第五章
「お頭、ずいぶんと待たせてしまったが、頼まれたものは持って来た。」
軽やかに響く蹄の音からアシタカの帰村を察したか、牛飼いのお頭が古家の戸口からひょいとその顔を覗かせたところで、騎上のアシタカは声高に言い放った。今しがた帰着したばかりだというのに特に変わりもなく元気そうなアシタカの背中には、対象的にぐったりとした若い男…エボシ一行への襲撃を独断で決行したあの若手の頭目である…がへばりついている。アシタカの両肩に弱々しく掴まるその男は、疲労困憊といった有り様で何とかヤックルの背に跨っていた。
アシタカとお頭、そしてヤックルの二人と一頭がこの下流の村を初めて訪れた日から、すでに三日の時が経っていた。村の惨状を目の当たりにし、村の長の家に間借りして眠りについたあの後、翌朝には、アシタカはヤックルに跨り、早速エボシ一行の後を追って蹈鞴場へと向かったのだった。当初はお頭が一人蹈鞴場へと戻り、町で治水工と大工衆を雇うために必要と思われる額の銭と、水害の片付けなど力仕事のお手子として蹈鞴場から男達を二、三人連れて戻ってくる段取りであったが、お頭が徒歩で山道を登るよりかは、アシタカがヤックルに乗って行く方が断然に早く、なおかつ体力の消耗もないため、最終的にはアシタカに必要な銭の量をエボシへと伝言してもらうこととなった。さらにそこに、村の若手衆を束ねるあの男が、「蹈鞴を再建しないというのが本当かどうかを確かめたい。」と同行を要求したことで、結局のところヤックルはアシタカに加えもう一人をその背に乗せ、村と蹈鞴場の間を往復したのだった。
赤ししに限らず、馬にさえ乗ったことがないであろうその男は、ただでさえ慣れぬ手段での、それも急ぎの長距離移動がよほど身に堪えたと見え、村に帰ってきた頃にはすっかり腕の力が抜けてしまったのである。
「旦那、頼んだ銭と野郎共はどこにいるんで?」
お頭が首を伸ばしてヤックルの後方を確認するが、そこには誰もいない。野郎共とは、水害によりもたらされた土砂や流木、枝条などを、今後の治水工や家屋の再建などに際して邪魔にならないよう、前もって片付けるためにお頭がエボシに要請したお手子のことである。今後、大工や治水工の頭領が見つかったとして、彼らが村にやってきていざ仕事を始めるという時、施工地に障害物があっては段取りに無駄が生じてしまうため、余計な工程を省き、すぐに仕事にとりかかれるように下準備をしておくという、いわば復旧支援の先遣隊である。
「おあしならここにある。」
アシタカは、ヤックルの横腹にくくりつけられている木箱を手で軽く叩く。
「野郎共はどこに?」
「心配無い。すぐに来るはずだ。」
言葉通り、言っているそばから後方の木陰より三人の男が姿を現し、近づいて来る。いずれも疲れているようで、見るからに足取りが重かった。
ゆっくりとした歩みでようやくアシタカに追いつくなり、その中の一人がばつが悪そうに口を開く。
「アシタカの旦那、流石に連日の山歩きはきついですぜ。旦那はこの後のことがあるから急ぎたいんでしょうが、あんまり先に行かれても俺達は道が分からねぇんですから、ほどほどにして下せぇ。」
当のアシタカは、申し訳無さそうに言葉を返す。
「すまない。だが今日中に町へ着くためには、少しでも早く、お頭と合流しなければならなかったんだ。」
アシタカの弁明に、咄嗟にお頭が反応する。
「町? 旦那、俺と旦那がまた町へ行くってことですか? 交代で他の奴らが行ってくれるとばかり思ってましたが。」
相変わらず申し訳無さそうに、アシタカは口を開く。
「お頭、すまぬが、すぐに私と共にもう一度町へ下ってくれないだろうか。エボシから、人を雇うのなら人を見る目のあるそなたを連れて行けと言われた。」
「そりゃあ構いませんが旦那、俺はしばらくここで世話になったので体力も万全ですが、旦那は飛び回ってばかりで体は大丈夫なんで?」
「私は大丈夫だ。こうしてヤックルの背に跨っているだけなのだから。」
「ならいいんですが…後ろのそいつはどうするんで? 一緒に町へ連れて行くんで?」
アシタカの後ろでぐったりとする村の男を顎で指し、お頭が言った。
「本人はそのつもりだったようだが…。」
アシタカもふり返ってその男を見つめる。男も、己が話題にのぼっていると気がついたのか、俯けていた顔を上げると疲労困憊の面持ちで言う。
「雇い入れる職人の見極めはあんたらに任せるよ。俺は疲れちまった。それに、どうやらあんたらは信じてもよさそうだからな。蹈鞴場に行って、よく分かったよ。」
アシタカと共に蹈鞴場へ行ったこの男は、そこでの光景を目にしたことで、蹈鞴場の人々がどのような状況にあり、何を目指しているのか、そして、アシタカがその中でどんな立ち位置にいるのかを理解したようだった。彼はくたびれた様子でヤックルの背から降りると、それ以上何も言わずにそのままふらふらと自らの住屋へと去ってしまった。
「あの若造、意気込みは買うんだがなぁ…。」
先のエボシ一行襲撃や、今回の蹈鞴場への同伴の件を指して、お頭は溜息混じりに呟いた。くたびれたその男の後ろ姿をお頭と共に眺めていたアシタカは、それを聞いて少し可笑しそうに笑った後、若干の笑みを残しつつ、清清しく言い放つ。
「あの者は、この村のために自ら進んで慣れぬことをしているのだから、意気込み以外も買ってあげておくれ。…それはそうと、お頭。連れてきた皆に状況を話し終え次第、我々も町へ向けて急ぎここを発ちたい。支度を頼む。」
「あいさ。」
威勢よく返事をすると、今しがた到着したばかりの男達を呼び集めるお頭であった。
ちょうどその頃、遠く離れたシシ神の森では、サンと二頭の山犬兄弟が山境の沢を見回りしているところであった。
今では申し訳程度の小さな若木ばかりが目立つ明るい森となってしまったシシ神の森の中心部とは異なり、森の境に近いこの場所では、デイダラボッチのドロドロが及ばなかったために生き残った木々がそれなりの森を維持している。とはいえ、このあたりはシシ神の森の中心から遠く離れていたためか、シシ神の池に見られるような原始の巨木はもとから存在しておらず、ありきたりな背丈の林分による、人間にとってもよく見かけるような普通の森が広がっている程度であった。
「このあたりか?」
兄弟の背に跨り、辺りの地面を何かを捜すように目を凝らして見回しながら、サンが口を開いた。その右手には槍が握られている。
「あぁ、そうだ。」
深く、唸るような声音で兄弟のうちの一頭が答えた。もう一頭は鼻を高く挙げ、くんくんとしきりに臭いの痕跡を確かめている。
「昨日?」
「昨晩だ。まだそう遠くへは行っていないはずだ。」
兄弟の、自信の垣間見えるその言葉に、サンはその背からひょいと飛び降りると、まじまじと足元の土を見つめる。
「サン、こっちだ。」
大きな鼻をひくつかせ、周囲の臭いを嗅いでいたもう一頭の兄弟がサンを呼んだ。ぱっと顔を上げたサンは、すぐさまその山犬のもとへ駆け寄る。
傍らに立ち、兄弟の視線の先を見ると、このあたりにしては大きめの雑木の根元に、何者かが横になっていた痕跡が残っていた。根張の苔や表皮の一部が剥がれ落ち、小綺麗な若い表皮が露わになっている。また、根元の表土が乱れ、落ちていたであろう小枝や石を脇へ除けたような跡が見つかった。
早速、兄弟が鼻を突き出し、臭いを確認し始める。
「…人間だ。間違いない。煙のような臭いも残っている。」
それを聞いたサンの表情が、かすかにこわばった。
「ほんの微かにだけど、何かが燃えているような臭いがする。でも、あの燃える黒い砂の臭いじゃない…。」
呟き、今度はその木の周辺の地面や付近の木々を調べ始めるサン。二頭の兄弟達も同様に、各々が周囲を歩いて人間の痕跡を捜す。
しばらくすると、土に伏せるような格好で地面の状況を調べていたサンが突然、声を潜めて兄弟達を呼び戻した。
小走りでサンのもとへと近寄ってきた山犬二頭に、彼女は小声で言う。
「足跡が三人分ある。それもまだ新しい。近くにいるかもしれない。」
サンの言う通り、彼女の目の前に、地面を踏みしめた形跡があった。その足跡の隣には、サンが自らの手で土を削った跡もある。サンがついさっき削った土間の湿り具合と、足跡の掻き蹴られた地面の土の湿り具合を比べると、どちらもさほど変わりはなく、掘られた地面が乾ききっていない。そのため、それら人間の足跡だけが地面に色濃く浮き上がって見える。
「昨日の夜、お前が人間を見た辺りでは火は焚かれていたか?」
サンが兄弟の一頭に尋ねた。人間を警戒し、声を抑えて兄弟は答える。
「いや、俺は見ていない。燃える音もしなかった。だが、臭いは僅かに感じた。」
サンは顔をしかめて呟く。
「何か火の気を帯びているのに、夜に人里から離れた暗い森で火も焚かず、足跡は音の鳴る枯枝の上や藪の中を避けて歩いているように見える。その上で、跡を残さないように出来るだけ土間(つちま)よりも岩の上を選んでいるみたいだ。足跡の向きからしても、この人間達は森の獣達に見つからないように森の奥へと進んでるのは間違いない…。」
「またあの女の一味か?」
兄弟が恨めしそうに唸りながら尋ねる。あの女とは、エボシのことであろう。サンは冷静に、しかしやはり声は潜めて答える。
