第二章
この地でまた、日常が始まろうとしている。
その「日常」とは、森や踏鞴場に生きる彼ら彼女らがこれまで送ってきたものとは大きく異なる。それは、失われたもの、あるいは新しいものをこの地に創り出すための毎日であり、いわば新たな「日常」を創るための日々の繰り返しなのだ。そしてそれこそが、人間ともののけ双方の、増悪と殺戮による破壊を繰り返したこの地で語られるべき新たな物語でもある。
だが、それはおそらく、心躍るような冒険ではないのだろう。
そう、もしも興奮や感動に満ちた丁々発止の一大活劇にしか物語性を見出せないというのであれば、日常の中で森の若木が少しずつその幹を肥えさせ、天空を目指してより高く育っていく姿や、人々がその日その日の食べ物を探し、収穫しつつ、時をかけてゆっくりと「村」を創り出していくその姿は、物語とはならないのかもしれない。しかしそれでは、森に生きる者達がシシ神の森を、人界に生きる者達が踏鞴場を、それぞれが失ったあの瞬間に、物語は完結してしまうことになる。それは、その後に続くであろう森の再生と「いい村」の創出までの毎日を物語から排除することを意味し、さらには森、人界の双方に生きる者達のその後の生きる姿までをもそこから取り除いてしまうことを意味する。そうなれば、この物語は破壊に終わってしまうこととなる。しかし、そこにどのような境遇にあろうと生きる人々がいる限り、破壊に帰結することなどあり得ないのだ。
きっと、物語というものは、必ずしも動乱の中でのみ生まれるというものではなく、またその全てが興奮や感動を伴うとも限らないのだろう。そもそも、日常を、その日その月その季節をどうにか生きることそのものが物語であり、そのような日々において予期せず出会う些細な出来事の一つ一つに心が揺さぶられるということこそ、物語の本質であるのかもしれない。
シシ神の森、そして踏鞴場は失われた。つまり、この地に生きる森のもののけや人間達は、もう一度、長い長い月日の流れの中で、ゆっくりと、一から自らの手でその生きる場所を育て、造り上げなければならない。その日々とは小さな出来事の重なりであり、端から見れば些細にも思えるようなちょっとした喜怒哀楽の積み重ねなのだろう。だからこそそれは、紛れもない「日常」であり、それぞれが小さな「物語」であるはずなのだ。それは、惨劇の一夜が明け、山野に芽が吹き、一面が風にさざめく草原で人々が再会したあの時から始まっていた。彼らはすでに日常という長い道のり…物語を歩みだしていたのだった。
「トキ、この男、誰だか分かるかい?」
野原に並べられて埋葬を待つ一体の男の遺体。その前で腰を下ろし、息のない男を覗き込む女が尋ねた。亡骸を埋める前にはそれがどこの誰なのか、できる限り判別し、覚えておくことにしていた。トキは踏鞴場の中でも顔が広かったため、その役目も引き受けていた。
尋ねられたトキは、横たわる男に近寄り、その顔をよく見て記憶を辿る。
「…あぁ、左下場で見た顔だね。確か一人者だったから、あたしらの中に名を知ってる者はいないよ…。左下場にいた連中に聞けば分かるかもしれないね。」
「ならあそこにいる男達に聞いてくるよ。職人衆みたいだから。」
遺体を葬るため、ひたすら地面を掘り続ける男達を指差し女は言った。
「頼んだよ。これが終わったら、そろそろ私たちもみんなに合流しよう。」
女は頷き、立ち上がると、男達のもとへ行く。
その日、トキは甲六やそのほか牛飼い衆を中心とした男達、たたら踏みの女達を引き連れ、朝早くから踏鞴場跡を出ていた。侍やデイダラボッチによって犠牲となった仲間たちを弔うためだ。
破壊と再生のあの朝から、すでに数日の時が経っていた。あの日、エボシは踏鞴場の人々に体を休めるようにと伝えていたが、デイダラボッチの消滅後、不思議と体中の傷や疲れが消え去っていた人々は、その言葉をありがたいとは思いつつ、休むことはせずに行方の知れない者や食べるものを懸命に探して回った。中でもトキは、「休まなければならないのは私たちじゃなくてエボシ様だよ。」と殊勝に言い放ち、今日まで一日も休むことなく仲間や食べるものを探して辺りを歩いて回るほどだった。
そしてこの日、幾日かを費やして踏鞴場や湖の周辺を捜しつくした彼女らは、そこで見つかった命無き仲間達を一人ずつ埋葬しつつ、次に唐傘連と猪達の戦跡での捜索に加わろうとしていた。
戦いのあった場所は、踏鞴場から歩いてそう遠くはなかった。そこは今、辺り一帯が野原となり、小さな花草に覆われている。しかし、その野原を彩るのは、可憐に咲き乱れる花々や、活気に満ちた若草色の新緑ばかりではなかった。
まるで楽園のような平和な景色が広がるはずであったこの草原に、それらの黒い死体は点々と横たわっている。
殺された猪達だ。
大猪達の亡骸には、生い茂る緑に呑み込まれてしまったものもあれば、依然としてその焼け焦げた身を陽の下に晒しているものもある。今となっては思わず鼻をつまむような生き物の焼ける臭いこそ感じられなかったが、それでも屍に寄れば鼻を突くような異臭が漂ってきた。
新たに育まれた草原。ゆらゆらと風に揺れる、この世に生まれたばかりのその瑞々しい花草の中に、炎に焼かれた大猪のいくつもの屍が横たわる光景は、見る者に、森のために死んでいった者達の生の儚さを感じさせた。
「…こいつらにとって、シシ神の森は踏鞴場とおんなじだったんだね…。」
悲惨な戦いの跡地に佇み、多くの猪の死体を目の当たりにしたトキがそう呟いた。同じく隣に立ち尽くす甲六が、唖然とした様子を隠せないままトキの言葉に反応する。
「踏鞴場?」
「そうさ。…私達にとって、踏鞴場は守らなきゃならない場所だった。ここにいる奴らにとってはそれがシシ神の森だったってこった。」
甲六は納得がいかないようだった。
「でもこいつら、えらい遠いとっから来たって話だ。自分達の棲む森があるんならわざわざここまで来るこたねぇのにな……」
彼が言い終わらないうちに、トキが遮る。
「だから、この猪達にとっては自分の森がどうとかじゃないんだ。あの化け物が住んでたこの森こそが、こいつらにとって守るべきものの全てだったんだよ。」
トキはそんな猪達をじっと見つめながら言うのだった。
「こっちは、守るべき場所を捨ててでも生き延びた。…だけど、ここの猪達はそうじゃない。捨てなかったから死んだんだ。」
視線の先に横たわる、黒く大きな屍。その上を、真っ白な蝶がひらりひらりと舞っていた。
「何が違ったんだろうね…こいつらは…。」
一方は守るべきものを守り通したがために命を落とし、もう一方は守るべきものを捨ててでも生き延びた。どちらが正しいのか、あるいはどちらが気高いか、無謀かといった判断を下すことは、この場に立ち尽くす人間にも、ましてや横たわる猪達にもできないことなのだろう。結果として両者の違いは、繰り返される破壊の中においてもなお「生きる」ということを成し遂げたか否かという形で表れてはいたが、人間達も猪達も、守るべきものと「死」との狭間にいながら、自らの意思で選択したその行動を最後まで貫いたという意味では同じだった。
そこここに横たわる数え切れないほどの大猪の死骸。一行は、それらを横目に歩き回り、犠牲となった仲間達を捜すのだった。
この時になって、朝方の肌寒さも今では暖かさへと変わってきていた。
犠牲となった仲間たちの姿はなかなか見つからなかった。ある者は手に持つ鍬で地面を掘り起こし、またある者達は大猪の死骸を退けてまでして懸命に捜すが、辺りを隈なく捜すにはあまりにも人手が足りなかった。また、猪達の死骸はそのままにしておけばさほどの臭いは感じられなかったものの、ひとたびその身を動かすと強烈な腐臭を放ち始め、人々を悩ませるのだった。
多くの時を費やし、やっとのことで数人の牛飼いの亡骸を捜し出す。しかし、それでもまだほんの僅かな人数を見つけ出したに過ぎない。焦る一方、その場にいる皆には次第に疲れの色も見え始めていた。
そんな中、一人活発に歩き回っていたトキの目に、ある一匹の猪の死体がとまる。
「なんだい…これ…。」
その屍のあり様を目にし、思わず足が止まる。視線の先にあるのは、全身の皮を剥ぎとられた猪の死骸だった。皮のないその屍は、本来は皮下におさまっているはずの真っ赤な肉や白い骨をさらけだし、鮮血のような全身紅色の身体を横たえている。後からついて来た甲六もまたトキの視線の先に目をやり、同じものを目にする。
「…ジバシリの奴らが皮を剥いだんだ…。」
甲六が一人言のように言った。
「皮? …奴ら、河原者なのかい?」
トキの言葉に、甲六はいつになく真剣なまなざしで答える。
「いや、河原者は毛皮をなめすために皮を剥ぐ。こんな乱暴な切り方はしねぇ…。」
