第一章
「アシタカは好きだ。...でも、人間を許す事はできない。」
「それでもいい。サンは森で、私は踏鞴場で暮らそう。共に生きよう。...会いに行くよ、ヤックルに乗って。」
ふっとそよ風が優しく頬を撫でたかと思えば、足元に広がる草原が波打ち、さらさらという心地よい音色が聴こえてくる。天空を仰ぎ見れば、透き通るような青い空が視界を包み込む。決して届くことのないその天上の世界では、まばらに浮かぶ豊かな白雲が、ゆっくりと山の彼方へ流れていた。
その日、緑の再生と共に夜が明けた。すでに太陽は天の頂を目指し高く昇り始めている。
風薫る、新たな一日の始まり。失われたはずの緑を取り戻したその山並みは、新たに迎えるこの朝の陽光に美しく映えていた。それは、この地を初めて見る者の目に、希望に満ち溢れた土地として映っているのかもしれない。しかし一方で、その光景に希望を見出すのは、人の世界に生きる者であることの証でもあった。
人は、自らの目に美しく映えるものを良しとする。例えそれが本来の森の姿ではなくとも、己が美しいと思い、希望を感じたものは、森にとっても希望なのだと錯覚する。人間にとって、森と森に生きる者達の想いなどは関係なく、自らが美しいと感じればそれでよいのかもしれない。だが、森に生きる者達は、目前の光景に生きるための糧、そして住むべき場所を見出せず、自ら守り、守られた森の喪失を現実のものとして感じざるを得なかった。
そう、少年の隣で、山犬として生きる少女がふと見せたあの表情が、何よりもそれを物語っていた。そこにはもう、かつて人間が畏れ敬った森は広がっていない。今そこにある緑、それは、肥えた幹が深い森としてあるのではなく、ただただ弱々しい、若く小さな新芽が草原として広がるだけのものだった。
神獣シシ神の首を巡る争いは、その神の終焉と森の再生によって幕を閉じた。
一つの物語は一応の幕切れを迎えたが、それは今後続くであろう新たな物語の始まりに過ぎない。髪を揺らすそよ風に、連なる山々のはるか彼方まで続く青い空。静かに流れていく白い雲や、足元で風に揺れる名も無き草花。それらの美しい姿だけを目にすれば、そこにある緑の世界は明るい未来を感じさせ、一つの物語の終わりを飾るにふさわしい存在に思われる。だが、森の再生は新たな希望の「芽」に過ぎず、過去の威厳ある森の再現ではない。また、踏鞴場の破壊は一時の人間の業を消し去ったに過ぎず、人間という生き物がその欲を捨てたわけではない。
残された者達の目の前に広がる世界。そこにある光景は、姿かたちこそ変化して見えるものの、森に生きる者、人界に生きる者双方が置かれている状況は、何一つ変化したわけではなかった。
詰まる所、憎悪と殺戮の果てに彼らが最後に成し遂げたことといえば、「生きる」ことそのものでしかないのだった。
「生きる」。
それは、彼らが唯一成し遂げたことであると同時に、命ある者が考え得る最高の光明でもあった。
もちろん、先の見えない世において、生きることがどれ程の光と成り得るのかは分かる筈もない。だが、その中においてもなお生きるに足りる希望を、少年と少女が互いの中に見い出していたのは確かだった。森と人、双方が惨劇の中から得ることができた本当の希望とは、少年と少女の中に芽吹いた互いへの想いであり、二人が共に同じものを背負い生きていく姿そのものなのかもしれない。
一つの物語を終えた時、この地に残された緑は少なかった。それは、誰かが守り、育てなければならないことを意味する。
一つの物語を終えた時、少女の横顔はどこか寂しげだった。それは、誰かがその笑顔を取り戻さなければならないことを意味する。
少女に向かって、少年は言った。「共に生きよう」と。
その一言は、少年がその全てを背負い込むことを意味している。人と、森と、その狭間に生きる少女...。たった一人でその全てを背負い込むのは、重く苦しいことなのかもしれない。だが、それは同時に、森の成長を少女と共に喜び、少女が笑う時はその隣で共に笑うことでもあるのだ。
少年と少女にとって、この地の未来は希望に満ちたものではないのかもしれない。しかし、だからといって絶望が待っているわけでもないのだ。そこにあるのは互いへの純粋な想いであり、それ以外のなにものでもない。だからこそ、険しく、決して明るくはないこの変わらぬ状況の中でも、二人が見つめる先には、それでも共に生きる未来があるのだった。
そして、一つの物語を終えた二人は今、互いの心に自らの想いを託し、少女は自らの生きる森へ、少年は己のあるべき人界へと戻ろうとしている。二人の行く道は異なるが、心の内に根差した想いは共に同じものであった。
アシタカは、その柔らかな表情でサンと山犬を見送った。
その後ろ姿が見えなくなっても、彼はしばらく、風にさざめく草原に一人たたずんでいた。暖かな風が彼の黒髪をふわりと揺らす。彼は、はるか彼方まで連なる山々を見渡し、空を見上げた。そして視線を落とし、最後にその右の手の平をもう一度見つめる。そこにあったはずの痣、彼をこの地に呼び寄せたあの赤黒い痣は、今ではもう彼の手の平に僅かにその名残を残すだけであった。