「それはないはずだ。ここはあそこの人間達が来るようなところじゃない。遠すぎる。それに、別の方向からやってきてるように見える。」
もう一頭の兄弟もサンに同意したと見え、「臭いもあそこの連中とは違う。おそらく、サンの言うとおりだ。」と付け加える。
「ならこいつらは何者だ?」
問われたサンは、足跡を眺めたまましばし黙り込んだあと、小さく「分からない…。」とだけ答えるのだった。
「とりあえず、気取られないように足跡を追う。」
「風下に回り込むか?」
「いや、人間だからその必要は無い。あいつらは鼻が効かない。」
「分かった。」
こうして、山犬一族による追跡が始まった。兄弟のうち、一頭はとぎれとぎれの足跡を丹念に捜し出しながら先頭を歩きはじめ、もう一頭は再びサンを背に乗せてその後を追った。足跡の主が何者であるのか分からないこと、そう遠く離れている訳ではないことから、彼女らはいつにも増して慎重に移動していた。会話はもちろん、足音の一つも発しないよう努めて静かに、人間の痕跡を追うのであった。
追跡が始まってからというもの、それほどの時を経ずして、山犬一族は足跡の主を視界に捉えることとなった。
予想通り、三人の人間が森の奥を目指して歩いていた。
三人共に粗野な見てくれの中年の男であった。獣の革を多様した装いからして、容姿はまさしく山慣れした猟師と映る。一目見てそこらの猟師と異なる点といえば、首回りに見慣れぬ厚い布を巻いていることと、腰に黒い小さな筒のような物を携行していることくらいである。常に周囲を警戒しているその目つきはあたかもジバシリのそれであったが、全身を獣の毛皮に包んでいる訳ではなく、また、自らの臭いをごまかすために顔中に獣の血を塗りたくっている訳でもないことから、ジバシリとは別の猟師のようである。
三人の猟師は口を噤み、身軽に岩場を伝って渓流を渡っているところであり、離れた木陰から彼らを覗き見る山犬一族の存在には気づいていないようであった。
「私は先に回り込む。お前達は後ろを。」
言って、サンは槍を片手に一人走り出す。残された二頭の山犬は、それぞれ距離を保って人間達の後を追った。
渓流を横断し、苔生した岩場を登り始めた人間達を遠回りに追い越したサンは、一旦木陰に身を隠した。息を整えつつ、槍先の刃にゆるみがないか左手で確かめる。
すぐに呼吸を落ち着けたサンは、今度は槍を両手で握りしめ、そのまま微動だにせず、息を潜める。人間達の微かな足音を逃すまいと、耳をすましているようだ。
そうとも知らず、サンの待ち伏せる辺りへと向かって、三人の猟師は縦一列となり近づいていく。沢沿いの岩場を登りきり、腐葉土に覆われた緩やかな林地に至った彼らの足音を耳に感じたか、いよいよ間合いが詰まったところで、ついにサンは木陰から飛び出し、人間の前に姿を現すのだった。
「お前ら、何者だ。」
槍を手に、仁王立ちするサン。まずはそう一声を浴びせた。
三人の人間は、突如として立ちはだかったサンを前にはたと足を止め、その目を見開いて驚きの表情を浮かべる。しかし、その喫驚もほんの一瞬のものであった。次にはまるではじめから覚悟していたかのように、すぐさま敵意を向ける鋭い眼差しへとその目を変貌させると、腰に差している鉈に素早く手を添えた。それを見逃さなかったのだろう。頃合いを見計らった山犬兄弟もまた、三人の人間の背後に揃って姿を現した。
「山犬か。やはり未だ健在であったか…。」
前方のサン、後方の二頭の山犬へと交互に目をやりながら、人間の一人が言った。
「何者だ。どこから来た。なぜ森の奥へと向かっている。」
サンが問い詰める。語調は強く、立て続けに放たれた言葉の節々には苛立ちが垣間見える。他方、三人の人間は落ち着き払い、互いに背と背を合わせ、一人はサンを、あとの二人は山犬二頭を各自正面に据えて注視している。
サンと相対する人間は詰問には答えずも、静かに言葉を発する。
「どうやら、聞いていたよりも甘いようだ。」
鼻で軽く笑ってそう口にした人間は、首元に巻いていた厚手の布を目もとにまで引っ張り上げ、鼻口へとあてがう。サンはその者の言葉の意味が分からなかったと見え、一瞬間、気を取られたように呆然と目前の人間を眺めていた。その間に、三人の人間は鉈にかざしていた手を自らの懐へもっていくと、そこから握りこぶし大の見慣れぬ橙色の玉を取り出した。それと同時にもう片方の手の指先を、腰に下げた黒い小筒へと突っ込んだ。その手際たるや、束の間のことであった。小筒から抜き出された指先には、薄黄色の細い紐が摘まれていた。そしてその紐の先端は、なぜか微かに明滅していた。
末端をゆっくりと明滅させる紐。ことここに至って、サンは我に返るのだった。
「…火だ!」
咄嗟に大声を上げるも、その一声が兄弟達の耳に届くことはなかった。
胴火から取り出された火種によって着火された橙色の玉は、この時すでに宙を舞っていた。
ぱんっ、と小さく乾いた爆発音と同時に、黄土色の煙がむわっと拡散し、辺り一面を包み込む。少しの間を空けてもう一度…二度、同様の爆発音が聞こえてくると、黄土色の煙は一段と濃くなり、山犬一族の視界を完全に奪うほどに拡がっていく。
叫んだ拍子に、立ち籠める煙を大きく吸ってしまったサンは、胸に片手を当て、酷くむせていた。槍はもう片方の手でなんとか保持しているといった具合だ。止まらない咳に、今度は胸に当てていた手を自身の口唇と鼻にあてがい、これ以上煙を吸わないよう試みるサン。咳が残りつつも、状況を確かめようと懸命に周囲を見回す。辺りは黄土色のもやに包まれており、視界が遮られている。
サンは片腕に鼻と口をうずめたまま、人間、そして兄弟達がいたであろう方向に向かって駆け進んだ。
すぐそこに立っていたはずの人間の姿はすでに見当たらず、少し先に苦しげな嗚咽を漏らす二頭の兄弟の影が浮かび上がってくる。
「お前達、大丈夫か?」
四足とも持ちこたえてはいるものの、咳き込み、だらだらとよだれを垂らす兄弟達に、サンは駆け寄った。二頭は鼻も液まみれとなり、ずるずると流れ出て止まりそうにない。
「大丈夫だ。だが、鼻が効かない。」
「それより、奴らを追え。」
二頭は息苦しそうに、口々にそう言った。
「分かってる。だけど、私も鼻がやられて効かない。それに……」
サンはそこまで言って、辺りを見回す。
「……奴らはもうどこかへ行ってしまった。」
この頃には煙幕も流れ、霧散しつつあった。ようやく開けてきた視界に、今や動くものの姿はない。
「目も滲んでよく見えない。足跡もわからない。」
そう口にするサンの瞳は、確かに赤みを帯びており、涙が滲んでいる。痛み痒みをごまかそうと目をこするも、相変わらずよく見えないようで、そのあともしきりに目をこする仕草を繰り返すのだった。
「人間のくせに、足の速い奴らだ。」
苛立ちを隠せずに兄弟が言った。まとわりつく不快感をどうにか振り払おうと頭をもだえている。
「そうだな。ずいぶんと山にも慣れているみたいだ。少し侮っていた。」
「サン、なぜ奴らと口を利いた。すぐに殺してしまえばよかったはずだ。」
もう一頭がすかさず尋ねた。
「そうかもしれない。でも、奴らの狙いを知りたかったんだ。何者なのかも。」
「だが、逃げられてしまった。以前のお前であれば問答などせずに襲っていたはずだ。」
言われて、サンははっとして動きを止めた。『聞いていたよりも甘いようだ』。あの人間の言葉が今、彼女の頭の中で繰り返されていることは間違いないであろう。
その人間の言葉も、兄弟の言葉も、正しかった。人間に対し未だ警戒し、不信の目を向けていることに違いはないものの、以前よりもサンが人間と直接刃を交わすほど攻撃的でなくなったのは、彼女自身でさえ否定することができないほどに、はっきりとした事実であった。そしてそれが、シシ神の一件を通して出会い、心を通わせた一人の少年によるものであることもまた、誰の目にも明らかなのであった。
「…そうだな。お前の言うとおりだ。」
戸惑いなのか、気落ちしたのか、ぼそっと小声でこぼすように返したサン。そんなサンを見たもう一頭が、彼女の傍らに歩み寄り、気を利かせる。
「終わったことはもういい。落ち着き次第また奴らを追えばいい。今この有り様で奴らに追いついても、俺達が殺られるだけだ。」
「分かってる。次は容赦せずに仕留める。」
サンは手にする槍に力を込め、ぎゅっと握りしめた。
「もし奴らに逃げられたとしても、今の俺達には人間の中にも話しが通じる奴がいる。そのうち、またあの男が会いに来るのだろう? その時、あの男にも奴らのことを尋ねてみればいい。何か分かるかもしれない。」
あの男とは、アシタカのことであろう。
「…あぁ、そうだな。聞いてみる。」
アシタカの話に触れられたことに面食らったのか、少しの間を挟んだあとにそう答えたサンの面持ちは、どこか暗かった。今しがたの己の行動を、アシタカとの出会いを絡めて省みていたのかもしれない。その矢先、思わぬ拍子に彼の話題が上がったとなれば、胸を突かれる思いであったことは想像するに容易い。そしてまさしくその証に、サンはこの時、思い詰めたように空(くう)の一点を見つめていた。まるで、目の痛み痒みなどはとうに何処かへ吹き飛んでしまったかのようであった。