「それじゃあこれは…」
「ずいぶん北の方じゃあ狩人が寒さを凌ぐために獣の皮を身に着けるってのを聞いたことがあるが…」
「寒さって…この季節だよ。」
「…ああ、こりゃあ寒さを凌ぐためでもねぇ…」
屍に近寄り、腰を下ろして猪を覗き込むと、一瞬の間を置いて甲六が続ける。
「…剥いだ皮を被って、人間の臭いを消すためだ。」
「臭いを…?」
「…ああ。間違いねぇ。ジバシリの奴らは人間の臭いを消して獲物に近づくんだ。そのためには獣の血や生皮まで使うって噂だ。」
彼は、辺りに漂う微かな臭いに顔をしかめつつそう言った。
「…惨い。」
二人の後を追ってやって来た牛飼いが、思わずといったように呟く。それを耳にしたトキは、こう言うのだった。
「そうかもしれない。だけど、あたし達だって似たようなことやってきたんだ。何も言えやしないんだ…。」
彼女の言うことに、言葉を返すものはいなかった。
「さぁ、一休みしたらもう一度みんなを捜そう! こんなんじゃまだまだ踏鞴場には戻れないよ!」
皆を鼓舞するトキの声が響き渡った。
同じ日、アシタカと牛飼いのお頭もまた踏鞴場の外で多くの亡骸を前にしていた。それまでに踏鞴場周辺で見つかった人々だった。そこには、踏鞴場の住民に加えて、多くの地侍達も含まれている。デイダラボッチのどろどろに命を吸われた侍たちだ。
「こいつら、どうすんだ?」
牛飼いの一人が、傍にしゃがみ込むもう一人に尋ねた。二人とも、汚物のにおいに耐えられず鼻と口を布で覆っている。
「どうするったって、まさか地侍の奴ら、引き取りにはこねぇだろ。」
「そりゃあそうだろうけどよ、これだけの人数を埋めるとなると疫病がなぁ...」
「旦那ぁ、どうします?」
座り込んでいる牛飼いは、傍らに立つアシタカを見上げ、そう尋ねた。
「侍も、私やそなたと同じ人間だ。今は皆と同じように葬ってやって欲しい。」
アシタカは、目の前に横たわる地侍達を見つめながらそう言うのだった。
「しかし旦那、これだけの数を埋葬するとなると、疫病が心配です。」
今度はお頭が彼に言った。他の牛飼いも口を開く。
「それに、とてもじゃないがここにある亡骸の全部を葬るのは無理ってもんだ。」
アシタカは口を閉ざし、難しい面持ちで考え込んでいる。さらに他の牛飼いが口をはさむ。
「…燃やすしかねぇんじゃねぇか。」
その言葉にお頭が反応する。
「火葬はただ燃やせばいいってわけじゃねぇ…。一体の屍を燃やしきるのは簡単なことじゃねぇんだ。」
「だけど、このままにしておくわけにもいかねぇですぜ。」
「分かってる。…旦那、どうします。」
黙って彼らの話を聞いていたアシタカ。だが、その思いは変わらないようだった。彼はお頭の目を見て再び言うのだった。
「皆に苦労をかけることになるかもしれない…。だがそれでもここに眠る者は皆、同じように葬ってやりたい。」
お頭もまたアシタカの強い眼差しにその想いを確かめた。
「…分かりました。俺たちの仲間はともかく、侍共は踏鞴場から少し離した場所に埋葬しましょう。」
「ありがとう。私もできる限りのことはする。」
お頭はうなずくと、さっそく牛飼いの者達に指示を出す。
「みんな! 荷車を持って来い!」
男達は口々に「へい。」と返事をすると、荷車を取りにその場を離れていった。
「私達も行こう。」
アシタカがお頭に言った。
「はい。」
お頭はアシタカとともに歩き出す。
「…旦那、これだけの人数です。恐いのは疫病です。この辺りはしばらく近づくことができなくなるでしょう。」
「そのことは私の口からも皆に伝えよう。…心配をかけてすまない。」
「滅相もない。しかし旦那、実はもう一つ話があります…。」
アシタカは歩みを止め、彼を見る。するとお頭が続けた。
「シシ神の森の中にも、仲間が四人、眠っています。首桶の運び手として連れていかれた奴らです。できればあいつらも連れて帰りたいのですが…。」
「分かった。彼らも必ず連れて帰ろう。森へは私が案内する。サン…いや、もののけ姫に話をしておこう。」
彼の決意はその凛とした口調、表情に確かに表れていた。
「何から何まで申し訳ねぇ。」
お頭はアシタカの言葉に安心したようだった。
この日、丸一日を費やしてようやく亡骸の半数を運んだ。踏鞴場跡から引っ張り出した荷車を用い、可能な限り人手をかけて運びはしたものの、埋葬まですることができたのはさらに少なかった。なにより、森の獣が、埋められた亡骸を掘り返さないよう出来るだけ深く土を掘ることに手間がかかっていた。それだけではなく、亡骸からは排泄物が垂れてしまうため、その処理とにおいにもまた誰もが苦戦していた。哀しいだけでなく、過酷だった。
一日を終え、踏鞴場に戻ったころには、アシタカを含め皆が疲れ切っていた。
「どうだい。そっちは。」
日も暮れた夜分、長屋跡で火を焚き、その横で体を休めていたお頭のもとに、トキと甲六がやってきた。そんな二人もまた、顔や手を土で汚し、疲労の様子がうかがえる。甲六に至ってはよほど眠気に襲われているのか、両の目を開けていることもままならない様子だ。あくびをし、汚れた手でその目をこする彼は必死に睡魔と闘っているようだが、今にも眠りに落ちてしまいそうだった。
お頭はため息まじりにトキに答える。
「駄目だ。地はいいが、深く掘るのに手間取っちまって…。まだ二日三日かかるかもしれねぇな。」
トキは、お頭の話を聞きつつ焚火の前に腰を下ろす。甲六も半分眠りつつその隣に座り込んだ。
「…そうかい。」
「そっちはどうだ。」
お頭がトキに尋ねる。
「駄目だね。いくら捜しても全員は見つからない…。猪やら岩やらに埋もれて行方の知れない者が多すぎる。」
「そうか…。」
「見つかった者はあの近くに穴を掘ってみんな一緒に葬ってる。石火矢衆や変な恰好の奴らもね。あのでっかい猪はさすがに動かせないけど。」
そう話している彼女に、だんだんと甲六が寄りかかっていく。トキはそんな甲六を邪魔そうに押しのける。甲六は鉄よりも重たそうな瞼をふと開け、一瞬体勢を持ち直す。が、その瞳はすぐに閉じられてしまう。
再びうつらうつらし始める甲六。そんな彼をよそに、お頭とトキは真剣な眼差しで話を続ける。
「トキ、どこかで切りをつけなきゃならねぇ…。ここらの屋根もみんな飛ばされちまってる。今時分はまだいいが、そろそろ長屋も作り直さねぇと雨風が厳しくなる。嵐の時期になりゃあ尚更だ。」
「そうだね...。」
「柱も板もここにある分で間に合えばいいが、使えなけりゃどっからか切り出さねぇと…。もしそうなりゃあ、今が木を切り出す最後の時機だ。…いや、もう遅いくらいかもしれねぇ。これ以上日を延ばせば、切ったそばから虫がついて腐っていっちまう。今を逃せば、あとは夏の終わりを待つしかねぇ。」
「もし森に入るのならもののけ姫のこともあるし、アシタカ様にも言っておかないといけないよ。」
「それもできるだけ早いほうがいい。本当なら、この先も人捜しにもっと人数をかけられりゃあいいんだが…。」
「まだ見つからない奴らには合わせる顔がなくなっちまうね…。」
トキの隣では、またもや甲六がその体勢を傾けつつある。トキが続ける。
「食べるものも、今はまだ前の蓄えがあるからいいけど、この先のこともあるからね…。」
「あぁ。エボシ様もアシタカの旦那も、そこは分かってるはずだ。残ってる鉄くずをかき集めて近く里に下りるらしい。ゴンザの旦那も二人ばかし連れて、侍どもの置いてった刀やらなんやらを集めてるそうだ。そいつを売れば少しは銭になる。銭ならすぐに飯に替えられるはずだ。…だが、そうするにも人手がいる…。」
お頭は難しそうな表情を浮かべて焚火を見つめている。一方、再びゆっくりとトキに寄りかかっていく甲六。
お頭は「人手がな…」とため息交じりに言い、続けて少し黙り込む。そして、言いにくそうに切り出すのだった。
「…トキ、どこかで切りをつけて、残りの行方の知れねぇ者は人工を減らして探していくしかねぇ…。」
この言葉に、トキも少しのあいだ黙り込む。驚いてはいない。むしろ覚悟していたようだった。わずかな沈黙を経て、彼女も口を開く。
「…そうかもしれない。うん。そうだね。私らの中には、まだ夫の行方が分からないのもいる。そういう子には私から話をしておくよ。」
「あぁ、女達のことは任せた。…こっちは野郎どもで手いっぱいだ。」
「はいよ。…って甲六! しっかりしな!」
気づけばトキの肩によだれを垂らしながらもたれ掛かっていた甲六。その額をぱちっとはたきながらトキが叫ぶ。怒る女房の声に驚き、目をぱっと見開いた彼は、突如機敏な動きで再び体勢を戻す。…が、それも長くはもたず、両のまぶたはまたゆっくりと降りてくる。
「あんた、眠いんじゃ先あっち行って寝てな!」