彼はそっと瞳を閉じ、ゆっくりとその右手を下ろす。大きく息を吸い、再び目を開くと、ヤックルに向き直り、優しく語りかけるのだった。
「ヤックル、私達も行こう。私達の暮らす地へ。踏鞴場へ。」
彼はヤックルに跨り、踏鞴場の浮かぶ湖へと向かった。ヤックルの背に乗った彼は、野原を湖へと下りながら、新たな生命により生まれ変わったこの地を一望する。
眼下に広がる湖。遠く、新緑に覆われたその踏鞴場を目にすることができる。
今彼が目にしている踏鞴場は、まるで城のようであった以前のそれではなく、すっかり周囲の風景に溶け込んだ、湖面に浮かぶ緑の島と化していた。まさにそこが、夜が明ける少し前まで、この地を荒廃へと導いていた人間達の活動の中心地であったとは、誰しも想像し得なかった。この地は、一夜にしてそれほど変貌していたのだ。
遠目ながらも、人間の生活の名残を微塵も残さない踏鞴場を目にし、ふとアシタカが呟く。
「...踏鞴場の皆は、無事逃げおおせただろうか...。」
踏鞴場へと向かう今、彼の頭の中には踏鞴場の人々のことがあるのかもしれない。シシ神の首を取り戻すのに先立ち、踏鞴場の皆に逃げるよう伝えたあの時から、彼は牛飼いや踏鞴踏みの女達の姿を目にしていなかった。
だが、出会いの瞬間がそうであるように、再会の時もまた、訪れるのは突然であった。
穏やかな風に波打つ草原を歩み、視界に捉える踏鞴場の影も次第に大きくなり始めた頃だ。それまで悠々と歩を進めていたヤックルが、突然足を止め、頭を上げる。そのままぴくりと耳を動かしたかと思ったのも束の間、不意に前方を見つめた。
ヤックルの視線の先に、小さな人影が見え隠れしていた。アシタカもまたそれを見つめる。
「...人が来る。」
生茂る草に足を取られながらも、懸命に斜面を登ってくるその人影は、だんだんとこちらへ近づいている。アシタカの眼には、依然としてそれが何者であるのかを見分けることができない距離ではあったが、近寄ってくるその人影の数は徐々に増え、目を凝らせば幾人かで固まって歩いているのを目にすることができた。
彼はしばらくヤックルの歩みを止め、人の姿を見極める。
互いの間合いも次第に縮まり、その者達が必死に何かを叫ぶ声が耳に聞こえてくる。定かではないが、誰かを捜しているようだ。
時の経過と共に、必死に叫ぶその声も耳に近くなる。
「踏鞴場の皆だろうか...。」
彼が呟いたその時だった。
風に乗り、かすかにアシタカの名を呼ぶ声が聞こえてきた。女の声だ。声の主が誰なのかは分からない。
アシタカは耳を澄ました。もう一度、同じ声が叫んだ。今度ははっきりと聞こえる。
「アシタカ様ぁ~!!」
おトキさんだ。
「旦っ那~!!」
そう叫ぶのは男の声。甲六だ。
「旦那ぁ~!! どこにいるんで~!!」
お頭の声も聞こえる。どうやら、踏鞴場からアシタカを捜しにやってきたようだ。顔までは分からないが、朱色や灰色、様々な小袖を着た十人ほどの姿が見てとれる。
「私はここだ!!」
アシタカはそう叫び手を挙げ、大きく振った。すると、トキらもアシタカに気付いたと見え、続けて彼の名を叫び、ちぎれんばかりに手を振る。そして、彼女達は勾配のある草原を勢いよく駆け登ってきた。
「アシタカ様ぁ~!!」
「旦那ぁ~!!」
アシタカも安堵の表情を浮かべ、すぐにヤックルを走らせる。駆け登る先頭にはトキの姿があった。その後ろには、お頭、甲六の姿もある。
時折、清爽な風が吹き抜けるこの草原で、彼らは再会したのだった。
走りに走り、真っ先にアシタカのもとへと駆け寄ったトキが開口一番、アシタカの無事を喜んだ。
「よかった。あんた、生きてたんだね。」
お頭や甲六ら牛飼い達や、数人の女達がトキに追いつくのに、さほど時間はかからなかった。彼らは、アシタカの跨るヤックルの周りに続々と集まってきては口を開く。
「だ、旦那ぁ、大丈夫ですかい。」
甲六は膝に手をつき、ぜぇぜぇと息苦しそうに言った。お頭もまた、苦しそうな口を開く。
「旦那、ご無事で何よりです。」
「踏鞴場は、皆はどうなった?」
アシタカがお頭に尋ねた。
「だいぶやられちまいました...。しかし、無事な者も何人もいます。」
お頭がそう答えたのを筆頭に、集まってきた他の牛飼いや女達も口々に踏鞴場の様子を話し始める。
「踏鞴はもう駄目です。焼けちまった。」
「家屋も倉も、大方なぎ倒されちまいやした。」
「何人やられたのかまだ分からねぇんだ...。」
次々に話す牛飼い達を静め、お頭はアシタカに言う。
「今は生き残った者達で手分けして動いているところです。男共は行方の分からない者を、女達は食い物を探してます。俺達はエボシ様に言われ、旦那をお迎えにあがりました。」
アシタカはお頭のその言葉を聞くと、彼に尋ねる。
「そうか...。エボシ殿はどこに?」
「踏鞴場で旦那をお待ちです。」
「すぐに行こう。お頭、エボシ殿のもとへ案内頼む。」
「任せてくだせぇ。」