「サン、大丈夫か。」
鼻から口から体液をだだ漏らしにしながらも、サンを気遣う兄弟。
「…何でもない。」
再び目が疼き始めたのか、サンはひたひたと目をこすりながら、引き締まった声音で言葉を返すのだった。
この後、それほど時を経立てずに目鼻の感覚を取り戻したサン達は、休息も忘れて三人の人間の行方を追った。だが結局、彼女らがあの人間達を目にすることは二度となかった。
ところで、同日、ヤックルを急ぎ走らせたアシタカと牛飼いのお頭の二人であるが、例の村を発ったこの日の夕刻には町に到着していた。とはいえ、二人とヤックルからしてみれば相当に慌ただしい一日であったことに違いはなく、燃える夕日が山むこうに沈むと時を同じくして、足早に古びた木賃宿の戸口をくぐるのだった。
翌朝、早々に二人は手分けをして町を歩いた。お頭は、蹈鞴場建築に携わったという大工衆や、治水に長けた土方の頭領を探しに町を周った。一方、昨晩のうちに、お頭に自らの持つ砂金のことを打ち明けていたアシタカは、その金をおあしに替えるためにある男のもとを訪ねようとしていた。
早朝から町の境を流れる河川へと向かった彼は、堤の上に立つなり、さっそく探し求めていた人物の後ろ姿を視界に捉えることとなる。
人のあまりいない川辺に、彼はいた。遠目にもそれと分かる背格好のジコ坊は、広がる石河原にしゃがみこみ、何やら漁っているようだ。
アシタカは軽やかに堤を下って河原に立ち入り、丸い背中を向けるジコ坊のもとへとゆっくり歩いて行く。特に掛ける言葉も思いつかないのか、掛けるつもりもないのか、ただ黙して近寄っていくアシタカ。かたやジコ坊は、アシタカが河原の石を踏みしめる度にごりごりと喧しい音を鳴り響かせて迫ってきているのにも関わらず、目の前の石を除けては地面を覗き、また隣の石を除けてはその下を覗き込むといった具合に、周りには目もくれずに同じことを繰り返している。
きゅっと唇を結んだままのアシタカは、手を伸ばせばジコ坊の肩に触れそうなほどまでに近づいたところで、ようやく足を止めた。こうなれば、通常はアシタカが口火を切って話し掛けると思われるところであるが、この時、先に口を開いたのはむしろジコ坊の方であった。
背後を振り返る素振りさえ見せずに、ジコ坊は淡々とした調子で、まるで独り言を呟くかのように俄に話し始める。
「沢蟹を探しておるのだ。塩さえあれば旨いのだがな。あまり贅沢は言うまい。」
言いつつも、その手は止まることなく、熱心に眼前の石場を漁り続けている。視界に収めるまでもなく、背後に立っている人物がアシタカであるということはお見通しといった口調であった。
「そうだと思いました。私も郷ではそのようにしてよく探したものです。」
当のアシタカも、顔色一つ変えることなく、平静を崩さずに言葉を投げ返すのだった。
ジコ坊は、それまでせわしなく動かし続けていた手を一度ぱったりと止め、ふぅ、と疲れたように一息ついた。彼はすっかり汚れきったその両の手を衣の裾で拭いながら、己の素直な感想を投げて寄越す。
「まさかこれほどにも早く、それもお主の方からやって来るとはな。」
口から出る台詞の内容ほどには何ら驚きの反応も見せないまま、ゆらっと腰を上げるジコ坊。両の手で、起こしたばかりの腰をいたわりつつ、ゆったりと背後を振り返った彼は、ここにきてやっと、正面からアシタカと向かい合うのだった。
「まぁよい。来なさい。」
気さくに言い、ニッとするジコ坊。毎度おなじみ、どこか信用するには躊躇してしまう不敵な笑みを浮かべた彼は、本来であれば滅多に訪れないであろう客人を、愉しげに迎えるのだった。
「今日はあなたにお頼みしたいことがあり、ここへ参りました。」
もはや既知であるジコ坊の貧相な住まいに足を踏み入れるや否や、アシタカは愛想笑いの類や挨拶の世間話などは一切無用といわんばかりに単刀直入に話を始めた。一方、その向かいに胡座をかいて座り込んだジコ坊は、にやにやとした笑みを緩めることなく、興味深そうに受け答える。
「ほぅ…。このような身にある拙僧に頼みとは、お主もまた可笑しなことを言うものよのぉ。」
「これを、銭(ぜに)とやらに換えて頂きたいのです。」
間髪をいれず本題に入ったアシタカは、腰から巾着を取り出し、差し出す。
ジコ坊は突き出された巾着をまじまじと見つめ、興味深そうにそれを受け取ると、紐を緩めて中身を確認する。すると、わずかに顔面に残っていたにやけた笑みが、一片も残らずにすうっと消え去った。
「なるほど。」
途端に鋭い目つきへと改まった彼は、低い声でそう言うと、次には片手で巾着の重さを確かめ始める。
「…ふむ、これを全て、か?」
「はい。」
「なぜ拙僧に。」
「初めて出会ったあの日、里の市であなたはこの物の価値をよくご存知のようでした。それに、私を含め、踏鞴場の者がこれを町で出せば、踏鞴場やシシ神の森は今よりも面倒なことになる…そのようにエボシが口にしていました。」
「うむ。で、あろうな。」
そう口にしながらも、ジコ坊はどこか得心のいかない面持ちで手の平の上の巾着を眺めている。空いたもう片方の手が落ち着きなく下顎をさすっていることからして、何事か考え事でもしているようだ。
顔色を読んだとみえるアシタカは、黙考するジコ坊に言う。
「お礼は致します。その中の粒のいくつかはあなたに差し上げます。」
返礼の提案であった。ところが、ジコ坊はアシタカの瞳へ眼差しを向けると、きっぱりと言うのだった。
「ほぉ、ずいぶんと気前のいいことよ。だが拙僧が腑に落ちないのはそこではない。お主がこの物の価値をどれほど理解しているのかは知らぬが、もしもわしがこれを持って姿を消してしまったらどうするつもりであるのか、そこが拙僧には分からぬのだ。」
アシタカは即座に口を開く。
「あなたは、そのようなことはしないでしょう。」
意外な返答に、ジコ坊はその目をぱちぱちさせ、初めて明確な驚きを見せる。そして、興味深そうに身を乗り出して尋ねる。
「おもしろい。なぜそう言い切れるのだ? シシ神の首を狙った人間なのだぞ。」
問いに、アシタカは答える。
「以前、私にそのつもりがないのにも関わらず、あなたは私に助けられたと恩を返して下さいました。」
「…はて、拙僧はそれ程のことをしたかの? 確かに、田舎侍の小競り合いから逃れたあの後、町の飯屋でお主を見かけた折に多少手助けしてはやったがな…。」
「いえ、それだけではありません。あの時あなたは、里を襲った祟りの元凶をただ当ても無く探すこの私に、シシ神の森の存在と、その所在を教えて下さいました。」
「ふむ、確かにそうではあるが…。」
彼らが初めて出会い、飯を共にしたあの夜、ジコ坊からしてみれば、余計な面倒を避けるために、師匠連の企てと関わりの無い人物に、シシ神の森の存在とそこで起きている出来事を知られるということは、少しでも避けたいことであるはずだった。ましてや、目の前に座っていたその男は、ジコ坊にとって出処の明らかな一つの礫(つぶて)を手にしていたのだ。その者の里を襲った猪神が荒ぶる祟り神となった原因が、ジコ坊やエボシ率いる石火矢衆から放たれた礫に…彼らの行動にあったというのは明白であった。自らの生まれ育った里を襲われた人物を、それも侍との一戦からして腕の立つと知れた猛者を、それと知りながらシシ神の森や踏鞴場へと導けば、その地で進行している企みにどのような思いを抱くのか、面倒なことにはならないのか、あの時、鍋を挟んでアシタカと向き合いながらも、ジコ坊は想像したことであろう。むしろ、考えを巡らさないはずがないと言った方が正しい。しかし、それでも彼は、アシタカにシシ神の森の存在と行くべき方角を教えた。『やはり行くか』。この言葉の通り、言えば必ずそこへ行くと分かっていながら。アシタカは、そのことを言っていた。
「あなたが、人々からどのように思われているのかは私には分かりません。しかしそれでも、少なくともものの分からない人ではないということは分かります。あなたを信じてもの言う者に対しては、あなたもそれなりの答えをもって応えるのだと、私は感じています。それは、シシ神の首をデイダラボッチに返したあの時もそうでした。」
デイダラボッチが自らの首を求めて彷徨う中、アシタカとサン、ジコ坊とその配下の者は、シシ神の首を巡って争っていた。ジコ坊はアシタカと対等に渡り合っていたうえに、デイダラボッチの弱みである太陽の出が間近であったのにも関わらず、最後にはアシタカの『人の手で返したい』という言葉に応え、ジコ坊は彼自らの手で首桶を開けていた。直前のサンの『人間に話したって無駄だ』への反応とは真逆であった。
「…まったく、どうもお主には敵(かな)わん。敵わんわい…。」
ジコ坊は頭をぼりぼり掻きながら呟いた。思いの外、満更でもない様子であった。疑問も払拭されたのか、彼は再びアシタカを見据えると、一転して明るく言い放つのだった。
「よいだろう。あの折、拙僧が助かったのは紛れもないお主のおかげだ。そのお主の頼みとあらば、聞き入れぬわけにもゆくまい。こう見えて、拙僧も顔が広い。こればかりは師匠連と唐傘連に感謝しなければならん。なに、心配するでない。両替など雑作もないことだ。とはいえ、拙僧もまだこの町ではあまり目立ちたくないでな。隣国にある両替屋を頼る。十日のうちには帰ってこよう。それ以降、またここへ来なさい。その頃には全て銭に替わっておる。」