トキが再び突っつく。夢うつつな甲六は、「お、おう。」と眠気眼に答え、ふらふらと立ち上がる。
「ほら、あっち行ってな!」
「…おう。」
甲六は目をこすりこすり、寝床へ向かってふらふらと歩き始めた。その足取りはなんとも危なっかしい。
「…ったく。だらしがないねぇ。」
自らの夫の後ろ姿を見て、今度はトキがため息交じりに呟く。
「侍どもに頭でも小突いてもらえばよかったんだ。そうすれば少しはまともになっただろうさ。」
「何言ってやがる。夫婦二人でいられるだけでありがいたいと思え。お前ら二人は幸せ者だ。そろって生き延びられたんだからな。」
「ま、そうかもしれないね。」
甲六の背中を眺めつつ、彼女が言った。その横顔は疲れてはいたが、確かに少しの幸福が見て取れる。
「で、明日はどうするんだい。」
甲六の姿が見えなくなると、トキはお頭に向き直り尋ねた。お頭は燃える焚火を見つめ、片手で小枝をくべながら答える。
「俺は何人か連れて長屋に使えそうな丸太を探す。他のやつらには明日も死人を葬ってもらう。そっちもそうしてくれ。今見つかっている仲間の埋葬が終わったらそこで切りをつける…。そっから先は、踏鞴場…いや、村を建て直すことに力を入れる。ここで生きていくためにな。」
「はいよ。」
「シシ神の森にも仲間が四人ばかり眠ってる。そっちはアシタカの旦那がもののけ姫と話をつけてから少人数で迎えに行く。旦那にはもう話はしてある。むこうから返事があるまでは森に入らない方がいいだろう…。」
険しいその横顔に、疲労の様子がうかがえる。それを見てとったトキは、明るく言うのだった。
「話はわかったよ。あんたももう寝な。でないと死んじまうよ。」
お頭はため息一つ、「言われなくてもそうするさ」と答えると、さっさとその場で横になる。
「おめぇも甲六んとこ行ってさっさと寝ろ。それともここで一緒に寝るかぁ?」
横たわり、頭だけもたげて言ったお頭の戯言にトキはふっと笑い、「遠慮しとくよ。」と返す。お頭は鼻で笑い、「だろうな。女達のことは頼んだ。」とだけ言うと、そのまま目を閉じ、寝返りをうって寝る体勢へと入ってしまった。
一人になったトキは、残された焚火をかき消す。炎がその紅色の魂を失うと、辺りが一瞬、闇に包まれる。しかし、漆黒の夜空にひときわ大きく輝く月や、一面に瞬くたくさんの星々のおかげで、その暗闇の世界もすぐに微かな光に照らし出される。
静寂の中、湖から蛙たちの鳴き声が小さく聞こえてくる。それ以外に音はない。すでに皆寝静まっている。
残り火の始末を終え、腰を上げる。そして、トキは一人、満天の星空を見上げる。
「…先は長いね。」
こぼすように呟いた彼女は、甲六のもとへと歩いた。
かつての活気など想像もできないこの荒れ果てた土地にはまだ、この地で生き続けようとする人々の姿がある。彼らは、この先も生き続け、その生をまっとうするために、自らの「生きる」場所をもう一度造り上げようとしていた。その道のりは決して楽なものではない。だが、破壊とその痕に残されたわずかな希望を目の前にして、自らの命を燃やし続けることを決意した彼らにとっては、その先の道のりがどれほどに長く、険しいものであろうと、とりあえず一歩を踏み出し、前へ歩み続けることこそが「生きる」ことなのだった。時には立ち止まり、振り返り、時には道を間違えながらも、その歩みを止めさえしなければ、いつの日かきっと辿り着くのだろう。彼らの目指す、「生きる」場所に。
幸い、彼らには彼らの目指す「生きる」場所があった。
憎悪と殺戮の果て、この荒廃した踏鞴場でエボシは言った。「いい村にしよう」、と。そう、彼らにはこの先この地に生きる自らの姿が見えていた。彼女のいう「いい村」がどのようなものであれ、それが以前のような「砦」ではないことは確かだろう。
ただひたすらに己を信じ、己の力でたった一人走り続けてきたエボシは、シシ神の消滅と踏鞴場の破壊を機に、ようやく立ち止まることができた。共に生き延びた人々でさえ、彼女の全てを知るわけではない。だが、それでも今の彼女からは感じ取れるものがあった。
砦は、再建されないだろう。
その歩みを止めて振り返り、そしてゆっくりと周りを見渡せば、エボシ自身にも、もはや彼女の心が城や砦の類を必要としていないことが分かるはずなのだから。
たしかに、シシ神が消え去った今、この地を狙う者も多い。「壁」を作らずしてそれらの者から村を守りきるというのは決して容易ではない。それは、他ならぬ彼女自身が誰よりも理解し、経験してきたことだろう。しかし、今の彼女の瞳に、これまで目にしてきたものとは全く異なる可能性が見えていることもまた確かなのだ。そしてそれが、一人の少年によってもたらされたものであるということはいうまでもない。
「いい村」。
今の彼女が目指すそれは、それまでの彼女が、あるいは彼女を信頼する踏鞴場の人々が身を置いてきたものとは大きく異なる「生きる」場所となることだろう。とはいえ、どれほどはっきりと目的の地を見定め、その目的の地がもつ素晴らしさを語ろうとも、そこへと至る道を見失ってしまっては永遠に辿り着くことはできない。結局のところ、路頭に迷ってしまったとき、歩むべき道を見失った人々が本当に必要としているのは、目的地の想像ではなく、そこへ辿り着くための道筋なのだから。
「再建後の踏鞴場」や「再建後の新しい村」について語ることは容易であり、この地に生きる人々に生きる希望を与えることになるのかもしれない。しかし、そこへ辿り着くまでの道筋を語らないのであれば、それはある意味で妄想であり、語られた希望も空想に終わってしまう。
夢を夢として終わらせるのならともかく、その夢を現実のものとするためには、人はまずどれほど小さくても一歩、前へと踏み出さなければならず、その一歩を二歩三歩という歩みに繋げていくためにも、目的の地へと連なる道筋が必要とされているのだ。その道筋を一から造り上げていくのは簡単なことではない。多くの苦労と労力を伴うことは想像に難くない。だからこそ、踏鞴場の人々はあれほどの惨事を迎えても、哀しい過去や過酷な今だけでなく、歩むべき、目指す未来をも見つめて行動するのだった。
そしてそれは、人だけではなく、森に生きる者にも通じることであった。
過去と今だけでなく、未来にも生きなければならないのは、ここ人界に生きる者のみならず、森に生きる者達にとってもまた同じなのだ。
シシ神が、過去の深く広大な森を復活させたのではなく、わずかな緑だけ残したという事実もまた、目的地ではなくそこへと到る過程を語らなければならないということを表しているのかもしれない。あの一件の後、シシ神が以前のような畏怖さえ覚える暗い森を残していれば、森に生きる者達にとってどれほど生きることが楽であっただろうか。どれほど希望に満ち溢れていただろうか。実際のところ、その後を生きる彼らにとって、シシ神の残した森は「森」ではなかった。あの荒れ果てた大地に緑を再生させることができたのであれば、過去の雄大な森を生き返らせることもできたのではないだろうか。
しかし、シシ神はそれをしなかったのだ。あれから数日の時を経た今、再び考えてみれば、あの朝シシ神が僅かな緑のみを残したという事実は、以前のような深く広大な森という目的地へと至るまでの道のり…残された小さな芽を日々守り、育てていくという過程、道筋…を語らなければならないということを暗示していたと思えるのだ。
森のもののけたちも、目指すべき場所ははっきりと理解していた。過去にあった深い森だ。つまり、大切なことはどうやってそこへたどり着くのかということであり、そこへと至るためにどのように生きていくかであるのだ。
その意味では、この境遇において、人も森も、皆同じなのだった。
この時期としては肌寒い夜。連日の力仕事をこなしている身にはつらいことだが、今やその夜もそれほど長くはない。人々が寝静まっている間にも、刻一刻と時は過ぎていく。疲弊し、ぐっすりと眠りについている彼ら彼女らにしてみれば、それはほんの一瞬の出来事でしかなかった。
そして気が付けば眠りも浅くなり、うつろな意識の中でもうひと眠りをと願う頃にはもう、宙の月と星はその灯をだんだんと弱め始めている。対照的に、はるか山の向こう、東方からは群青色の空が滲み広がっている。暗闇を照らしていた月はあっという間に白い影へと姿を変え、傾き、その影を薄めていく。夜明けが近づいている。
薄明りの中、森からはちらほらと小鳥たちのさえずりが聞こえはじめる。次第に、東の山の輪郭がはっきりとした影となり、その頂がじんわりと輝き始める。同時に、空はみるみるうちに明るくなっていく。はじめは僅かな輝きであったその光も、ゆっくりとその強さを増していく。