お頭はそう答えると、おトキや甲六ら牛飼い達に向かって、大きな声で呼びかけた。
「俺は旦那をエボシ様のもとへお送りする。おめぇらは他のやつらと一緒になって動くんだ。いいな。」
「へい。」
皆が威勢よく返事をする。お頭は再びアシタカに向き直り言う。
「それでは旦那、いきましょう。」
お頭が先を行き、踏鞴場へと歩み始める。ヤックルに乗るアシタカもそれに続いた。
踏鞴場に着くまでに、二人は数々の侍の屍を目にすることになった。
所々に伏している武者達の屍は一見、花々の咲き乱れる新緑の野原に、自らその身を預けているようにも見える。青々とした草原に横たわる屍は、その身を包む新芽が陽の光を目指す姿とはあまりにも対照的だった。途中、地面に突き刺さった侍の旗が、力無く風にはためいていた。
踏鞴場正門へとやってくると、そこには異様な光景が広がっていた。
丘を下り、かつての大門を前にした時、アシタカはまるでその地に初めて訪れた者かのように、緑に呑み込まれた踏鞴場を見つめていた。
踏鞴場を囲み込む巨大な木柵列は、その一部がなぎ倒され大きく傾いている上に、かろうじて直立を保つ丸太も、溢れんばかりの緑に覆われている。そこからは、かつての要塞のような排他的様相は少しも見てとることができなかった。
先を行くお頭が門を抜けるのに続き、ヤックルに跨るアシタカも門をくぐる。 頭上からはヤブガラシの葉が垂れ下がっていた。それを押しのけ、踏鞴場の中へと入る。
僅か幾日か前、人々の活気で満ちていたはずの踏鞴場は、まるで何百年もの間その存在が忘失されてきたかのように、地面も家屋も、何もかもが蔓草に埋め尽くされていた。
彼らの歩く道は、足首程の高さの若草によって敷き詰められ、その下にある土を目にすることはできない。黒ずんだ長屋の屋根板は所々吹き飛ばされ、格子は青緑の蔓に巻かれていた。家屋の土壁もまた多くが無残に剥がれ落ち、中の木舞が露わになっている。太古の遺跡かのようなそこにはもう、この地に暮らした人々の面影はなかった。
アシタカは、ヤックルの背に揺られながら、そんな踏鞴場を感慨深げに眺め渡していた。ふと、草に埋もれて横たわる人々が目に留まる。彼はヤックルの歩みを止め、横たわる人々を見つめた。
それは、命を落とした踏鞴場の人々だった。
牛飼いの者達がそうしたのか、静かに眠るその亡骸は、広がる草花の上に丁寧に並べられている。しばし、彼はヤックルの上からそれらの亡骸を見つめていた。先を行っていたお頭も、そんなアシタカに気が付いたのだろう。お頭は振り返ると、アシタカの様子を目にして口を開いた。
「...ここにいるのはほんの一部です。まだ、何人も...。」
アシタカはそう聞くと、かすかに頭を垂れ、暗い表情で再びヤックルの歩を進める。お頭もまた、踏鞴場の奥へと歩き出す。
残された亡骸達は、静かに両の目を閉じたまま、その身を野に沈めていた。
途中、牛舎跡にヤックルを残し、アシタカは歩いて上の郭を目指した。
上郭へと繋がる坂を登り、蔓草に包まれた二つ目の門を抜ける。そびえ立つ門や、上の郭を形作る柵列もまたことごとく蔓やその葉に覆われている。葉と葉の隙間からは、侍との戦の跡が見てとれた。激しく攻撃を受けていたのだろう。諸所に突き刺さる何本もの折れた矢が、何よりもそれを物語っていた。
上の郭は、下の郭とはまた異なる状況だった。
崩れた建屋の並ぶ通りを抜け、大踏鞴のある高殿を右手に見ながら歩き続ける。上の郭、中でも特に高殿の周辺は、下の郭よりもデイダラボッチによる破壊とその後の火災による被害がひどいようだった。あちらこちらになぎ倒された家屋が見受けられ、いたるところで木片が道を塞いでいる。柱ごと倒壊し、緑の根付いた屋根だけが形を留める家屋跡は、まるでちょっとした山のように、そこだけがぽっこりと緑の丘を形成していた。どれも、炎に焼かれた痕跡があった。
しばらく通りに沿って歩いた後、二人は高殿の裏側にまわる。さらに進んだところで、サンが踏鞴場に入り込んだあの夜、彼女が石火矢によって気を失った場所が見えてきた。
あの時、サンが倒れていた地面はもう、草に覆われて目にすることはできなかった。そのことを知る由もないお頭は、ただ黙々と歩き進む。その後ろを行くアシタカは、歩きながらその場所を目で追うのだった。
高殿を通り過ぎた頃、突き当たりにぼろぼろになった土塀が見えてくる。本来は白く立派に塗られていたその塀も、今では表地が剥がれ落ち、火に炙られ黒く焦げていた。エボシが待つであろう彼女の庭は、その塀を挟んだ向こう側にあった。
塀の手前で曲がり、そのまま左手の土塀に沿って歩く。曲線を描いた狭い小道を進むと、視線の先にエボシの庭への入口が見えてきた。
庭の入口には、一人の女性が腰かけていた。見覚えのある練色の装束を身にまとっていることから、エボシに匿われていた病者の一人であることが分かる。身体中を包んでいた晒はすでに外され、その容姿はつい昨晩まで病み煩いの身であったとは思えない程に癒えているようだ。