「ありがとうございます。」
笑みを浮かべるほどではないが、アシタカの面持ちもまたかすかに柔らかく、明るくなっていた。
「なに、気にするでないわ。礼は頂くのだからな。」
気さくに言って、最後にもう一度ニタっとした笑みを見せるジコ坊であった。
早々に用事を終えたアシタカは、寄り道をすることもなくそのまま宿に戻った。案の定、お頭は未だ不在であった。手持ち無沙汰のうえ、町に村に蹈鞴場にと、ここ幾日せわしくなく駆け回っていた疲労も身にこたえているであろうアシタカは、昼時となって客もまばらな木賃宿から出掛けることもなく、硬く冷たい板間にその身体を横たえ、お頭の帰りを待つのであった。
「お待ちになりましたか、旦那。」
お頭の声で、アシタカは目を覚ました。いつの間にやら眠りについていた彼は夢半ばであったか、珍しくはっとして、慌てて上体を起こす。身の周りに目をやれば、彼らが寝泊まるこの相部屋もとうに薄暗くなっており、小さな格子からは濃厚な橙色の西日が差し込み、細く長く床板を照らしていた。格子から覗き見える外界は、燃えるような夕焼けによって茜色一色に染め上げられていた。相部屋に居座る客の数も先刻より増しており、そうこうしているうちにも一人、二人と、今宵の寝床を求める新たな客が、疲れ顔に重い足取りを供えて敷居を跨いでくる。
「あぁ、すみません。お休み中でしたか。気がつきませんで。」
申し訳無さそうに言いながらアシタカの横隣に座り込むお頭の顔には、いくらか疲労が覗える。
「大丈夫だ。私も気づかぬうちに疲れてしまっていたようだ。いつの間にか、すっかり寝入ってしまったよ。」
寝起きにも関わらず笑顔でそう口にするアシタカ。お頭はそんな彼を心配そうに見つめ、優しく話し掛ける。
「大丈夫じゃありませんぜ、旦那。若いからと思って黙っちゃいましたが、やっぱ無理しているんでしょう。話は後でしますから、今は寝て下せぇ。」
しかし、アシタカは微笑んで言う。
「ありがとう。だが、今となってはそなたの話を先に聞かなければ、どうにも気になって眠れはしないよ。それで、探していた人物は見つかったのか? 来てもらえるのか?」
はぁ、と、お頭は溜息混じりに口を開く。
「仕方ねぇ。話したら大人しく寝て下せぇ。頼みますから。」
「あぁ、分かった。必ず寝るよ。…それで?」
「頼りにしていた大工衆の棟梁のうち、何人かとは会って話をすることが出来ました。色々と込み入った話をしてきましたが、取り敢えずはそのうちの二人に、それぞれ蹈鞴場と下流の村に来てもらうことになりました。二人共、町で蹈鞴場とデイダラボッチの件を小耳に挟んではいたようですが、一人はエボシ様に世話になったからと快く引き受けてくれました。もう一人は、支払いがちゃんとされるか気になっているようでして、全て銭で前払いという条件で呑んでくれました。他の奴らは、蹈鞴場とエボシ様の現状がはっきりしないからと、話半分で断られちまいました。」
「そうか…。とはいえ、住処の方は何とかなりそうでなによりだ。治水に長けた者はどうなった? 無事見つかったのか?」
「ええ、ぬかりなく。話のついでに大工衆の奴らに聞いてみたのですが、良さそうな親方をすぐに紹介してくれましたよ。度量のでかい、気持ちのいい旦那でしたので、そっちは大丈夫でしょう。」
「一応は話がまとまったようで安心した。彼らの姿が見えないが、また日を改めて来るのか?」
「そうです。エボシ様に世話になったからと言っていた棟梁なんかは、今の仕事が終わり次第、こちらを訪ねてくることになっています。すでに決まっていた次の仕事は別の人間に任せて、どうしても代えが効かない数人の職人だけ連れてこっちに来てくれるそうで。」
「それは良かった。」
「棟梁の二人は、今の仕事の合間を見て、近いうちに下見に来るとも言ってました。出来るだけ蹈鞴場に残った材を使いてぇと話したもんで、それなら使える代物と使えない代物を直接、目で見て判断したいとか。」
「もうそこまで話をしてくれたのか。」
「向こうも詳しく知りたがったもんで。そうなりゃ、先に言わなければならないことはいくつもあります。こっちの銭の都合もありますし、曖昧には出来ません。ま、そんなことしていたら帰りが遅くなっちまって、旦那を待たせちまいましたが。」
「そんなことはない。むしろ私の方こそ、そなたが腰を据えて交渉していたというのに、呑気なことにここで寝てしまったのだ。すまないことをした。」
「何をおっしゃるので。…さあ、話はしました。約束通り、寝て下せぇ。」
「分かった。…これでいいな?」
ささっと、今一度その場に横になると、瞼を閉じながらも微笑みを浮かべて言うアシタカ。
「ええ。いいですとも。明日にはあの村に戻って、またその翌朝には蹈鞴場に帰るんです。しっかり寝なきゃなりません。もし腹が減って目が覚めちまったら言って下せぇ。一応、余裕をもって二日は滞在するつもりでいたんで、食い物は十分あります。」
「ありがたいことだ。お頭が共に来てくれて良かった。そなたがいれば、どんなときでも心強い。」
夢の途上にありながら、半ば強引に現の世に引き戻された先程までの心地良さを着実に取り戻していくかのように、アシタカの口調は次第に眠たげに、ゆっくりとしたものになっていった。
「ご冗談を。」
くすっと笑い、一言を返したお頭がアシタカの顔を覗き込む。傍らで横になっているアシタカの顔にはすでに微笑はなく、代わりにほんの少し口を開けたままの幸せそうな寝顔が浮かんでいた。
「…ゆっくり、休んで下せぇ。」
アシタカの寝顔を見守りながら、お頭は小声で呟いた。
ただでさえ忙しない日々の只中にありながらも、自らの口と行動をきっかけに動き出した蹈鞴場下流の村への償い。そのための資金と人材の目処が、とりあえずとはいえ一通り整ったことに安堵しているというのもあるのだろう。この晩、一度も目を覚ますことなく、すやすやと静かな寝息を立てたアシタカであった。
こうして、お頭の言った通りに翌日には二人共に再び騎上の人となり、例の村を目指して早々に町を出立したのだった。ヤックルの健脚もあり、日が傾き始めるよりもだいぶ先に村へと戻ることができた二人は、真っ先に村の長に大工と治水工を確保した旨を伝えた。その後、先遣隊として先日アシタカが連れてきた三人の男達の作業状況を二人揃って確認すると、その晩はその者達と共に、村人から借りた簡素な小屋を仮宿として一泊した。
さらにその翌早朝、今度は蹈鞴場へ向け村を後にした二人は、相変わらずの強行軍で夕刻前には帰還を果たし、西日が眩しくなりはじめた頃合いにはもうすでにエボシの面前に揃って立っていたのだった。
「早かったな。二人共、ご苦労であった。ずいぶんと走り回らせてしまった。だが、そのおかげで必要な人材を速やかに確保することができた。礼を言うぞ。ここ何日もまともな休息を取っておらぬであろう。明日は二人共、手足を休め、英気を養ってくれ。我々も人手が足らぬゆえ、明後日からはまた存分に動き回ってもらうがな。」
彼女の労いに、二人共に一応は頷いて見せたものの、おそらくはアシタカも牛飼いのお頭も、周りの皆が汗を流している最中に、自らは一日休息を取るなどというわけにはいかないと胸中思いを巡らしているであろうことは、当の二人はもちろん、その場で労いの言葉を掛けているエボシでさえも重々承知の上と思われた。そしてその見込みに違いなく、次の日にアシタカはサンのいる森へ数日ぶりに、お頭は廃墟から材木やら生活用品やらを収集している牛飼い衆のもとへと向かうのだった。
「おう、ご苦労さん。」
白雲がまばらに浮かぶ青空の下、廃墟となった長屋跡にお頭の声が響き渡る。陽も山並みの稜線を飛び越え、いざ天頂へ昇らんと勢いづいてきた頃合いだ。昨夕のエボシの労いを無下にはできなかったのか、それを僅かばかり受け取ったお頭は、今朝、皆よりもほんの少し遅く起き、ゆとりをもって牛飼い衆に合流した。
「あれ、お頭、帰ってきてたんですかい。」
一声を受け、皆が手を止めてお頭を振り見る中で、一人が気さくに応じた。甲六だ。
「なんだか忙しくしてたみてぇじゃねぇですかい。」
甲六に続き、別の牛飼いも加わった。お頭はそんな男達に歩み寄る。
「まぁな。おかげで少し腹が引っ込んじまったぜ。…で、どんな具合いだ。役に立ちそうなもんは見つかったか。」
尋ねるお頭に、また別の男が声を上げる。
「ま、少しくらいは。だけんど、材木に関しちゃあデイダラボッチのせいで大抵は折れてるか割れが入ってるか焼けてるかってとこだ。そうでなくても、デイダラボッチの野郎が遺していった若木やら苔やらが一斉に生えた時に腐っちまったのか、不思議と、まるで何年も経ったみたいに柔くて、傷んじまってる材ばかりで、ものになるのは思っていたほどねぇ。今まで集めてきた分を足しても、大した量にはならねぇだろうな。お頭も承知でしょうが、あんまり期待しない方がいいですぜ。」