短い夜は去り、再び朝がやってきた。
踏鞴場の一日は、日の出と共に始まる。束の間の休息も終わり、再び忙しく動き回る一日がやってきた。蓄えていた稗などの雑穀と野草を粥にして軽く飯を食べると、すぐに各自の持ち場へと移り、仕事を始める。
前日のトキとの話の通り、お頭は数人の男達を連れて長屋の建材となりそうな材を求めて歩いていた。当然というべきか、真っ先に見て回ったのは、倒壊した家屋群だった。家屋を崩した際にそこから使える柱や梁やらを転用することはよく行われるが、お頭が見て歩いたところ、踏鞴場の状況はそううまくいくようなものではなかった。
まず、デイダラボッチの「どろどろ」に押し流されて湖に流出してしまったものが少なからずあり、残ったものにも「どろどろ」に押し倒された際に無残にへし折られてしまったものもあった。また、大踏鞴の周辺には激しく燃えた建物も多数あり、それらは使えるような代物ではない。さらにやっかいなことに、デイダラボッチが消滅した時に残した大量の藪や蔓に飲み込まれてしまい、到底回収することなどできそうもない材木が多くあったのだ。これにはお頭も悩まされた様子であった。
とりあえずは人の力で回収して使えそうなものに見当をつけておき、足りそうもない場合は苦労してでもどうにか藪や蔓の中から取り出すことにして、それでも足りないものは他から調達することになった。
「まったく、こりゃあ人手が幾らあったって足りやしねぇ…。」
緑に飲み込まれ、潰れた家屋を前にして、お頭はため息をついた。
「まともに使えるものもそんなには無いですぜ。お頭。」
隣の男が言った。
「旦那にゃあできるだけ踏鞴場にある材木で建てようと言われてんだ。もう少し探してみなけりゃなんねぇ。」
「あいさ。」
「なぁお頭、ありゃあどうだ。」
牛飼いの一人が、踏鞴場の周りをぐるりと囲む木柵と逆茂木を指差して言った。郭の内側で生活する民を外敵から守るため、建造当初から張り巡らされているものだ。
「ありゃあ駄目だな。腐ってる。」
「もっと近くで見ねぇと分からんぞ。使えそうなものもあるかもしれん。」
「ここにいても始まりやせん。見るだけ見てみりゃあいいさ。」
男達はいったん踏鞴場を出ると、外から木柵と逆茂木を見て歩く。湖面に晒された逆茂木の中には、腐食が酷いものもあり、その多くが使えるような代物ではなかった。踏鞴場建築の際に出た端材を利用したのだろうが、伐採した時期も悪かったうえに乾燥も十分ではなく、湖面の湿気に長く接していたために、短いうちに腐ってしまったようだ。
「だから言ったんだ。駄目だって。」
「だいたい、ここいらの丸太は小屋建てるのに使えないからここにこうしておいたんだ。」
「こりゃあ駄目だ。腐ってぼろぼろだ。…もっと上を探せ!!」
斜面の上部には、比較的新しく埋め込まれた逆茂木が並んでいる。牛飼いは皆、斜面を登り、堅固な材木を探し歩き回る。
「どれも駄目だと思うけどなぁ。」
虫の入ったものも多く、一向に長屋に使えるような木は見つからなかった。
「お頭~!」
「やっぱりどれも駄目ですぜ! みんな腐ってるか虫が入ってやがる。使えやしねぇや!」
「…参ったな。これじゃあ旦那に合わす顔がねぇ…。みんな! だらだらしてる暇はねぇぞ! どんなもんでもいい。使えそうな木を片っ端から探すんだ!」
「へい!」
生きていくために最低限必要な物を手に入れるということが、どれだけ大変なことなのか。ともすると忘れてしまいがちなこのことを、この場にいる皆が痛感していた。とはいえ、新たな「村」を創り出すための歩み、今日という一日は、まだ始まったばかりであった。
「トキ、トキはいるかい?」
前日に引き続き、猪と人間の戦いの地で仲間を弔っていたトキのもとに、一人の女が歩いて寄ってきた。かつては病の身であったあの女性だ。今は包帯もとれ、何事もなかったかのように素顔を露わにしている。
「どうかしたのかい?」
トキが声をかける。女はトキのもとまで近寄り、周囲を気にするように声を潜めて彼女に言う。
「…それが、蓄えのことでね…。」
「食ってく物がないのかい?」
「ないわけじゃないさ。…ただ、足りてないね。」
「魚は? 湖で少しくらい獲れるんじゃないかい?」
「それが、魚が少なくてね…。踏鞴場から出た水で湖がだいぶ汚くなっていたようだから、魚が棲めなくなっていたのかもしれないね…。」
「そうかい…。」
「ここいらで口に入れられるようなものはもう片っ端から集めたよ。でも、これ以上探しても見つからない。米の蓄えもすぐに無くなる。あとは草の根でもかじっていくか、もののけのいる山奥まで入って探してくるか…。早めに手を打たないといけないよ。」
「そうだね…。近いうちにエボシ様達が荷を積んで里に下るらしいから、そこで当分の食い物は手に入れられるだろうけど、問題はその先だね。」
「送りはこれで最後だろう? …そこから先は自分達で食べるものを育てていかないとならないね。」
「やっぱり、下流の村に行って種を分けてもらうしかないね。」
トキの表情は珍しく曇っていた。何か気がかりなことがあるようだった。女にとってもそれは同じだったようで、トキの不安を汲み取り口を開く。
「…分けてくれるかね?」
「分からない。あの村は踏鞴場のことをよそ者だと嫌っていたからね…。川が土砂だらけになっちまったのは鉄穴流しのせいだし、恨まれても仕方ないよ。…どれもこれも、私達が引き起こしたことが今になって私達の首を絞めてるってこったね…。」
「でも、頼んでみるしかないね。」
「大丈夫。男達がなんとかするさ。でなけりゃ私がなんとかしてやる。」
トキは二人の間の不安を打ち消そうとするかのように、明るく言い放つのだった。
「頼もしいね、トキは。」
トキは女に微笑む。
「男達があの調子なんだ。私らでやるしかないよ。」
力仕事の疲労でぐったりとしている男達を顎で指し、彼女が言った。
「それもそうだね。」
男達の様子を見て、女はフッと笑う。しばらく二人してくすくすと笑い合う。
「…そういえば、アシタカ様を見かけないね。」
笑いも落ち着いたところで、思い出したように女が尋ねた。
「…あぁ、アシタカ様なら山犬の娘のところに行ってるよ。シシ神狩りに連れていかれた男達がまだ数人あそこに眠ってるんだ。そのことであの娘に会いに行ってる。」
「そうだったのかい。あの方も忙しいね。…もののけ姫は話を聞いてくれるかね?」
「聞いてくれるさ。相手がアシタカ様なら、きっとね。」
トキの言葉に、一瞬女はその意味するところを理解しかねた様子できょとんとする。が、その表情もすぐに驚きと納得の様相へと変化した。
「もしかして、そうなのかい!?」
彼女の驚きは大きかった。一方のトキはニヤりとし、確信をもって答える。
「そうさ。」
トキは山を見上げる。その時、彼女のニヤけた表情は、小さな希望を含んだ微笑みへと変わっていた。
そのアシタカはといえば、まさにサンに会うために彼女の寝床である穴ぐらにやってきていた。彼は踏鞴場の人々が眠りから目を覚ます頃にはすでにヤックルに跨り、踏鞴場を発っていた。
穴ぐらまでの道のりははっきりと覚えていた。あの戦の日、彼とヤックルは山犬の案内により、獣道を辿り穴ぐらから踏鞴場まで歩いてきていたからだ。アシタカは、朝も早いうちに行かなければサンも穴ぐらを出てどこかへ行ってしまうかもしれないと考えたのだろう。しかし彼が記憶を頼りに穴ぐらに辿りついたころには、すでに太陽も昇りきってしまっていた。
朽ちた木々の間から突如としてその姿を現す岩壁。眼前にそびえ立つ岩々を見上げれば、そこに彼女のねぐらがある。日光に照らされた巨大な岩たちは、色を失ったこの地で白く映え、近寄らずともそれと分かるほどひときわ目立っていた。
ようやく穴ぐらに辿り着き、安心したところでヤックルを止める。たった数日前に目にしたばかりだというのに、アシタカはどこか懐かしい様子で辺りを眺める。
彼はヤックルの背から降り、高らかに叫ぶ。
「サーン! サン、いるのか。私だ! アシタカだ!」
大きく呼びかけ、返事を待つ。穴ぐらを見上げ、耳を澄ますが、彼女の声はしない。辺りを見回してみるが、気配はない。
「…いないのか…。」
そう呟いた彼が、もう一度呼びかけようと息を吸ったその時だった。洞穴の口、ちょうどアシタカが見上げた先の岩陰から、サンがひょっこりと顔をのぞかせる。
「サン!」
彼女の姿を認めたアシタカは、思わず微笑んで右手を上げる。
「アシタカ!」
サンもアシタカを見つけて声を上げる。彼女は一度顔を引っ込めると、少ししてから穴ぐらの脇の岩場を伝って降りてくる。岩から岩へ、ひょいひょいと身軽に下ってきたサンは、最後に自分の背丈ほどの高さから地面に跳び下りると、そのまま小走りで嬉しそうにアシタカのもとへと駆け寄った。彼女はアシタカのすぐ目の前でパっと立ち止まると、開口一番、「アシタカ、来てくれたのか! ヤックルも!」と言って、自然と笑みをこぼした。