彼女はお頭とアシタカに気が付くと、おもむろに立ち上がる。お頭はその女に尋ねた。
「エボシ様は...?」
「一人で庭にいるよ...。」
その女は優しい口調でそう答えた。お頭は振り向くと、アシタカと一度顔を見合わせる。アシタカは黙って頷く。それを確かめたお頭が先に戸口をくぐる。
後に続き、アシタカも庭へと足を踏み入れた。
エボシは、彼女の庭に一人でいた。
以前、病者の小屋があったその場には今、無残に倒れ、折り重なるいくつもの丸太や板と、そこに家屋が建てられていたという面影を残す少しばかりの残骸が横たわるだけだった。
周りの塀は、焼け崩れるかあるいは蔓や草にびっしりと覆われている。数日前のあの夜、月光に照らされたこの場所で目にした光景が、まるで幻覚であったのではないかとさえ感じられる。
お頭に案内され、アシタカが庭へと続く小道を抜けると、エボシは横たわる丸太に腰かけ、じっと彼女の庭を見つめていた。
その身体にあるべき右腕はなく、掛けられた羽織の袖は両側とも通されずにだらりと垂れたままだ。
エボシの横顔は、少し疲れているようであった。だが、己の使命を未完のうちに終え、張り詰めていた心の内の何かが緩んだからなのか、その表情は微かに清々しくも感じられる。
しかし、その目は決してかつての鋭さを失ったわけではない。
新たな生命の息吹に溢れる彼女の庭。まさにそれを見つめていると思われた彼女の瞳は、宙を見つめていた。
その目に映るのは彼女の表面に浮かぶ清々しさではなく、他人には知り得ない、彼女の身体の奥底に潜む、複雑な情念のようであった。長く彼女を知る者が、それでも誰一人として理解することのできない胸中。その眼差しで見つめる先には、今そこにある現実ではなく、自らの辿ってきた過去があるのかもしれなかった。
お頭とアシタカが近寄ると、彼女はようやく二人に気が付く。
来客に気付いたエボシは、それまで開いていた、あるいは開いてしまった自身の内懐に蓋をしたのか、一度その瞳を閉じると、僅かに顔をうつむけ、そっと口を開いた。
「...来たか。」
エボシはやさしく、だが確かに以前の威厳を残した声で、はっきりそう言った。再び目を開き、凛としたその顔を上げた彼女は続けてお頭に言う。
「苦労をかけたな...。皆、疲労も溜まっていることであろう。少しではあるが食べる物もある。残りは明日にまわそう。皆に今日は一日休息を取るよう伝えておくれ。」
「へい。」
お頭は返事をし、エボシとアシタカに頭を下げる。そして来た道を引き返し、皆のもとへと戻っていく。
お頭が去るのを見届けたエボシは、アシタカに顔を向け、静かに語りかけた。
「アシタカ、まずはこの度の件、礼を言わねばならぬな。皆に代わり礼を言う。」
腰かけているエボシ。その向かいに立つアシタカは、そんな彼女の言葉を聴くと、この緑の廃墟を見回しながら、ゆっくりと口を開いた。
「...エボシ、これから踏鞴場はどうなる。」
「それは分からぬ。...だが、いい村にするつもりだ。」
エボシもまた、破壊と再生の交錯するこの緑の地を見回しながらそう言った。
「アシタカ。」
彼女が続けて尋ねる。
「そなた、これからどうするつもりだ。すでにその右腕の痣も消えておろう。目的を果たした今、東の国へと帰るつもりか。この地に留まる気はないのか。」
その問いへのアシタカの答えは、はっきりとしていた。
「...この地に留まり、皆と共に生きようと思う。」
彼のその言葉を聞いたエボシは、まるでアシタカがそう答えることを知っていたかのようだった。彼女は微塵も驚いた様子を見せることなく、いつもの平静を保った口調でこう口にする。
「これから先、この地の行く末はそなたの望まぬものかもしれぬ。行く先は決して見通しの明るいものではないであろう。...それは、我らにしても同じこと。それでも我らの生きる地はもはやここしかない...。だが、そなたには帰ることのできる国がある。それを知っていてもなお、この地に留まり、我らと共に生きようというのか。」
「この地に生きようと思う。その想いに変わりはない。」
「...そうか。ならばよいのだ。」
エボシは続けて言う。
「そなたがこの地に留まると知れば、皆も喜ぶであろうな...。一からやり直すこの先、人出も足らぬことだ。そなたのような者がおれば頼りにもできよう...。」
アシタカは無言のままに彼女の話を聞いていた。黙然とした彼の様子を見、エボシはそのまま彼に話し続ける。
「アシタカ。一から村を作り上げるのは容易ではない。礼を言ったばかりではあるが、そなたにはこの先、一層力を尽くしてもらうことになるだろう。」
その言葉に、アシタカは閉じていた口を開く。
「この地に留まり、皆と共に生きようという想いに迷いはない。...だがエボシ、ここの皆は山を切り開き、鉄を得ることを暮らしの糧としてきた。このさき踏鞴を...鉄をまた造るのか?」
彼の口調は穏やかなものだったが、それと分かるほど強い想いを込めていた。エボシは冷静にそれに答える。
「造らぬ...いや、造れぬと言った方が正しかろう。今はそれだけの民も金もない。」