デイダラボッチの一件から数日を経た時点で、限られた生き残りの人数からくる苦渋の決断として、行方の不明な者達の捜索や死者の埋葬に掛ける人員を減らし、「生きる」ために先を見据えて必要な物資の確保に人を割くと決めてからというもの、皆の努力の甲斐もあって食べる物や身の回りの道具については、十分とはいえずとも生きていけるだけのものが集まった。また、薪は廃墟から、水は湖から採れるためにさほど問題とはならなかったものの、こと新居の建築に要する材木に関して言えば、状況は芳しくなかった。
「お頭、さっさと山から切り出すなり町で買うなりしねぇと、いつまで経っても材木が集まりませんぜ。当たり前だが、材木が揃ってもすぐに家が建つわけじゃねぇんだ。今は手元の端材で造った粗末な小屋でなんとか凌いじゃいるが、あんな子供騙しの小屋じゃ嵐や雪の季節にでもなればあっという間にやられちまう。そうなりゃいくら食い物があったってまともに暮らせやしねぇさ。早めに丸太揃えて建て始めるべきだ。」
「あぁ、そうだな。お前らの言いてぇことは分かってる。」
無意識なのだろうか。牛飼い衆の目もはばからずにお頭は悩ましげに額にしわを寄せていた。もっとも、彼の立場を考えてみればそれも道理であった。
牛飼いの男の一人が言ったように、生き残った蹈鞴場の者達は当面の雨風をしのぐため、自らの手で手元にある廃材を組み合わせた簡素な小屋を建てるか、あるいは半壊した家屋の片隅を寝床として仮の住まいとしていた。しかし、それらの住処が嵐や大雪が来ればいともたやすく吹き飛ばされるか潰されてしまうというのは自明の理であったため、早急に新たな長屋を建てなければならないことはお頭も承知しており、だからこそトキにもその旨を伝えてその難しい役回りを買って出ていた。
「なぁ、町で石火矢がずいぶん高値で売れたんだろ? いくらになったんだか知らねぇけどよぉ。銭がたんとありゃあ下流の村の奴らの分もまとめて町で材木揃えられそうなもんだけどなぁ。」
難しい面持ちのお頭をよそに、軽い調子で甲六が言った。そんな彼の疑問に、傍らにいる男が首をひねる。
「どうだかな。火薬も無しにそんなに高く売れんのかねぇ。」
「作ってた新式、あるだけ売ったんだろ? 一丁じゃともかく、全部ならそれなりになったんじゃねぇか。」
半ばの作業などはそっちのけで、ああだこうだと好き好きに言い始める牛飼い衆。皆を静めるため、お頭はわざわざ全員の耳に入るように不必要とも思える声量で言い放つ。
「おめぇらは知らねぇ方がいい。」
一斉に集まる男達の視線。お頭は腕を組み、はぁと深く溜息をついた。
「お頭、知ってんですかい?」
食いついた甲六に、面倒くさそうに口を開くお頭。
「あぁ。はっきりとは聞いちゃいねぇが、町で噂をな。」
「で、いくらになったんすか?」
興味津々の甲六を、お頭は軽く鼻で笑って受け流す。
「それは言えねぇ。おめぇらが知ったらすぐに無駄遣いしちまうだろうからな。」
「えっ! 俺らが無駄使いするくらいの銭があるんなら、こんなことせずに町で材木買い付けて、大工衆も大勢雇えばいいんじゃねぇですかい。そうすりゃあ、あんなぼろ小屋、さっさとおさらばしちまって、まともな家に住めるってもんだし、もっと他のことに人手を割くこともできるんじゃねぇですかい。」
不満気に言い散らした甲六。お頭は首を横に降って言い聞かせる。
「馬鹿言え。確かに大金だが、今後のことを考えりゃ全然足りやしねぇんだよ。俺達が建て直そうとしてる家はそんな大層なもんじゃねぇが、それでも嵐にも雪にも耐えられるような家を数軒こしらえるのには銭がかかるんだ。一軒じゃまだしもな。だいたいな、町でなんか材木買ってみろ。下の村の分ならともかく、長い道のりをここまで運び上げなきゃならねぇだろうが。そうなりゃ、牛も人も銭も足らねぇさ。」
当面の食べ物はすでに確保しているものの、蹈鞴場跡を開墾し、作物を育て、無事収穫へと至るまでの間、足りない食糧は町で買わなければならず、そのための銭を手元に残しておかなければならない。それだけではなく、下流の村に約束した流された家の再築や川沿いの治水工の分まで考えなければならないということもあり、棟梁一人と代えの利かない数人の職人は別として、大勢の大工衆を雇う銭は工面できるわけもなかった。
「でもよぉ、材木取り寄せるのに銭が足らねぇとなると、あとは……」
言いながら、無惨に倒壊した家屋群の先、悠然と顔を覗かせる山々へと視線を向けた甲六。お頭も、口を一文字に結んだまま鼻で溜息をつき、一旦は瞼を閉じて顔をうつむかせたかと思えば、次には面を上げ、甲六と同じように眼前に広がる山々…つまりはシシ神の森を見上げるのだった。
「そこが問題だ。前々から分かっちゃいたが、色々忙しくて旦那にきり出せなかった。いい加減、話をしなきゃならねぇ時が来ちまったようだ…。」
瞳に映り込む青空とは対象的に、晴れない面持ちのお頭であった。
「今お帰りですかい、旦那。」
夕刻、ヤックルに跨って正門跡を通るアシタカを見かけたお頭は、彼のもとへ小走りに駆け寄り、言葉を掛けた。
「あぁ、山へ入っていた。森の様子も知りたかったんだ。お頭は? 牛飼いの皆と共にいたのか?」
夕焼けも暗くなりつつある中、お頭に気が付くなりヤックルの脚を止め、その背から身軽に降りるアシタカ。右の手で手綱を引きつつ、自らの足で歩き出した。お頭も歩調を合わせ、歩きながら会話を続ける。
「えぇ。そんなところです。山の様子はどんな具合で?」
「山犬の一族から少し気になる話を聞いた。森の外れでここらでは見慣れない人間が歩き回っていたそうだ。山犬の姿を見ると逃げていったそうだが。もし何か知っていたら教えて欲しい。山犬一族も警戒している。」
「そうですか。少なくともシシ神の森に近い地元の村の連中ではないでしょう。この辺りの者はもののけ共を恐れて、森に入ろうとはしませんで。申し訳ありませんが、それ以上は何も。」
「いや、いいんだ。何か聞いたら私にも教えておくれ。」
「承知しました。他の奴らにも聞いておきます。」
「エボシにも伝えておいた方が良いかもしれない。任せてもいいだろうか。私はまだこれからヤックルの世話をしなければいけない。暗くなるまでには終わらせたいのだが。」
「構いません。エボシ様には俺の方から伝えておきます。ところで旦那、実はこっちも大事な話があるんですが…。」
どことなく気兼ねの感じられるお頭の物言いに、アシタカはぴたりと歩みを止め、お頭を見向く。
「何事かあったのか?」
一拍遅れてお頭も立ち止まり、アシタカと向き合う。
「いえ、そういうわけではありませんが、建て直す住屋の件で。」
あえて勘づかせようとしているかのように、遠回しに話を運ぶお頭の言い回しに、もとから思い当たる節があったと見えるアシタカ。「…木材か。」と自ら切り出すと、そうしてお頭を見つめたまま黙し、先を促すのだった。
お頭も腹をくくったか、アシタカの目を見据えてようやく口を開くと、有り体に言う。
「ええ。おっしゃる通りで。今のままでは、もう少しまともな家をこしらえるのにも、材木が足りません。何もかもかつかつでやってるもんで、町で数軒分の材を買って運ぶような銭も人手もねぇ。かと言って、素人が廃材でこしらえた今のぼろ小屋のままじゃあ、この先の嵐と雪の季節を乗り越えられるかどうか分かったもんじゃありませんで。」
「そうだな…。」
見る見るうちに稜線へと沈みゆく夕陽を背に、迫り来る宵の闇に包まれかけながらも、片手に手綱を握りしめたままのアシタカは愁眉(しゅうび)を浮かべ、立ち尽くしている。そんな彼に、お頭は申し訳無さそうに、落とした声音で告げる。
「出来るだけ廃材で済ませたいと仰っていた旦那には申し訳ねぇですが、銭がなけりゃあ、あとの足りねぇ分は山の木を切り出すほか…。」
アシタカも、覚悟はしていたようだった。お頭の話を、存外にも落ち着き払って聞いていた。
「…やはり、他に手はないのだろうか。」
「俺達も出来るだけのことはしてきましたが、それだけではどうにも…。旦那、どでかい木を切る必要はありません。贅沢な屋敷を建てるわけじゃねぇですから、手頃な太さの木をいくらか切り出せばそれでこと足ります。ただ、その後の手間を考えりゃあ、出来るだけ早く手を付けなきゃなりません。時期的にも、ここらが潮時です。近いうちに一度、棟梁が様子を見に来ます。その時に段取りをして、本格的に手を付け始めるまでに材だけでも用意しておくことができれば、改めて棟梁が来た時にさっさと建て直しに入れます。そうすれば、寒くなるまでには皆がまともな屋根の下で過ごすことが出来るかもしれません。」
一言も発することなく耳を傾けるアシタカに、お頭は言葉を選びながらも話を続ける。
「この辺りの山でまた木を切り出すことについて、下流の村の奴らへの説得は俺らで出来ます。奴らも、俺達がここで生きていくのに多少の材木が必要だってことは分かっているはずです。そもそも、だいたいは廃材で賄えるんで、立木はそんなに何本も切る訳じゃねぇ。山の治水にそれほど影響もなければ、うるせぇことは言わんでしょう。しかし、山犬の奴らや森のもののけ共は話が別です。申し訳ねぇが、俺達には手に負えねぇ。奴ら相手に戦う力が無い今となっては、旦那の説得に頼るほかありません。もし、山犬一族を説得できなかったとなれば、いつどうやって材木を調達するのか、また一から考え直さなけりゃなりませんで、一旦ここらで仲立ちをお願いしてぇんです。」
