすよぉ…。」

せっかくありつけたはずの食物を、それと知らずに明け渡してしまったと知り、甲六は大いにがっかりしていた。しかし、さすがに申し訳ないと感じたのだろう。それでは済まさないのもアシタカであった。彼は、がっくりと肩を落とす甲六に歩み寄り、声をかける。

「心配するな。そなたにはこれで埋め合わせをしよう。」

言いつつ、アシタカが懐から何やら取り出す。どうやらそれは食べ物のようだった。竹皮に包まれた拳大ほどのそれが甲六の目の前に差し出される。それを目にした彼は思わず「旦那、こりゃあ一体…。」と尋ねた。彼の問いに、アシタカは笑顔でこう言った。

「今朝の私の分の握り飯だ。おトキさんが私のために取っておいてくれていた。日の出前、ここを発つ前に飯炊きの者に今朝の米飯は必要ないと伝えておいたのだが、どうやら気を使わせてしまったようだ…。ちょうど今しがた貰い受けたものだが…。これで許してくれるか、甲六。」

「…で、でも旦那ぁ、いいんですかい?」

「あぁ。私もどうしたものかと考えていたところだ。」

その言葉に、明らかに表情が晴れていく甲六。

「…そうですかい。そ、それじゃあ、ありがたくいただきやす…。」

腹の減った男に、差しだされた飯をつき返す理由などなかった。

「…旦那ぁ…んにしても…こいつも…あんまりっすよ…。」

早速、握り飯を口に頬張りながら、ヤックルへの不満を口にする甲六であった。

 その後、休憩を終えた後の甲六は、いつにもましてよく働いたという。

 ところで、この日の夜、どこから聞き出したのか、厩でのこの一件を耳にしたトキが、寝る前に一言、甲六にこう言い放った。

「なんだい。あんたなんかよりヤックルの方がよっぽど利口じゃないか。」

筵の上に横たわり、すでに寝る態勢についていた甲六は、その話にぎくりとする。

「だ、だってよぉ…。」

「だって、何さ。」

「…いや、なんでもねぇ…。」

「…ったく。」

呆れた口調で言い放つと、最後に僅かに燃え残っていた火を消し、彼女もまた寝床につく。

 秋の、ひんやり寒い夜だった。

「…な、なぁ、おトキ。」

秋月の光が差し込む薄明かりの中、甲六がふと、口を開いた。

「何さ。」

相変わらずきつい口調のトキ。甲六は、そんなトキに向かって言うのだった。

「…今度、日の出でも観に行くか。この季節、空が澄んでてきれいだぞ。」

耳に聴こえる虫の鈴の音。しばらくの間を空け、トキが答える。

「…バカだよ、あんたは。」

そして、続けて言うのだった。

「…で、いつ、行くんだい?」

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