「いずれはどうなる。」
「少なくとも今は、このさき鉄など造る気はない。...ざまぁないさ。山犬の背で運ばれ生きているこの身。それほどまでに落ちぶれてはいない。」
「ここにいる皆は、鉄がなくとも生きていけるのか...?」
アシタカの問いに、エボシは淡々と答える。
「確かなことなど言えるはずなかろう。...が、年中踏鞴を営んでいたとはいえ、出は百姓の者も多い。田畑を開きさえすれば作物を育てることはできる。その先、残った者たちで食べていくことはできよう。」
「それはよかった。」
「例え腹は満たせずとも、食べていくことはできよう。...だが、それはこの地が鉄と無縁でいられるという話ではないぞ。」
そう言ったエボシの口調は険しいものだった。アシタカはエボシを振り返ると、じっと次の言葉を待った。彼女は続けて口を開く。
「この先、我らが鉄を採らずとも、他の者がこの地を訪れ鉄を採るやもしれぬ。踏鞴は失われたが、この地に膨大な砂鉄が埋まっているのに変わりはない。いつなんどき、この地を狙う踏鞴師がやってきてもおかしくはない。」
「分かっている。」
「アシタカ、我らが最も案ずるべきは、いかにしてこの地を狙う者から皆を守るかだ。それは何も、踏鞴師に限った話ではなかろう。」
アシタカは間を置くことなく、エボシを問い詰める。
「侍か?」
「いや。侍共のことは案ずるに及ばない。奴らは祟りを恐れ、しばらく近づいては来ぬだろう...。今、我らが恐れるべきは師匠連だ。奴らは祟りなど恐れはせぬ。もともと奴らは、シシ神の首だけでここから手を引くつもりなどなかっただろうに...。すでに森の力が弱まったことを知っている奴らのことだ。肝心の首が手に入らなかった今、鉄を狙い、近いうちにこの地を奪いに来るやもしれぬ。そうなれば、我らはここにいる皆を守る術を持ち合わせてはいない。」
アシタカは黙って彼女の話を聴いていた。エボシは続けて話し始める。
「そなたを呼んだのは、なにも礼を言う為だけではない。こうなった今、一度そなたの考えを聞いておきたかった。なにせ、そなたがいなければ私は今ここにはいなかった。...私だけではない。踏鞴場の皆がこうして生きているのはそなたのおかげだ。皆もそなたの胸中を聴きたいであろう。」
師匠連、踏鞴師、アサノ公方に地侍...。鉄を求め、この地を狙う者は数知れない。例え生き残った者達の手によりこの地に新たな桃源郷が成立しようとも、そこに生きる者が何もせずにそれらの者達を拒み続けられるとはとても考え難いことだった。
エボシはアシタカを見つめる。その眼差しは鋭い一方、彼がなんと答えるのか好奇の目で返事を待ち構えているようにも見えた。
沈黙を挟み、アシタカが険しい面持ちで答える。
「...刀を抜くことなく、手を引かせることはできないのか...。話をしても、無駄なのか...?」
アシタカのその言葉を聴いた時、エボシの浮かべた表情は微かに嘲笑していた。しかしそれは、それまでの明らかに軽蔑するような嘲りとは違い、多少の理解を含んだものであるようだった。
「アシタカ、人はそなたの思うような清いものではない。師匠連ともなれば尚更だ。シシ神の首につぎ込んだ金を取り戻したい奴らにとって、この地は百万の富に値する。そなたも、猪共を皆殺しにした奴らのやり方を見たであろう。目的を果たす為には手段を選ばぬ連中だ。それは我らに対しても同じであろう...。」
「...分かっている。だが、このままでは何も変わらない。それではまた新たな憎しみを生み出すだけだ。本当に、双方争わずに生きる道はないのか。これ程のことが起きてまだ人は互いに争うというのか...。」
そう言ったアシタカの口調は強まっている。エボシはまたも冷静に言葉を返す。
「争う争わないの問題ではない。...言ったであろう。今の我らは皆を守る術を何一つ持ち合わせてはいないのだ。もとから争うことなどできはしない。わずかな石火矢も、今となってはあてにすまい。火薬の無い石火矢など無用の長物。奴らとて、いずれ敵になるやもしれぬ我らに易々と火薬の調合を教えるほど愚かではなかった...。硝石の買い付けも火薬の調合も師匠連が手がけていた。密かに蓄えていた火薬も、踏鞴と同時に失われてしまったとなれば、我らに奴らと争う程の力は残されていない。」
彼女はそこで一呼吸置き、再び口を開く。
「...それだけではない。」
エボシはアシタカの目をじっと見据え、さらに続けた。
「師匠連であろうと踏鞴師であろうと、この地に来るものは皆、鉄を狙っている。奴らと争うことなく、双方この地で共に生きるということは、望まずとも我らも共に鉄を造るということに等しい。そなたはそれでよいのか?」
その問いに、アシタカは咄嗟に答える。
「よくはない。だが他の道があるはずだ。」
エボシもまた、間髪を入れずに問いかける。
「そなたの言う道とは何か。...この先、我らは共にこの地で生きていかなければならぬ。その為には口先だけでは生きていけぬぞ。」