言い終えたお頭は、夕闇に浮かぶアシタカの瞳を放さずに返事を待った。
対するアシタカは、返言に迷う素振りなど見せはしなかったが、平生の笑顔もまた見せはしなかった。
「…分かった。ちょうど、また町へ下るまでにもう一度森へ入ろうと思っていた。その時、サンに話をしてみよう。」
「サン? …あぁ、もののけ姫のことですかい。大変な役回りで申し訳ねぇですが、よろしく頼みます。」
そう言って、お頭は一礼する。
「礼には及ばない。いつかこうなることは分かっていたのだから。」
「全く、大事なところばかりは旦那に頼りっきりで、面目ねぇ。」
頭を上げたお頭に、アシタカは優しく語りかける。
「言ったはずだ。皆のことは私自身のことでもある。だから何も気にする必要などない。それより、もうすっかり暗くなってしまった。早く皆のもとに帰ろう。森に現れた怪しげな者達のことは、エボシの耳に入れておいておくれ。何か分かるかもしれない。くれぐれも頼む。」
「へい。」
何時しか、夜の闇は寸前に迫っていた。先刻まで青から黄金(こがね)、茜、紺へと色鮮やかに移り変わっていた宙の色彩も、今や東空の縁(ふち)より順次、漆黒に落ち着きつつある。点々と小星が瞬く宵となってようやく、アシタカは再びヤックルの手綱を引いて歩き出した。どこか安心した様子のお頭も、後ろについて歩く。彼らの帰る先、蹈鞴場の上の郭(くるわ)では、まばらながらも焚火の灯りが明滅しはじめていた。
上の郭へと延びる坂道を登り歩き、今となってはすっかり見慣れた朽ちた大門を潜ったところで二人は別れた。アシタカはヤックルの世話のため、大蹈鞴跡の前に広がる溜池に。お頭は溜池の淵を通り過ぎてそのままエボシの庭がある郭の奥へと歩いていった。
宵も去り、夜の闇が蹈鞴場を包んだこの刻限、エボシの庭の入口には、いつも通りに番の女が居座っていた。
「エボシ様は?」
歩きながら、お頭はその女に声を掛けた。
「畑にいるよ。呼ぶかい?」
日中も働き詰めのためか、答えた女は少し眠たげであった。
「いや、いい。お疲れさん。」
片手を挙げて労うと、お頭は地べたに座り込む女の眼前を横切ってエボシの庭へと足を踏み入れる。
人一人が入り抜けるのがようやくとも思える手狭な門を潜ると、月明かりにうっすらと照らされた庭の畑の中に、エボシとお付きの女、それとトキの三人の立ち姿があった。暗いのにも関わらず、三人は畑の葉菜を見定めつつ立ち話をしている。また、彼女らとは距離を置いてゴンザも控えている。ゴンザは庭の片隅であぐらをかき、板垣に背を預けてウトウトと居眠りをしている。
「失礼します。」
許しもなく庭に歩を進めるようなことはせず、一旦は入口で立ち止まったお頭は、その一言でエボシに自らの存在を知らせた。閑静な庭で発せられた一声に、エボシを含めた三人は立ち話を打ち切って振り返り、お頭の来訪を見てとる。他方、ゴンザはお頭の声が耳に届いていないのか、瞼を閉じたままゆったりと船を漕ぎ続けている。
「どうかしたか。」
エボシが尋ねた。不意であろう来訪にも、至って落ち着いて穏やかな顔をしている。トキやお付きの者との立談ですっかり気を許しているようだった。
「少しお話が。」
「そうか。遠慮するな。こっちへ来い。」
言われ、お頭は三人が佇む畑へと歩み寄る。
「あんたがここに来るなんて、珍しいじゃないか。」
トキは物珍しげに、葉菜を踏みつけないよう慎重な足運びを見せるお頭に話しかける。
「アシタカの旦那に頼まれてな。」
月光の下、目を凝らして足元を確かめつつ、お頭はトキに返した。
「アシタカ様に?」
「ああ。」
恰幅の良さが仇となったか、狭い畝間に難儀している様子のお頭は、若干のよろめきを見せながらも、三人のもとへ辿り着く。
「言伝(ことづて)か。申してみよ。」
面前に立ったお頭に一息つく間も与えず、エボシは投げかけた。
「はい。それが、アシタカの旦那が山犬一族から聞いたらしいのですが、どうも森に怪しげな人間がいたとか何とか。ここいらでは見慣れない人間だったそうで、エボシ様なら何か知っているかもしれないから、念のため耳に入れておいて欲しいと言われまして。」
エボシは興味深そうに、その顎を左の手で擦り始める。
「…ほう、得体の知れぬ者が現れ始めたか。なかなかに早いものだ。」
そんなエボシの面持ちを見つめていたお付きの女が、不安気に口を開く。
「一体、何者だろう。」
「今の話だけでは、そ奴らが何者か、この私にもはっきりとは分かりやしないさ。だが、蹈鞴場も森もこのような状況だ。怪しげな連中が現れるのも不思議なことではあるまい。それに、分からぬとは言うものの、何も思い当たらぬわけでもない。」
「何か、思い当たる節があるのですか?」
「確証はない。が、可能性はあるといったところか。なに、今にわかるさ。言伝、ご苦労であった。…ゴンザ!」
お付きの女やトキ、お頭との会話もそこそこに、唐突にゴンザを呼びつけるエボシ。
「うぅ…ん? は、はっ! ここに!」
唐突な呼びかけに、半分は夢の世界へと漕ぎ出していた船を慌てて引き返し、眠気さの残る眼を咄嗟に見開いたゴンザは、大げさに飛び上がっては無駄とも思える声量で返事をした。
「うるさいね! 馬鹿みたいに大声出すんじゃないよ!」
辛辣に言い放つトキ。いかにも迷惑そうにしかめっ面を浮かべたトキには構わず、エボシはゴンザに向けて静かに呼びかける。
「ゴンザ、すまぬが一つ頼みたいことがある。」
「は…はあ。頼みたいこと、ですか? 何なりと。」
「明日、もう一人か二人連れて町へと下れ。子細は後で話す。」
「町へですか? お任せ下さい! 早速、連れて行く者を選んできます!」
エボシ直々の、それもご指名の上での頼まれごとに、俄然やる気を湧き起こしたと見えるゴンザは、つい先程までの眠気などはどこかへ吹き飛ばし、どかどかと音を立てながら、忙しない小走りでエボシの庭を出ていった。
「…まったく、騒がしいったらないね。」
束の間、失われていた静けさも戻ってきたところで、ゴンザの見えなくなった小門を眺めながら呟くトキであった。
「ところでお頭。」
張り切って飛び出していったゴンザの背を、とくに興味も無さげに見送っていたお頭に対し、エボシが口を開いた。彼女はお頭に顔を向けると、何か思案している様子でありながらも、確かめるように尋ねるのであった。
「昨日の話によれば、例の村の者達がこの私に対面での謝罪を求めているのであったな。」
エボシを気遣ってか、お頭は控えめに答える。
「へい、おっしゃる通りで。エボシ様はどうするおつもりで。」
「うむ…。それで話が済むというのならば行っても構わんが、果たしてことがそう都合よく運ぶかどうかな。何しろ山に潜んで我らを襲い、荷を奪おうとした連中だ。疑わしいとは思わんか。」
「否定はできません。もしエボシ様に何かあれば、元も子もありませんで。ただ、俺らとしてはそうならないよう、力を尽くしてお守りするつもりです。それは、アシタカの旦那も同じでしょう。」
「うむ…。」
お頭の言葉を聞いてもなお、エボシは考えあぐねているようだった。
黙考に至ったエボシ。お頭とトキは、そんな彼女の次の言葉を黙して待っていた。一方で、この場に居合わせているもう一人…エボシの傍らに立つお付きの女は、他の二人とは少し様子が異なっていた。何か言いたげに、微かに唇を開いたまま、口を閉じる三者へ視線を巡らせている。
最後に、依然として発言する素振りを見せないエボシの神妙な面持ちをじっと窺ったその女は、折を見て、黙然とする三者をよそに、ついに思い切ったように口を開くのだった。
「…あのさ、お頭。ちょっと、聞きたいのだけど……」
お付きの女は、ちらちらとエボシの顔色を気にかけつつも、言いづらそうにお頭に尋ねる。
「……教えて欲しいのだけど、その村に、洪水が理由で旦那と幼い子に先立たれた娘がいるっていうのは、本当なのかい?」
思いがけなく切り出された問いかけに、お頭は若干の驚きを見せながらも簡潔に答える。
「あぁ、本当だ。」
返答に、女は顔をうつむけた。
「そんな…。」
そして、彼女がもう一度その顔を上げた時、僅かに滲む両の瞳は、傍らに立つエボシの眼差しを捉えていた。
「エボシ様。私、その娘に会いたい。会って、話をしたいよ。だってもし、もしも蹈鞴場を造ったことが、繰り返される土石流の原因だとしたら…それが本当なのだとしたら、私はその娘から顔を背けて生きるようなことはできない…。エボシ様に拾われた、かつての私みたいな娘を、私達自身が作り出してしまったのなら、私達だけ救われて、その娘は救われずにただ放っておかれるなんてこと、あっちゃいけないはずだもの…。」
エボシは静かに、お付きである彼女の訴えを受け止めていた。優しい眼差しであった。
そんなエボシの瞳を離さずに、お付きの女は想いを伝える。
「だから私、その娘に会いに行きたい。もしかしたら、エボシ様の考えとは違っちゃうかもしれないけれど…。」
言い終えた彼女は、己の口が差し出がましいものであったかと省みたのか、そこで初めて視線を伏せると、今度は恥ずかし気に顔をうつむけ、それきり唇を閉じてしまった。