たった数日とはいえ、あの日以来、アシタカとサンが会うのは初めてのことだった。二人はこの間、アシタカは踏鞴場に、サンはこの森に、それぞれ何が起き、どうなってしまったのかを把握し、受け止めるために忙しく動き回っていたのだ。
「サン、大事はないかい? 森の様子は? もののけ達はどうしている?」
「私は大丈夫だ。でも、森はだいぶやられてる。西と、北の端には少し森が残ってる。東は駄目だ。南も。森の獣たちは今もまだ姿を見せてくれない…。」
「…そうか。」
「アシタカはどうだ。」
「私も大丈夫だ。心配してくれてありがとう。」
「ヤックルも元気そうだな。」
サンがヤックルに微笑みかける。返事をしたのか、ヤックルはぶるっと鼻を鳴らす。その様子に、サンもアシタカもふっと笑った。
「…そうだ。これから苺を採りに行くところだったんだ。お前も行くか?」
サンがアシタカに言った。
「山苺のことかい? …懐かしい。里の娘達がよく採ってきてくれたものだ…。だがまだ早いのでは?」
「そんなことない。いつもそろそろ出てくる時季だ。昨日も森の奥の様子を見に行った帰りに寄って少し採ってきた。…森を覆ってた木が枯れてしまって、日当たりが良くなったからかいつもよりたくさん生っているみたいだ。何しろそこらじゅうにあるからな。」
「ここは暖かいから早いのか…。」
「どうする。待っているならお前の分も採ってきてやろうか。」
「いや、私も共に行くよ。ヤックル、ここで待っていておくれ。」
アシタカはヤックルに話しかける。ヤックルも彼の言葉を理解したようで、早速地べたの草をむさぼり始めた。
「こっちだ。」
サンが歩きはじめると、アシタカもその後ろについて歩いた。
彼女の言う通り、それほど遠くない場所に木苺が群生していた。あっちにこっちに、それは豊富に実をつけているのだった。木々が枯れ、日差しが広く大地に照り付けるようになった上、シシ神がその消える間際に緑を育たせたため、これほど繁茂したのだろう。二人にとってはまとわりつく棘が痛いくらいだ。
「採るのは今日と明日の分だけだ。保たないからな。」
サンは慣れた手つきで次々に実を採っては、手に持つお手製の小籠に入れていく。アシタカも彼女の隣で、採った山苺をその籠に入れていった。小振りな実とはいえ、小さな籠に二人で集めていけば、あっという間にいっぱいになる。ましてやそこらじゅうに実を付けているのだから、こぼれ落ちるほどの山盛りにするにもたいした時間はかからなかった。
「あっという間だな。」
サンが手に持つ籠を目にして言う。山盛りだった。隣のアシタカは話を聞いているのかいないのか、今も夢中になって無言のまま採り続けている。片手にはたくさんの実がのせられていた。
「アシタカ。…アシタカ! もうこれくらいにしよう。こんなにたくさん、二人で分けても食べきれない。」
少し困ったような顔をしてサンが声をかける。アシタカはハッとして振り向き、「…あぁ。すまない。つい夢中になってしまった。」と照れ笑いをするのだった。
「おもしろい奴だな。」
サンもふふっと笑っていた。
「少し木陰で休んでから帰ろう。」
彼女の声にアシタカも頷き、二人は木陰を探して休むことにした。とはいえ、このあたりの木々は枯れてしまっているため、それなりの日陰を求めるうちに二人ともずいぶんと歩き回ることになってしまう。ようやく一本の生きた立木を見つけた頃には、サンもアシタカも額に汗を流していた。
「陽が昇る間はだいぶ暑くなってきたな…。朝晩は冷えるのに。」
やっとのことで見つけた木陰に、どさっと腰を下ろしてサンが言った。
「もう雨の季節もすぐそこまで来ているよ。これからもっと暑くなる。」
そう言い、アシタカもサンの隣に腰を落ち着かせる。
「そうだな。」
彼女は傍らに座り込むアシタカを見た。アシタカもそれに気づき、微笑み返す。目が合うが、思わず、といったようにサンはすぐに目を逸らしてしまう。面と向かって小恥ずかしかったのか、あるいは何か他に思うところがあったのかは分からなかった。
「…そうだ。これだけたくさんあるんだ。少し食べるか?」
彼女は手に持っていた小籠をアシタカの前に差し出す。彼ももう遠慮することはなかった。
「頂くよ。ありがとう。」
二人一緒になって苺をつまむ。野苺はといえば、それほど甘いわけではなく、どちらかというと酸味の方が勝っていた。それでも、心身ともに疲れも溜まっていたこの二人の身には、こうしてゆっくりとした時を過ごすことそれ自体が、甘味にも勝る何よりの栄養であった。
「…この木、今は生きているけれど、もう長くはないな。」
苺をつまんでいると、ふと頭上を見上げたサンが呟いた。二人が涼んでいる木陰の主のことだ。この森の木にしては大きくはないが、周りの木々が緑を失った今はひときわ目立つ。
「もう葉がほとんどない…。」
確かに、その立木は元気がなさそうだった。幹の皮も水気を失い、残り僅かな葉も色が落ちてきている。そう口にするサンの横顔を、アシタカは傍らで見つめる。彼は、肩を落とす彼女が見上げるその木を見て言った。
「もしもこの立派な木が枯れてしまっても、私達にはまだたくさんの緑の芽が残されているよ。」
彼は、青空を這う枝葉から大地へと視線を移し、「ほら、サン。見てごらん。」と言った。彼女はアシタカの言う通り、自らの座り込む地面へと目を向ける。サンの腰かけるすぐ傍。そこに、小さくとも確かに新たな生命の芽が吹いていた。気が付けば、この枯れかけた木の周りにはたくさんの芽が誕生していたのだった。
「こんなにたくさん…。」
サンは周りの地面を見回す。とっさに腰を上げ、芽を潰してしまってはいまいかと確認する。そんな彼女にアシタカは言う。
「失われるものばかりを見ていてはいけない。上ばかり見上げていては、足元の大事なものを見逃してしまうよ。」
彼は続ける。
「踏鞴場の皆も、失ったものを胸に留めながらも、これから先のことも一緒に考え始めている…。サンも、この森から失われたものばかり見つめるのではなく、新しく生まれたものも一緒に探してみるといいよ。…ちょうどこの山苺のようなものを。」
サンは、足元に芽吹く新たな命を見つめている。
「…そうかもしれないな、アシタカ。」
そう言った彼女の顔は、それまでよりも少しだけすっきりとしたようだった。せっかくの芽を自分の体で潰さないよう、土の上をよく確認しつつ、サンは再び腰を下ろす。
「サン、実は話があるんだ。」
彼女が腰を落ち着かせたところで、アシタカは話を切り出した。真剣な眼差しである一方、話の内容に心持ち心配した様子でもあった。
「踏鞴場の皆が、亡くなった仲間を引き取りに森に入りたいと言っている。そなたや一族の皆は構わないだろうか?」
ふいに発せられたその言葉の内容に、当の彼女は驚いたようだった。
「人間が? …いつだ。」
「まだ分からないが、近いうちに。」
やはりサンの反応が気になるのか、アシタカは慎重に答えた。一方、彼の返事からそう間を空けず、サンは続けて尋ねる。
「シシ神様の首を狙った奴らか?」
「それは違う。牛飼いの人々だよ。エボシやジコ坊に駆り出された者達だ。皆、森に残された仲間を気にしている。」
サンは少し考えこむが、答えを出すのにそれほど時間は掛からなかった。
「…そうか、分かった。そいつらをここから運び出すのはいい。でも、あの女を入れることは許さない。」
その内容と彼女の冷静な口調にアシタカも安心したのか、「それなら心配することはない。エボシではなく私が皆と共に森へ入るよ。」と言った彼の表情は、大きくほころんでいた。
「アシタカが来るのは構わない。」
踏鞴場の人々が森に入るという話にも、サンの反応は意外なほど落ち着いたものだった。それ程アシタカのことを信頼しているのだろう。アシタカ自身にもそれが伝わるからこそ、彼はその顔を大きくほころばせるのだった。意外な反応を見せたという意味では、サンの言葉に彼が大げさに喜び、安心した様子を見せたことこそ彼女にとって予想外のことだった。彼女からしてみれば、ただ人間達が森に入ることを拒否しなかったというだけでこれほど笑顔を見せるアシタカが少し可笑しくもあった。気が付けば彼女も連られて笑みを浮かべていた。
会話をしていれば自然と笑顔がこぼれる…。そんな相手がいるということは、アシタカにとってもサンにとっても、久しくなかったことだった。
「…ここで話をしていてもしょうがない。どうせなら戻ってゆっくり話そう。ヤックルも待っている。」