彼女の言葉を聴くアシタカは、僅かに顔をうつむけているようにも見える。
「...今は分からぬ。だが、共に過ごせばいずれ見える。」
そんなアシタカの言葉を聞いたエボシは、それまで彼に向けていた鋭い眼差しを伏せた。そして、今度はそれまでの突き刺すような言い回しとは打って変わり、穏やかな口調で話し始めた。
「...まぁよい。そなたの言う道が何なのか、自ずと分かるのであれば、早急に是非を問うこともあるまい。師匠連も踏鞴師も、今すぐこの地へ来るわけではないだろう。...それに、そなたが望まなくとも、その時が来れば図らずとも答えは出る。それがどのようなものであろうとな。」
彼女は落ち着いた口調のまま続けた。
「それより、今の我らがまず案ずるべきは、雨風をしのぐための屋敷と、田畑を拓くまで皆を養うだけの食糧であろう。例え命があろうと、これがなくては生きてはいけぬ。」
「女達が食糧を探していると聞いている。」
「あぁ。それに加え、幸い蓄えていた米が僅かばかり無事でな。今の人数であれば数日はもつであろう。今日のところは焦る必要はない。」
「その先は...?」
「ひとまず、侍共が残していった刀や鎧兜、踏鞴に残っている鉄くずを町で売り、銭にするつもりだ。その銭で米でも買い、当分は食いつなげる。そこから先は考えねばならぬ。」
「町...人里まで下りるのか...。その時は私も共に行こう。」
「そなたが望まずともそうしてもらうことになろう。...すまぬが、そなたの獅子も借りることになる。運び手が足らんのでな。」
返事こそしなかったものの、アシタカはエボシの言うことを了承したようだった。腰かける彼女は、立ち尽くす彼に向かい、最後にこう言って話を終わらせた。
「礼と言いながら、苦労をかける話に終始してしまったな...。すまなかった。皆にはすでに休息を取るよう伝えてある。アシタカ、そなたも今日のところは英気を養ってほしい。明日からはよろしく頼む。」
話を終えたアシタカは、無言のままに来た道を引き返す。藪のような小道を前にし、エボシの庭を後にしようとしたその時だった。
「アシタカ」
背後からエボシが彼を呼びとめる。
「表の者を呼んでくれぬか。」
立ち止まり、アシタカはエボシを振り返る。エボシは、今ではすっかり瓦礫と草花に覆われたかつての彼女の畑を見つめていた。
小さな畑を見つめたまま、彼女は独り言のように言った。
「ここにも、命を繋いだものがいたようだ...。」
アシタカは、エボシの視線の先に目をやる。
茂る草花に埋もれながらも、彼女が育ててきた草片が新たな実のりを育んでいた。
その頃、サンと二匹の山犬は、枯れ木の連なる森を進んでいた。
新芽に溢れる草原でアシタカと別れたあの後、サンは真っ直ぐにシシ神の池へと向かっていた。一族の、そして彼女の母がそこに眠っている。サンも山犬も、一言も言葉を交わすことなく池を目指していた。
時折、サンは山犬の背に揺られながら、枯れ上がった木々を仰ぎ見る。目の前を流れていく木々は、そのどれもが死んでいた。方々に伸びた枝の先まで緑のない、褐色の枯れ木を見上げる彼女は、干乾びた枝の向こうに広がる青空、そして、そこに漂う白い雲が見える度に、哀しげな、何か思いつめた面持ちをみせるのだった。
途上、サンを乗せた山犬はしきりにその歩みを止める。鼻と耳を効かせ、池の方角を確認しているようだった。彼らにとってもこの地の変貌は凄まじいものであった。それまで幾度となく歩いてきたはずの道。シシ神の池へと続くその道は、もはや彼女らの知る道ではなかった。先の見えない、荒涼とした道を彼女らは歩んでいた。
今朝方、太陽が昇る間際まで恐ろしくも立派な森であったはずのこの地は、すでにその緑の大半を失っている。木々が枯れ、すっかり陽光の射し入るようになってしまったその森は、人間を畏怖させたかつての威厳を失い、葉を落とした梢を力無く天に向け伸ばしているだけだった。
シシ神は、この地に破壊と再生をもたらした。
生死を司る森の神は、かつて森の動物や人間達の生と死を峻別したように、自らの棲む森の生死さえもその手で運命付けたのだ。
シシ神は一度、この森を殺した。それは、図らずともこの世に生き長らえてきた犬神や猪神の生命を奪ったのと同様に、この森があまりにも長く存続し過ぎたからなのかもしれない。太古からこの地に根を張る木々はその幹を限界まで肥えさせ、その根を遥か地中深くにまで伸ばしていた。シシ神はそんな木々を目の当たりにし、この森はすでに充分生きてきたと受け止めたのかもしれない。それ故に、モロや乙事主の命を奪ったように、自らの森の生命もまた奪ったのかもしれない。あるいは、ただ単にその首を求めた結果として自らの棲む森を破滅に至らしめたというだけなのかもしれない。