すっかり慎んでしまった彼女を見て、隣で話を聞いていたトキがそっと言葉をかける。
「私も同じだよ。あんたの気持ち、分かるよ。」
お付きの女は下を向いたまま、すんと小さく頷く。
そんな二人のやり取りを目の当たりにして、何も言わずにいるエボシではなかった。
エボシは三人…とりわけお付きの女とトキ…を順々に見つめると、迷いなくはっきりとした声音で言うのだった。
「ならば、私は行かねばなるまい。…実際のところ、大蹈鞴の操業が土石流の原因となったか否かは私には分からん。確かに、他所のそれとは規模もやり方も類を見ないものであったことは違いないが、かと言って度重なる洪水の原因がそれであると証明する手立ても無かろう…が、お前達が行くというのなら、会って謝りたいと言うのなら、致し方あるまい。私がお前達だけに頭を下げさせるわけがなかろうて。」
エボシの言葉に、お付きの女はふっと顔を上げ、トキと共に明るい表情を浮かべて「エボシ様…。」と口にする。
エボシは微笑み、さらに言う。
「よく言ってくれたね。私に向かって、さぞ言いにくかったろうに…。いつの間にか、お前達を思い煩わせてしまったようだ。私を許しておくれ。」
二人は首を横に振る。トキはともかく、お付きの女は顔を赤らめ、今にも泣きそうであった。
ここでエボシは改めて牛飼いのお頭に向き直り、ようやく始めの問いに答えるのであった。
「今すぐにとはゆかぬやもしれん。しかし近いうちに必ずやその村を訪ねよう。そのように、そ奴らに伝えておいておくれ。」
お頭は頷き、「承知しました。これできっと、村の奴らも納得することでしょう。」と答えると、そのまま「俺はこの事をアシタカの旦那に伝えに行きますんで、これで失礼するとします。」と頭を下げて踵を返し、相変わらず慎重な足取りで畝間を戻っていった。
畑を抜け、月明かりの仄かな光を背に受けながら小門へと消えたお頭。彼の姿が見えなくなると、エボシは次に宙を見上げる。
「これで下流の村との諍いも少しは収まるやもしれぬ。しかしそれも、この地に数多ある諍いの内の一つに過ぎん。」
お付きの女とトキに言い聞かせているのか、あるいは己に言い聞かせているのか、判然とはしない物言いでありながら、エボシはまたこうも続ける。
「別の諍いもまた、収まる見通しが立てばよいのだがな…。」
彼女が仰ぎ眺める先、宙に浮かぶ月を、どこからか風に流されてきた夜雲が包み込む。夜の闇を照らしていた淡い光は陰りを見せ、月は姿を忍ばせてひっそりとその日一日を締めようとしているのだった。
幾日かが過ぎた。
その日、言葉通りそれほどの日にちを空けずに、アシタカはヤックルに跨り再びサンのもとを訪ねて山へ入っていた。牛飼いのお頭と材木について話をしてからの数日というもの、アシタカはサンとシシ神の森のことが何時も頭から離れなかったと見え、その面持ちは些か険しく、はたから見ても何か思い詰めていると感じられる空気を醸し出し続けていた。
そして、そんな顔色で日の出前から山へと向かうアシタカを、お頭やトキを始めとする蹈鞴場の面々が見かけた際、彼の胸中を案じながらもどう声を掛ければよいのか分からないといった様子でただ静かに見送っていたのも、かたや彼らが抱く焦燥や期待を考えれば、ごく自然なことであり、やむを得ないことでもあった。
いつものように、明るくなる刻限には穴ぐらへと到着していたアシタカは、この日も例によってサンに連れられ、かつてのシシ神の森を歩いて回った。
普段なら兄弟達と行動を共にすることも多いサンであったが、アシタカが訪ねてきた場合は彼と二人で行動していた。その間、ヤックルは穴ぐらの周辺を自由気ままに歩き回ったり、時折、気分で訪ねてくる山犬兄弟とじゃれ合ったりして、主人の帰りを待つのだった。
踏鞴場に、下流の村に、町にと、泊まり込みで行ったり来たりを繰り返しているアシタカにとって、サンと共に過ごす時間は貴重なものであるはずだった。それは、日頃かつてのシシ神の森を巡回しているサンにとっても同じであり、まだそれほどの数を重ねているわけではないにしても、時には真剣に、時には楽しげに、森やもののけ達、人間達の話を含めて大抵は会話も尽きずに充実した時を過ごしてきていた。にも関わらず、この日は打って変わって終日あまりぱっとしない表情のアシタカに、流石にサンも早々から気がついていた様子であった。あちらこちらを忙しなく行ったり来たりしている彼の状況を知っていた彼女は、この日ばかりは努めて明るく話しかけ、彼を気遣っているようであった。
「もう辺りが暗くなってくる頃だ。サン、私はそろそろ戻ることにするよ。」
高く昇っていた陽もいよいよ家路につき始めたところで、アシタカは先を行くサンに声をかけた。
「まだ明るいじゃないか。」
暖かく、肌に心地よい昼下りの日差しが煌めく木漏れ日の中、若木林の上に広がる青空を見上げながら、まだ早いとでも言わんばかりのサン。彼女の言葉に、アシタカは微笑みを見せる。
「サンにはそうかもしれない。だが、日が傾けばあっという間に私には道が分からなくなってしまうよ。それに、踏鞴場の皆も心配する。」
「そうか。」
立ち止まった彼女に遅れてアシタカが追いつくと、サンは仕方ないという長い溜息を鼻でつき、続けて彼に言う。
「分かった。穴ぐらに戻ろう。」
遠出をしていた二人が穴ぐら付近にまで戻ってきた頃、上空には厚い雲が立ち籠め始め、夕暮れも通り越してすでに辺りは薄暗くなり始めていた。
「早めに戻ってきて良かった。この感じだと、もうしばらく経てば本降りの雨が降るな。」
漂う灰色雲を眺めて、サンが言った。
穴ぐらへと繋がる、今や見慣れた獣道を隣り合って歩く二人。相変わらず、アシタカはどこか表情が険しかった。
サンはそんなアシタカを慮(おもんばか)ってか、歩きながら彼ににこやかに話しかける。
「今日は話せて楽しかった。母さんのことやシシ神様のこと、この森のこと、それにアシタカのことも。今度はアシタカが住んでいた森のことを教えてくれ。そこに生きる木々や獣たちのことを。」
「ああ。またゆっくり話をしよう。」
笑みを返してはいるが、その眼(まなこ)には微笑みきれない堅さが覗けている。
サンはちらりとアシタカの横顔に目を向けてから彼に尋ねる。
「今度はいつ来れるんだ?」
「少し間が空くかもしれない。今日は新月だから…そうだな、次の半月の日にまた来るよ。」
「はんつき?」
首を傾げるサン。
「月が半分になる日だ。」
微かに、本来の笑顔を垣間見せたアシタカ。サンは安心したのか、また別の話題を振って会話を続ける。
「そうか、半月か。分かった。…ああ、そういえばもう一つ、人間達には言う必要も無いかもしれないが、この際だから伝えておきたいことがある。」
「何だい?」
気が紛れた様子のアシタカが明るく返した。サンは話を進める。
「猩猩一族がまた湖の辺りに木を植えてくれる。今まではあそこの人間達に追い払われていたけれど、これからはもう邪魔しないでくれ。鉄とかいうものを造る気がないのなら、もうお前たちには関係無いだろうけどな。それだけ、伝えておく。」
「猩々達が? …そうか。」
サンの言葉を聞いたアシタカは、そう言ってぱったり歩みを止めてしまった。
「アシタカ?」
気に掛けるサン。咄嗟に自らも足を止めてアシタカを振り返る。
「何かあったのか?」
答えないアシタカ。サンはだんまりを決め込む彼に歩み寄り、重ねて言う。
「アシタカ、お前、今日はずっと様子がおかしかったぞ?」
ここにきて、サンはついにアシタカを問い詰めるのだった。
「何かあるなら言え。私は心配なんだ。疲れているのなら、無理をして会いに来なくてもいいから……」
彼女が言い終える前に、アシタカが唇を開く。
「サン。」
立ち尽くしたまま、サンを見つめるアシタカ。驚き、口を閉ざして彼の次の言葉を待つ彼女に、アシタカはそっと歩み寄る。
そして、正面から瞳を見交わした彼は、穏やかに話し掛けるのだった。
「実は、私もそなたに話しておかなければならないことがある。」
一見、冷静ではあるが、どこか彼女の様子を伺うような普段と異なるアシタカの態度に、サンは不思議そうに答える。
「なんだ。」
「サン……」
アシタカは決意をもって、ただし落ち着きを保った声音で、サンの瞳を放さずに語り掛ける。
「……私や蹈鞴場の皆が生きていくために、どうしても必要な物がある。それを、少しわけてはくれないだろうか。」
「わける? 何をだ? 食い物か?」
話が見えていないサンは、はっきりとした答えを彼に求めていた。
「いや……」
アシタカは一度、唇を噛み締める。そしてサンをじっと見据えたまま、この日、胸に潜め続けていたであろう台詞をとうとう口にするのだった。
「……この地に残っている樹を、少しだけ、切らせてはくれないだろうか。」
言い終えてなお、アシタカは瞬きもせずにサンを見つめる。
沈黙が流れた。
サンは佇んでいた。まるで、目の前に立つアシタカが発した言葉が、ただの一言も聞こえていなかったかのように、佇んでいた。
呼吸さえ、瞬きさえも忘れてしまった彼女が、しばらくのあいだ言葉を失ったことは言うまでもない。サンにとって、瞳に映るアシタカと、耳に入った言葉とが頭の中で一致していないようだった。