可笑しさも収まったところで、サンが言った。
「それがいい。ヤックルを怒らせてしまうところだったよ。ああ見えて、あまり待たせると不機嫌になるんだ。」
「そうなのか?」
普段のおとなしいヤックルの姿からは想像できず、サンは可笑しくて笑ってしまった。
「そうなんだ。一度、里にいた頃に私が山で刀を落としてしまったことがあってね。」
「それのことか?」
サンはアシタカの腰に下げられている蕨手刀を指さす。
「ああ。あの日はやっとのことでキジを一羽仕留めてね。山を下りる頃にはもう日も暮れ始めていたが、村も近いというところで、大事な刀が無くなっていることに気が付いたんだよ。」
アシタカがヤックルを怒らせてしまった時のことを話しつつ、二人はゆっくりと腰を上げ、ぶらぶらと来た道を戻り始める。隣り合って歩く二人の会話は尽きる様子もなかった。
戻ってみれば、噂のヤックルも怒ることなくムシャムシャと草を食べており、それを見たサンは残念そうにアシタカと顔を見合わせる。彼が「日が暮れるまで待たせておけばよかった。」と小さく戯れをこぼすと、サンはその隣でくすくすと笑うのだった。もしゃもしゃと口を動かすのに忙しいヤックルは、そんな二人を不思議そうに眺めるばかりだった。
この後、アシタカとサンは穴ぐらで…時には話が逸れながらも…牛飼い達が森に入ることについて、腰を据えてじっくりと話し合った。いつ、どこから、どのようにして森に入り、残された踏鞴場の仲間を運び出すのか。あるいはその場で供養するのか…。人間の話ともなるとサンも厳しい眼差しとなり、アシタカもまたそんなサンの様子を見て慎重に話を進めた。
二人はとりあえず日と刻限を取り決め、森の入り口から仲間の亡骸があるシシ神の池あたりまでは山犬が一匹、人間達の監視を兼ねて同行することとなった。人数については、アシタカが踏鞴場跡に帰ってから牛飼いの者達と相談し、当日に山犬に伝えるとした。だが万が一、森に入る人数があまりに多いと思われた場合は、山犬が人数を減らすことができ、人間はそれに従わねば森に入れることはできないともされた。その他諸々についてサンと話す中で、彼女のアシタカに対する信頼は厚いが、他の踏鞴場の人達は全くといっていいほどその言動が信じられていないということが窺えた。この会話を通じ、アシタカ以外の人間に対しては依然として非常に疑い深く、警戒しているということが浮き彫りになったのだ。
サンの人間に対する不信からくる取り決めは、なかなか細かく厳しいものだった。しかしアシタカとしては、せっかくのサンの受け入れをここにきて台無しにしたくはないうえ、踏鞴場の人々がこれからこの地で生きていくためには山犬一族の信頼を得なければならず、その信頼を一から築き上げていくためには、まずはこの話を全て受け入れざるを得ないのが実情だった。
話は長引き、一通り話にけりがついた頃にはもうだいぶ時が経っていた。
森へ入るのはこの日から二日後の明け方。エボシがシシ神殺しに用いた獣道を同じように辿って池を目指す。話が決まればあとは早かった。アシタカは早速、踏鞴場に戻り、事の次第を皆に伝えるつもりのようだった。
「サン、私は今の話を踏鞴場の皆に伝えに戻るよ。」
そう言って立ち上がった彼は、「ゆっくり話すことができて良かった。」と続けた。
サンも腰を上げ、「私もだ。」と答える。だが一方でこう付け加えるのも忘れなかった。
「人間達のことは気を付けてくれ。妙な動きをしたら首を掻っ切る。」
再び人間に対する彼女の不信感を垣間見たところで、アシタカは優しく「任せておくれ。」と言う他なかった。外に出てみれば、穴ぐらのひんやりとした空気とは打って変わり、むわっとした蒸し暑さにおそわれる。ヤックルも暑かったのか、木陰に移り休んでいた。アシタカとサンの二人が近づくと、察したヤックルはのそのそと木陰から出てくる。二人の手前でぴたりと立ち止まると、何も言われずとも頭を下げて角を差し出す。アシタカはその角をつかみ、勢いをつけてヤックルの背に飛び乗る。合わせてヤックルも角を持ち上げ、その動きを助ける。
あっという間に騎乗の人となったアシタカは、見送りに来たサンに笑顔を見せる。
「また明後日に。」
「ああ。」
彼女が片手を挙げ応えると、ヤックルがゆっくりと動き出す。サンが見送る中、彼らは朝来た獣道を戻り始めた。
踏鞴場ではその日のうちに子細が伝えられた。取り決めに対しては人々の間でも不満は無く、各自一日の仕事が終わった日暮れには、来たる日に備えて誰が何人を連れて行くのかが話し合われた。
まず、山犬一族と話し合うことのできるアシタカは当然ながら森に入ることとなり、また、森に眠っている四人の男達をよく知っている牛飼いのお頭も同行することとなった。加えて、荷運びに用いていた牛が一匹残らずいなくなってしまったため、代わりにヤックルに一体の亡骸を運んでもらうこととなった。残りの者達は、体力のある比較的若い男達で固められた。シシ神の池から踏鞴場までの長い山道を、二人一組で担架を持って歩かなければならないからだ。
最終的に、それらに交代の者達を数人加えた計十人とヤックル一頭が森に入ることとなった。
「旦那、ありがとうございます。これであいつらも成仏できるでしょう…。」
話し合いの最後、お頭がアシタカに言うのだった。
次の日は、一連の埋葬作業の傍らで、森へ入るために必要な蓑や担架を揃えるなどして準備を整えた。そして、迎えた約束の日。
日の出に合わせ、十人と一頭は森の入り口にやってきた。そこではすでに山犬が一匹、彼らを待ち受けていた。
「数は?」
「十人だ。それにヤックルも。」
アシタカが答えた。
「…いいだろう。ついて来い。」
会話はそれきりだった。山犬を先頭に、アシタカとヤックル、お頭が続く。その後ろには若い男達が連なる。
ヤックルの背には、踏鞴場跡で急遽こしらえられた蓑と担架が載せられている。蓑は男達が身にまとうためのものではなく、亡骸を包み込むためのものだ。また、担架は細い丸太と布で作られた簡単な物だが、さすがに人の手で急峻な山道を運んでいくのは大変なことであったため、ヤックルの背に乗せて運ぶこととなったのだ。よってアシタカもこの日は自らの足で歩いて山を登っていた。
ほとんど手ぶらとはいえ、長い山道を歩いて登っていくことは大変な労力を要した。特に最年長であるお頭について言えば、歩き始めて早々にぜぇぜぇと息を切らし、時々立ち止まっては小休止をするようになる。いつのまにか若い衆を先に行かせ、気が付けば最後尾にいるのだった。皆の後について行くのが精いっぱいの様子であった。
一方で、人間達一行のずいぶん先を行く山犬は、後に続く者達の歩みの遅さに時々立ち止まり、その場でくるりと回っては一行を見つめ、またくるりと回っては彼らを見つめて、もどかしそうに追いついてくるのを待つ。遅い、という声が今にも聞こえてきそうだった。
皆から遅れ始めていたお頭を見かねたアシタカは、ここにきてさすがに山犬に声をかけることにした。
「ここで少し休むことにしよう! 私達がそなたに付いていけない!」
先で待つ山犬に大きな声で呼びかける。返事はなかったが、どうやらむこうも了解したようだ。山犬はその場でさっさと腰を下ろし、地面に腹をつけると、くつろいだ姿勢をとってそっぽを向いてしまった。
アシタカを含め、皆が疲れていた。お頭にいたってはだいぶ苦しそうだ。とりあえず一度ヤックルの背に載せられた荷も下ろされた。当のヤックルは休憩だと理解したのか、疲れた様子も見せずに近くをうろつき、食べ物はないかと探しはじめる。男達はどさっと地べたに座り込み、それぞれ携行していた水筒を片手に勢いよく飲む。
「お前ら、あまり飲みすぎると後がえらいぞ。」
お頭が少しだけ口に水を含みながら若い衆に言った。
「そう言うお頭さんはもうだいぶ疲れてるじゃねぇですかい。」
若い衆の一人が茶化す。お頭も若い男達もハハと笑う。
「言われてますぜ。お頭。」
「何言ってやがんだ。俺がお前たちと同じくらいの頃はこのくらい休まず飛んで行ったもんだ。」
お頭も笑いながらやり返した。「本当だぞ。」と笑って男達に言うお頭。
「お頭のそんな姿想像できませんぜ。」
再び若い男の一人が茶化す。周りの男達も可笑しくて笑っている。
「バカ野郎。お前らも年取ればいずれこうなるんだ!」
と自分の腹を撫でながら若い衆に冗談を飛ばす。これには若い衆も大いに笑った。お頭も一緒になって大笑いしている。彼らの話を横で聞いていたアシタカも思わず笑みをこぼす。お頭の冗談が可笑しかったわけではなく、お頭が慕われる理由が垣間見えたからだ。アシタカはこの地に来てまだ間もない。この地に生きる人々と出会ってからまだそう多くの時を経ていない。踏鞴場、シシ神の森を襲ったあの惨劇を共に経験したからこそ互いに信頼する仲となってはいたものの、実際はまだお互いにどのような人間なのかをよく知ったわけではなかった。アシタカにとって、お頭と若い男達の何気ない会話を聞くというのは、彼らの人となりを知ることのできる機会でもあった。