だが肝心なのは、いずれにせよシシ神は、その存在の終焉と引き換えに、一度殺したはずのこの森に新たな生命を授けたということである。新たな生命は、太古からの樹木に比べれば酷く弱々しく、森に生きる者からしてみれば甚だ心もとないものではある。なぜシシ神は、かつてのような深く荘厳な世界を再現しなかったのか。そもそもなぜその終焉に際して生命を残したのか。シシ神によって生かされ、時には命を奪われもした森に生きる者達は、一見相反しているとも感じられるシシ神の終焉と新しい生命の誕生に対し、そう思いをめぐらすかもしれないが、その真意はもはや森に生きる者、人界に生きる者とを問わず、誰一人として知り得ないものとなってしまった。
しかし、それでもシシ神が生命を、一度は失われた緑をこの地に残したのは確かであり、誰にも否定のしようがない事実であった。それは、もはや大事なのはシシ神の意思ではなく、残された者達の各々の受け止め方だということを意味しているのかもしれない。
そして、その残された者達の中の一人に、サンが含まれていることもまた事実であった。
シシ神の池に近付いてきているのか、ちらほらと幹の肥えた大きな木々が目立つようになる。デイダラボッチによってなぎ倒されたであろう巨大な倒木も目に入るようになった。
山犬たちも、池が間近にあることを感じ始めているのだろうか。心なしか、その歩みは自然と速まっているようだった。
山犬の嗅覚が正しいことは、すぐに示された。
藪に阻まれていた視界がにわかに開ける。池の畔だ。そこには、陽光に満ちた空間が広がっていた。
シシ神の池は、幾重にも折り重なる数多の巨木によって埋め尽くされていた。何千年ものあいだ暗闇に包まれていたはずの池は、今では余すところなく天空の下に晒されている。倒伏した木々の隙間からは、池の水面を目にすることができる。しんと静まりかえった水面には、その清澄なまでに青い空が浮かんでいた。巨大な倒木群は、
まるで生ある者がその領域に踏み込むのを拒もうとしているかのように、シシ神の池を抱きかかえている。生気を失い、枯れた巨木のごつごつとした木肌には、所々に小さな新芽が芽吹いていた。
サンは無言のまま山犬の背から降りると、そのままその場に立ち尽くす。
彼女は、変わり果てた池をまじろぎもせず見渡した。その瞳は何かを探しているようにも見える。しばしの間、彼女はそうして池を、巨大な倒木に呑まれたシシ神の池を見つめるのだった。
二匹の山犬は、そんな彼女を後ろから見守る。
何かを探すかのようなその視線の先には、ただただしんとした世界が広がるばかりだった。彼女の求めるものが果たしてそこにあるのか、彼女自身分かってはいないようだった。だが、それでもシシ神の池を眼前に立ち尽くす彼女の姿は変わらないのだった。
あてもなく、この荒れた池を眺めながらも、ひたすらに想いを巡らしているかのような横顔。その横顔が憂いに曇り、うつむかれようとしたその時、視界の中で何かが動いた。
ふと、彼女の瞳に白い影が映る。
遠く、刹那の白い煌めきを放ったそれは、彼女がハッとした瞬間にはもうすでに消え去っていた。彼女は思わず息を呑み、じっと池を見つめる。その顔には期待の色が浮かんでいた。
身を乗り出し、目を凝らして白いものを探す。
「...そこにいるの...?」
再び白い影が映る。
思わず声にならない声をあげたサンは、少しでもその影に近づこうと、無意識のうちに一歩踏み出す。突然、足元で水の跳ねる音がした。
サンは驚き、ふっと自らの足を見下ろす。
水だ。
気付かないうちに水辺に立っていた。水に浸かった足を見て、彼女はゆっくりと池から退く。次の瞬間、思い出したように顔を上げ、つい今しがた目にしていたものを探す。
だが、彼女の瞳に映った、あるいは映ったかに思われた白い影は、もうどこにも見当たらない。
口を閉じ、再び身を乗り出して目を凝らすが、それは二度とサンの前に現れることはなかった。
彼女から期待の表情が消え去り、その横顔に哀しさが戻る。すぐ足元にある水面を見つめてサンは何かを理解したのか、最後にもう一度シシ神の池を見渡すと、二匹の山犬に向き直りこう口にした。
「...行こう。ここは、私達のいるべき場所じゃない。」
彼女は口を閉ざし、身を寄せてきた山犬の背に跳び乗る。彼女は山犬に跨ると、しばらくそのままでいた。一言も喋らず頭を垂れ、その瞳はただ山犬の白い背を見つめている。
山犬は相図を待つが、サンは黙ったままだ。心配しているのか、山犬は自らの背に跨る彼女を振り返り、様子を窺う。
サンは俯いたままぐっと唇を噛みしめる。そして、すっと顔を上げると、力強く言うのだった。
「行こう。」
一つ、二つと山を越え、小川を渡る。あまりにも明るいこの森には、歩いても歩いても、朽ちた樹木と若すぎる緑しかないのだった。
シシ神の池を後にしたサンは今、自らのねぐらへと足を向けていた。
デイダラボッチによる破壊の爪跡は、遠く離れた彼女の穴ぐらにまで及んでいた。もちろん、破壊の痕跡だけではない。小さく、弱々しくではあるが、新たな生命の息吹も感じられる。
枯れた木と木のあいだから巨大な岩が目に入ると、山犬はその足を止める。サンは山犬から降りると、その手で兄弟の背を撫でてやりながら、「さ、行きな。あすの朝、またここに。」とだけ言った。それを聞いた山犬は、
彼女のもとから去り、不毛の森へと戻っていく。入れ替わりに、もう一匹の山犬も別れの挨拶代わりにその身体をサンに寄せてきた。サンがそっと微笑みながらその頭を掻いてやると、その山犬もまた満足そうにサンの元を離れていく。
二匹の山犬の背を見送ると、その横顔からつい今しがた兄弟に見せた微笑みが消え失せ、孤愁を思わせる面持ちへと戻る。
二匹の銀影が木々の先に消えると、サンは穴ぐらを見上げた。
前日、ちょうど太陽が同じ高さにある頃に、彼女はこの穴ぐらを発った。森と猪、そして人間達の動きに異変を感じ、ねぐらを急ぎ出ていったあの時、もうはるか遠い昔かのようなその時にも、彼女は同じようにこの穴ぐらを見上げていたのかもしれない。そこに眠る一人の少年を想いながら。
死を覚悟して臨んだ戦いで、彼女は生き残った。
少年を残し、穴ぐらを発ったあの時、サンはこの森と、あるいはシシ神や乙事主、そのほかの森に生きる者達と、自らの運命を共にしようと決心したはずだった。なぜなら、この世で彼女を受け入れたのは人間ではなく、森と、そこに生きるモロであったからだ。だからこそ、彼女にとって生きる場所はここしかなかった。他には考えられなかったのだ。
だが、惨劇を終えた今、彼女は生きて再びこの穴ぐらを目にしている。一度死んだ森と共に息絶えるはずだった彼女の命は、まだ失われてはいなかった。それは、一人の少年が彼女にとって新たな「生きる場所」となったからかもしれない。森やそこに生きたモロが彼女を受け入れたように、少年もまた彼女を受け入れたのだ。だからこそ、少年が生き、そして共に生きようと言う隣で彼女もまた生きる道を選ぶことができた。
自らに定められた死の所以を探るため、あるいはその定めを断ち切るためにこの地を訪れた少年は、図らずしも、死を覚悟していたはずの少女をも生かし、彼女に共に生きる道を示したのだ。
サンは、薄暗く、ひんやりとした冷気に満ちた洞窟に足を踏み入れる。静まり返った穴ぐらの先はぽっかりと口を空け外界に通じており、眩しい陽光が差し込んでいた。
暗いほら穴の中、輝く光へと向かって彼女は歩いていく。そして、影に覆われた穴ぐらから外の世界へと足を踏み出した。眩いほどの光が彼女の身体を包み込む。
暗闇に慣れたその瞳には、明るい世界を見据えるまでに少しの時間が必要だった。それでも、一度目が慣れてしまえば、そこからはこの森を、そしてこの地に連なる山並みを一望することができる。サンは、そこからゆっくりと森を見渡した。
目の前に広がる森は若緑だ。深い緑ではない。
そんな森を眺め、一瞬かすかに俯いた彼女は、今度は後ろを振り返り、穴ぐらを仰ぎ見た。
日頃はモロが陣取っていた洞穴の上にはもう、その大きな白い姿は無い。しばらくたたずみ、両の目でじっとその影を見つめていた彼女は、ふと穴ぐらに目をやる。何かが積まれている。
サンは、見覚えのないものを不思議そうに見つめる。よく見ると、それは二枚の毛皮だった。あの時、手傷を負ったアシタカのために敷き、彼の身体が冷えないよう被せていた二枚の毛皮だ。思えば、戦いの日の朝に目覚めた時、アシタカに被せていたはずの毛皮がサンに掛けられていた。その時にはもう、お互いに心が通じ合っていたのだろう。そんなアシタカの想いに応えるように、サンもまたこの穴ぐらを発つ間際、アシタカに毛皮を掛け直していたのだった。
律儀にも、二枚の毛皮は丁寧に折り畳められ、穴ぐらの隅に重ねて置かれている。そんなアシタカの性分を垣間見たサンは、思わず微笑んでいた。
「アシタカ...」
その名を呟く時、不思議と彼女の表情は和らいでいた。
森に生きる者と、人として生きる者。前者は衰退の道を歩む一方、依然として後者はその勢いを増していく。
たった一度の物語で両者の立場が換わるはずもなく、また、森に生きる者がどれだけ自らの定めに抗おうと、この時代の大きな流れに呑み込まれ、忘れ去られてしまう。
森の行く末を覆い尽くす黒い影。それは、人の世界の放つ輝きの裏側である。人間がその勢いを強め、輝きを増すにつれてその影は濃く、広く森を覆う。だが、決して忘れてはならないのは、人として生きる者の中に、その影を共にしようとする者がいるということである。人として生きながら、森の痛みを共有しようとする者がいるということである。それは、森と人間が、必ずしも対極の関係にあるわけではないということを意味しているのかもしれない。その意味は、決して小さくはないだろう。
アシタカとサン。二人は共に生き、光も影も共にする。
これから先、二人の生きる世が幸福なものか、あるいは不幸なものなのかは誰にも分からない。だが、大切なのは幸福か不幸かではなく、この二人が幸福も、不幸も、それら全てを共有し、共に分かち合い生きていくということなのではないだろうか。
物語はまだ終わらない。
二人が生きている限り、終わることはない。
なぜなら、二人が共に生きるのはこれからであり、目の前の壁を二人がどう乗り越えていくのかが本当の物語であるはずなのだから…。
(続く)