「旦那も笑ってらぁ。」
アシタカの笑みに気づいた男が彼を指さして笑う。間髪入れずに「旦那も他人事じゃねぇんですよ! そのうちみんなこうなるんです。女に持て囃されるのも今のうちですぜ。」とお頭が言う。アシタカはまさか自分にまで話が及ぶとは思ってもいなかったらしく、不意を突かれた様子で慌てて口を開く。
「いや、違うんだ。お頭のことが可笑しかったわけではないんだ。…ただ、あなた方の話を聴いていると、その人となりが伝わってくるようで、なんというか、私も安心したんだ。」
「旦那は嘘が下手だなぁ。」
さきほどの男が笑いながら言った。他の者達も再び笑いだす。
「いや、本当だ。嘘ではない。」
そんなアシタカの言葉も、どこ吹く風であった。その後、何度か休息を挟みつつ山犬の後について歩き続けた一行は、昼頃にはシシ神の池に辿りついた。
かつては鬱蒼とした木々に閉ざされていたであろう彼らの頭上には今、よく晴れ渡った青い空が見える。一帯は陽の光が直接差し込み、それを遮るような生きた大木は残っていない。ちらほらと枯れた巨木が目に入るが、それもすでに樹木としての色を失い、寂しげに佇むだけだった。地上には倒れた木々やその枝条が溢れており、それらの隙間からは若木や雑草が顔を覗かせている。肝心の池も巨大な倒木群に覆われており、そこに池のようなものがあるということしか分からない有様であった。アシタカを除いて、シシ神の池を目にするのは初めての者ばかりだったため、荒れた現状も相まって皆しばらくその壮観な光景に圧倒された様子であった。
アシタカは辺りを見回す。荒廃した様子とは裏腹にとても静かだ。宙を舞う蝶や、そよ風に揺れる若木、草花。僅かに覗くことのできる水面には、青色の下地に白雲が流れている。今この時だけを目にすれば、それが穏やかな風景に映ることは確かであった。
「来たな。」
男達が目の前に広がる光景を愕きをもって眺めていると、ふいに背後から女の声がした。思わず皆が振り返ると、そこにはいつの間にかサンが立っていた。以前のような顔を隠す面こそ身に着けてはいないものの、その右手にはしっかりと槍が握られている。人間達と距離を置いて立つ彼女の傍らには、先刻まで一匹だったはずの山犬が二匹となって控えている。
「サン。」
アシタカが呼びかける。他の者達は警戒し、身構える。彼女はアシタカの呼びかけに目で応じたが、返事はしなかった。彼女自身も複数の人間を前にだいぶ警戒しているようだ。両者共に挨拶をするような気分ではないのは、誰の目にも明らかだった。サンも牛飼いの男達も、互いに相手の出方を窺っていた。その狭間に立つアシタカは、一歩前に出て、努めて明るい声音でサンに尋ねる。
「サン、もしこの人達の仲間がどこに眠っていのるかを知っていたら教えてほしい。」
彼女は牛飼い達へ警戒の眼差しを向けたまま、彼に答える。
「ついて来い。」
にこりともせずそう言ったサンは、急に背を向けて歩き出す。会話をする気など毛頭ないようだった。足早に歩いていくサンの後ろで、アシタカは牛飼い達を振り返り頷く。彼らはそれを見て互いに目を合わせる。すると、未だ用心しながらではあったが、お頭を筆頭にアシタカの後をついていくのだった。
サンの案内のもと、彼らはさほど歩くこともなく仲間達の眠る場所に辿りついた。亡骸は四体。四人とも近くに眠っていた。変わり果てた仲間の姿を見つけた牛飼い達は、横たわる彼らの傍らにしゃがみこみ、手を合わせる。
「…待たせて悪かったな。踏鞴場に帰れるぞ。供養はここを出てからちゃんとしてやる。それまで我慢してくれ…。」
サンや山犬に見張られる中、彼らは仲間の死を悼む間もなく動き出した。各自が口に布をあてがい、さらにヤックルが運んできた蓑で亡骸を包み、要領よく担架に移す。アシタカも一緒になって黙々と作業を進めたこともあり、支度はすぐに整った。
「旦那、ありがとうごぜぇます。あとは踏鞴場に運ぶだけです。」
最後の一人を担架に乗せると、お頭がアシタカに言った。アシタカが頷く。彼は、傍らで男達を見張っているサンのもとへと近寄り、優しく語りかけた。
「サン、これからあの者達を踏鞴場へ運ぶ。」
サンは牛飼い達へ向けていた目を離し、アシタカに言う。
「分かった。だがアシタカはここに残れ。見せたいものがある。」
牛飼いの皆と共にすぐ踏鞴場に戻るつもりであった彼にとって、それは予想外の言葉だった。少し戸惑いつつも、彼一人ここに残ってもよいかどうかを考える。この後、踏鞴場でやるべきことも多くある…が、これからここを出ても戻る頃には日暮れに近く、やれることも限られてくる。その上、少しくらいであれば後回しにできることも多かった。それならば、とアシタカは笑顔で言う。
「構わない。少し待っていておくれ。皆と話をしてくる。」
そう言って今度は離れた場所で彼を待つ男達のもとへ行き、事情を説明する。
「皆、聞いてくれ。これからこの者達を踏鞴場へ運ぶ。だが、私はまだもののけ姫と話さなければならないことがあるんだ。私を置いて先に降っておくれ。」
それを聞いたお頭は、驚きを隠さずに言う。
「ちょっと待ってくだせぇ旦那。俺達だけであの山犬と帰れってことですか!?」
「そういうことになる。」
さらりと言い切るアシタカに、お頭は困った様子で続ける。
「しかし何かあったら俺達だけでどうすりゃいいんです。刀も何もねぇし、相手は山犬です。」
「それなら心配ない。ヤックルがいる。」
「ヤックルって…。旦那ぁ。」
「心配することはない。あの山犬が皆を襲うことはない。なぜならあの山犬は皆に助けられたのだから。私を信じていい。」
アシタカはそう言い、少し距離をおいてこちらを観ている山犬へと顔を向けると、「案内頼む。」と声をかけた。すると、その山犬はおもむろに動き出す。それを見たアシタカは、お頭へと向き直る。
「お頭、後は頼む。夕刻までには戻る。」
お頭は微かに…というよりかは明らかに不安そうな表情を浮かべたものの、「…分かりました。では旦那、お先に。」と答え、男達を率いて山犬の後ろについていくのだった。
一定の距離をとって先を行く山犬と、その後に従う牛飼い達。一行の出立を見届けたアシタカは、サンのもとへ戻る。サンは、残ったもう一匹の山犬に「ありがとう。もういいよ。行きな。」と話しかけ、その頭を掻いてやっていた。彼女がその手を離したところで、山犬はお役御免とばかりに走り去っていく。残ったのはアシタカとサンの二人だけだった。
「見せたいものというのは?」
尋ねるアシタカに、彼女はそれまでの警戒を解いた様子で明るく答える。
「こっちだ。そんなに遠くはない。」
そう言って歩き出したサンの後ろをアシタカはついていく。
「ここだ。」
サンが立ち止まったのは、それから程なくしてのことだった。そこもまたシシ神の池の畔ではあったが、先程までいたのとはまた違う場所であった。ここでも折り重なる巨木に視界が遮られてはいたが、倒木の重なるその隙間からは水面が見え、さらに奥、池の中央に浮かぶ小島をも覗くことができた。さらに向こうには見覚えのある断崖も確認できる。紛れもなく、そこはシシ神が首を討ちとられた場所だった。そして、それはまたモロと乙事主という二匹の巍然たる山の主の命が尽きた場所でもあったのだ。
「ここに、母さんが眠ってる。」
サンは畔の淵に立つと、独り言のように話し始めた。
「あの出来事の後、私はアシタカと別れてから真っ先にここに来た。」
目の前の荒れた池を見つめて彼女は続ける。
「その時、見たような気がするんだ。白い影を。」
「…白い影?」
真剣な眼差しのサンを後ろから見守りつつ、アシタカは話を聴く。
「ああ。あれがなんだったのかは今となっては分からないのだけど…。」
寂しげに口にしたサンの瞳には、あのとき目にした影が映っているのかもしれない。
「気のせいだったのかもしれない。…だけど、その時の私は思ったんだ。もしかしたら母さんじゃないかって。」
アシタカは静かに先を促す。サンが再び口を開く。
「期待をしてしまったんだ。きっとまだ生きてる、生きていて欲しいとどこかで思っていたのだと思う…。」
彼女はそこで振り向くと、アシタカを見て言う。
「こうなった今、私が山犬の一族やこの森を、森に棲む生き物たちを守っていかなければならないんだ。…母さんではなくて、私が。」
そう口にした彼女に、アシタカは咄嗟に「サンは一人ではないよ。」と伝える。サンは、分かっているとばかりに黙って頷き、一瞬微笑みを浮かべる。再び表情を戻し、サンは続ける。
「アシタカも言っていたな。失われたものばかり見るのではなく、生まれるものにも目を向けようと。私も、その通りかもしれないと思った。それでも、前を向かなければならないのに、今でも母さんがいたらと考えてしまうこともあるんだ。」
アシタカも口を開く。
「それは当然のことだよ。サン。そう考えるのは悪いことではないし、ましてや後ろめたいことでもない。時には振り返らなければ、想いをもって前に進むことはできない。」
「そうだな…。」
サンの話し方は、人に語りかけるというよりもむしろ自らに言い聞かせるかのようなものだった。
「アシタカはもう分かっているのかもしれないけど、今日来た人間達を見て、本当にそうなんだと感じた。奴らは、ただ仲間たちに別れを言うことで過去を絶とうとしたわけじゃないんだ。そうではなくって、迎えに来ることで過ぎた出来事を見つめ、受け入れようとしていた。それは、過去を捨てているわけじゃない。過ぎ去ったこと、失われたものに想いを馳せることで、前を見ることに繋げているんだ。」
一呼吸置き、今度ははっきりとアシタカに語りかける口調で続ける。
「分かったことはそれだけじゃない。私は、母さんや乙事主様、シシ神様を奪われて、奴らのことをより恨んでた…。今までは、失ったものといえば自分達が失ったもののことしか考えられなかった…。それはもしかしたら、さっきの奴らも同じなのかもしれない。何か大事なものを無くしたのは私達だけではないけれど、でもだからといってあいつらだけが何か失ったわけでもない。それを奴らも分かるべきだと思う。こうなってしまったのは、奴らの行動がきっかけなのだから…。」
アシタカは口を挟まないよう静かにサンの話を聴いていた。
「だから、人間達のもとへ戻ったら言ってくれ。家族や仲間を失ったのはお前たちだけじゃないんだって。」
聴き手からすれば警告とも同情とも受け取ることができる。もっとも、そう言った彼女自身、牛飼い達が仲間を弔っている様子を目にしたことで、複雑な思いが混ざり合っているようでもあった。失った者を弔う彼ら牛飼い達の姿は、紛れもなく彼女自身の姿でもあったからだ。
「伝えるよ。必ず。」
アシタカはサンの瞳をじっと見据え、思い定めて答える。淀みない語気だった。
約束を交わした二人はその後シシ神の池を去り、サンもアシタカを見送るために森の端まで共にやってきた。山を下っていくと、それまで生い茂る雑草や枯れ木に塞がれていた視界が突然ひらけ、目の前に大きな湖が現れる。踏鞴場のある湖だ。対岸に踏鞴場を目にすることができる。道中ではモロや乙事主、シシ神の話になり、特にモロのことに話が及ぶとサンの口調に熱が入り、アシタカもまたサンの母であるモロを知りたいと色々なことを尋ねたために、二人の歩みは一向に進まず、結局気が付けば森を抜けた頃には空もすっかり橙色に染まっていた。
「サンといると時が過ぎるのが早く感じるよ。」
別れ際にアシタカが言うと、サンも「私もアシタカといるとそう感じる。もっと陽が長ければな…。」と同じように言う。
「…もう行くよ。また。」
アシタカの『また』という一言に、サンは微笑んだ。夕日を背景に、二人は森と踏鞴場、それぞれの居場所へと戻っていった。
夕焼けの中、アシタカは一人、湖畔を歩いていく。燃えるような夕日が湖面に映え、美しい。踏鞴場へと向かう彼の足取りは軽かった。
湖を迂回し、ようやく彼が蔓だらけの正面大門までやって来た時、中からざわざわと人の声が聞こえてきた。彼が不在の間に何かあったのか、 そのまま近寄っていくと門の向こうに何やら人だかりができているのが見える。人垣で見えにくかったが、どうやらその中心にはエボシとゴンザがいる。二人の脇には大量の荷物を積んだ荷車が二台並べられており、さらにその隣には、つい朝方まではいなかったはずの牛が一頭、つながれていた。
何事だろうかと門をくぐっていくと、人だかりの中の女が一人、彼に気がついた。彼女は手を挙げて「アシタカ様ぁ! こっちこっち!」と手招きして呼びかける。その場にいる皆が一斉に彼を振り向く。
「やっと来たか。そなたもここに来い。」
皆の中心にいるエボシがアシタカに声をかける。その傍らではゴンザが腕を組んで立っていた。アシタカが皆の輪に入ると、男も女も口々に「お帰りなさい。」、「お疲れ様。」と声をかけ、彼のために道をあける。彼は笑顔で「すまない。ありがとう。」と答えながら人々の間を通り抜け、エボシとゴンザを囲む輪の先頭に出る。すぐに、人だかりをかきわけて男が一人近づいてきた。一足先に戻ってきていたお頭だった。
「お帰りなさいませ。旦那。」
そう言ったお頭の顔はだいぶ疲れた様子だった。
「お頭も、無事に帰れたようでよかった。苦労をかけてしまった。」
アシタカも労いの言葉をかけた。
「いえ、滅相もありません。ヤックルですが、水を与えて、今は馬屋で休ませてます。」
「ありがとう。…ところでお頭、あの牛は?」
荷車の隣に繋がれている牛を見て、アシタカが尋ねる。聞かれたお頭も思いも寄らなかったという様子で答える。
「俺も驚きました。聞いた話ですが、俺達が森に入っているあいだに、湖の向こうで草を食べているところを甲六の奴が見つけたそうです。デイダラボッチから逃げ延びたのが今になって出てきたんでしょう。」
「甲六のお手柄ということか。」
アシタカは納得したように当の牛を眺める。その牛はまるで何事もなかったかのようにそこに繋がれ、以前と同じように尻尾を振って、口をもしゃもしゃと動かしていた。
「皆そろったな。」
頃合いを見計らい、ざわざわとする皆にエボシが呼びかけた。「静まれぇい!」と、ここぞとばかりにゴンザも叫ぶ。その一声で場が静まり返る。
エボシが口を開く。
「集まってもらったのは他でもない。我々は明日、下流の町へ送りに出る。おそらくこれが最後の送りとなるだろう。見ての通り、大した量ではないうえに、銑(ずく)ばかりで物も良くはない…。だが、食べていくための足しにはなるだろう。」
エボシを囲む全員がじっと彼女の言葉に耳を傾ける。いつもであれば送りに出すのは大量の良質の鋼であったが、今回は製鉄中にデイダラボッチが踏鞴場に到来したため、鋼にまですることができなかった。そのため、アサノ方の侍達が残していった大量の刀や薙刀、鎧、石火矢衆が用いていた石火矢、そして火薬のない今となってはもはや無用の長物となった新式の石火矢も送りの荷に含まれている。あれ以来、ゴンザが僅かな人数で連日集めたものだった。
「明日の朝出立し、何事もなければこれまで通り明後日の日没までには町に到着するだろう。その日のうちにここにある銑と侍共が置いていった刀や鎧兜、そして皆が集めた物品を問屋に渡せば、次の日の朝には値が出る。そこで金に換え、その金で米屋や市を回り、食糧を買い付け、ここへ運ぶ段取りを組む。向こうを出るのはその日の昼頃。ここへ戻ってくるのは五日後の夕刻になる。」
アシタカの目には、話を聴く周りの者は男も女も皆が緊張しているように映った。エボシは続ける。
「今回は量も少ない。買い付けにもそれほど時間は掛からないであろう。これまでは地侍や山犬の邪魔も入ったが、それも考え難い。念のため、いつも通り既に若い者を一人斥候として先にやってはいるがな。うまく事が運べば早く戻れるかもしれないが、くれぐれも油断はしてくれるな。」
「へい。」
男も女も口々に応える。彼ら彼女らの返事にエボシが頷く。
「そうだった。もう一つ言っておかねばならぬことがあったな。」
彼女が言う。
「実はな、当初は牛がおらず、二度に分けて荷を運ぼうと考えていた。いくら荷が少ないといえど、人手だけではとてもこのような荷車を引いて山を降ることはできんからな。」
エボシは誰かを探すように人垣を見回すと、一人の男を見つけてその者に優しく語り掛ける。
「牛を見つけてくれて助かった。お手柄だったな。甲六。」
エボシに声をかけられ緊張したのか、当の甲六は頭を掻きながら「へ、へぇ…。」と言葉に詰まる。その隣でトキが「あんた、しゃきっとしな! せっかくお褒めの言葉を頂いたんだ!」と夫の頭を小突く。その場にいた皆がドっと笑った。
「甲六はトキにつつかれてばっかじゃねぇか!」
「トキも忙しいなぁ!」
口々にはやし立てる踏鞴場の人々。しばらく笑い声が溢れた。痛々しい顔を見せながらもどこか嬉しそうな甲六。ひとしきり皆の笑いも収まったところで、エボシが気を引き締めるように呼びかける。
「送りに行く者は明日に備えて早めに寝るがよい。日の出前にはここを出る。よいな。」
「へい。」
牛飼い達の威勢のよい一声が、踏鞴場中に響き渡った。
(続く)