「サン。」
呼びかけるアシタカ。それにも答えず、サンは呆然とアシタカを見つめ返している。あるいは見つめ返しているのではなく、ただ単純にアシタカの姿が彼女の瞳に映り込んでいるだけなのかもしれない。
目を見開いたままの彼女が、今しがたの出来事について、未だ理解が追いついていないのは明白であった。
アシタカは身じろぎせずに、ひたすら待った。
長い沈黙を挟んだ後、ようやくサンは一言発した。小さな声だった。
「何を……」
その一言をきっかけに、次第に彼女の感情が溢れ始める。
「……何を、言っているんだ。」
瞳が、声が、全身が、あらゆる想いを沸き立たせるよりも先にまず動揺を示し、彼女もそれを隠さなかった。隠せるはずもなかった。
「…アシタカ、お前、何を言っているんだ…。」
もう一度、絞り出された声は、震え始めていた。
アシタカは言う。
「…今、踏鞴場の皆が木を必要としている。もちろん、鉄を造るためではないよ。住処を建てようとしている。多くは踏鞴場に残されたもので補うつもりだ。だが、それだけではどうしても足りない…。だから、すまないが少しだけ木を切らせてほしいんだ。元気な木は切らない。ただ、生きてはいるが、もうだいぶ弱っている木を数本だけ、切らせてほしいんだ。」
口にする彼自身、胸が苦しいのであろう。真っ直ぐにサンを見つめ、決意をもって言葉に表したはずでも、声の調子や面持ちからその心境が窺える。
しかしそれも、サンにとっては空疎なものであった。
「なぜなんだ…。」
サンはぽつりと言った。変わらず、小さな声だった。
「どうして、そんな話をするんだ…。」
ふっと地べたに落ちる言の葉。揺れる瞳を伏せ、だらりと垂れた両の拳をぐっと握り締めて、彼女はうろたえていた。
その姿に、アシタカは束の間、言葉を失う。しかし、覚悟していたはずだった。この日、目覚めた朝…いや、彼がこの地、踏鞴場で生き、そしてサンと共に生きると決めたあの時から、彼も覚悟をしていたはずのことだった。
彼は目をそらすことなく、すぐに言葉を取り戻す。
「すまない。だが、いずれ話さなければならないことなんだ。」
実直にも真っ直ぐ見つめてくるアシタカ。そんな彼に、サンは伏せた瞳をぎゅっと閉じる。
『切らせてほしい』と言われた時、すでに彼女の中で答えは決まっているはずだった。しかし、それでも彼女が咄嗟に言い返せなかったのは、その答えによって何かを失ってしまう、二人の間の何かが無かったことになってしまうのではという不安がよぎったからなのかもしれない。
だが一方で彼女は、その答えを彼女自身の中で変えることなどできはしないという思いもまた、確かに抱いているはずだった。だからこそ、それが束の間でも、彼女は相反する自らの思いを目の前にして、答えを口に出すことが苦しいはずだった。
サンは何かを恐れるかのようにゆっくりと瞼を開き、アシタカを見つめ返す。そして、震える唇で言うのだった。
「…人間は、許さない。許すことなんかできない。だから、また樹を切りに山に入るのなら、やつらを殺す。弱っている樹だからなんて関係ない。弱ってたって、まだ生きてるんだ。確かに、そう遠くないうちに枯れてしまうだろうし、私達にはそれをどうにかすることはできない…。でも、だからといって、私達のようにせっかく生き残った数少ない樹を人間の手によって殺されるのは許せない。そうなるくらいなら、私が人間を殺す。」
相手がアシタカであるからか、言葉に反してサンの声音に殺気は感じられない。アシタカもそれを感じ取っているのだろう。彼は引き続き、冷静に語りかける。
「サン、蹈鞴場の人々は、今あそこに残された物を可能な限り使おうと、懸命に努力している。伐る樹は最小限に留めようと…。でも、いずれにしても人は、この先も少なからず森や川を糧にしていかなければ生きていけない。どうか、分かってほしい。」
説得のため、落ち着き払ったアシタカの口から繰り出されるそれらの台詞。しかし、彼が言い終えるよりも前に、サンは咄嗟に、それも憤りを込めて声をあげていた。
「樹を切らなくたって生きていける!」
動揺を超え、込み上げてくる怒り。サンの目つきは鋭く、口調も強くなりつつあった。
それでもアシタカは、穏やかに会話を進めようと試みる。
「確かに、木々を切らなくても生きていけるかもしれない。…だがそれでは、人が人として生きるということではなくなる。」
「なぜだ。人間は人間だ。」
「サン、そなたは山犬の一族としてこの森に暮らしている。それは、そなたの生き方が故(ゆえ)だ。人もまた、その生き方で人であることができる…。人が皆、そなたのように生きられるわけではない。」
「樹を切るのが人間の生き方なのか? それが人間として生きるということなのか?」
「そうではない。皆が生きるために家を建て、田畑を開き、薪を焼べなければならないのだ。そのために人は森を糧にし、頼りにしている。それが人の生き方なんだ。木々を切ることを目的に生きているのではない。人として生きるために、樹が必要なんだ。」
アシタカが理性的に話すほどに、サンは苛立ちを募らせていた。
「あんな住処なんかいらないはずだ! 穴ぐらを探しそこに暮らせばいい。雨も風も、雪だって凌(しの)げる。山を切り開いてまでしてわざわざ食べるものを育てる必要だって無い。だって、森にはもう食べるものがあるのだから…。」
「そうかもしれない。もし、人々の数が今よりももっと少なければ、そうやって生きていくことも出来たのかもしれない。でも、今の世に生きる人の数では、穴ぐらも山の食べ物も、皆が暮らしていくには足りないだろう…。だから、住むべき家を建て、皆を養えるだけの作物を育てられる広さの田畑が必要なんだ。そのための、皆が生きていく分だけ、必要なものだけを山から分けてほしい。」
サンは激しく首を横に振る。
「人間の数が多すぎるんだ。だからその分、森や獣達が犠牲にならなければならないんだ。山犬や他の一族はこんなにも少なくなってしまったというのに…。」
噴き出した憤りに、今では哀しみが滲んでいた。そんな彼女を目の前にしても、アシタカの姿勢は変わらなかった。
彼は語る。
「私には、人の数を減らすことはできない。増え過ぎたからと言って、誰かをこの地から追い出したり、ましてやその命を奪うことでその数を減らすことなど、決して出来はしない。新たに生まれてくる命を他人が拒むことも、生きたいと望む人々が、この地に生きる希望を求めてやってくるのを拒むことも、私には出来ない。私自身が、そうだったのだから。ナゴの守から受けた呪いを、シシ神が解いてはくれぬかと期待を抱いてこの地へやって来た私自身が、誰にも拒まれることなく、ここでこうして生きているのだから。」
サンも譲らなかった。彼女は、より哀しみを拡げた口調と面持ちで言う。
「それでもだ。アシタカ、人間は許せない。もう、森にも入れさせない。この森は、私が守らなければいけないんだ…。お前と出会って、私は人間に少し甘くなってしまった。この前だって、そのせいで兄弟達を危険な目に合わせてしまった。その時、思ったんだ。お前といると、私は人間に甘くなって、やるべきことを忘れてしまうのではないか、この森を、山犬一族を守れないのではないかって。私がしっかりしなくちゃいけないのに。ここにはもう、母さんもナゴの守様も、シシ神様もいないのだから…。だから、お前が何と言おうと、私はこの森を人間の手から守る。それでも樹を切るというのなら、私は人間と戦う。アシタカ、お前とだって…。」
そこまで口にしたところで彼女の声は再び震え、大きな瞳は滲んで揺れ始めていた。
アシタカは、清純な眼(まなこ)を逸らすことなく、彼女に伝える。
「私はそなたと戦いたくない。」
サンは叫ぶ。
「私だって同じだ!」
頬に、雫が輝く。そして、自信を失ったように小声で呟くのだった。
「…でも、アシタカは人間の味方だ…。」
零れた彼女の呟きを、アシタカが聞き捨てるはずもなかった。
「それは違う! …私も、そなたと共にこの森を守りたい。」
「嘘だ! この森を守るつもりなら、人間のために樹を切るなんて言わないはずだ。そんなこと、言えるはずがないんだ…。」
溢れる想いをせき止めたいのか、その瞼をぎゅっと閉じて、懸命に首を横に振るサン。
彼女の様子に、アシタカも胸が苦しいのだろう。気落ちした声音で、しかし諦めはせずに語り始める。
「人間のためだけに言っているのではない。この森のためでもあるんだ。…人が、森を頼りにして生きていけば、人々は木を切り尽くしたりはしない。私の郷もそうだった。山の木を切り、粟や稗を植え、倉や社を建てた。そうしてこれまでも、そしてこれから先も森の木々を必要としているから、民は皆、絶対に樹を切り尽くしたりはしなかった。…だが、もし人々の暮らしから木が消えてしまえば、人は鉄や、材木ではない他の何かを頼りに生きていくようになる。そうなれば、人々にとって必ずしも必要のなくなった森の木々は、鉄を造るためのただの手段となってしまい、途端に切り尽くされてしまう…。以前の踏鞴場が森の木々を切り続けたのは、きっと鉄を頼りに生きていたからだ。…だが、今は違う。踏鞴場の人々は鉄を手放した。これからは森を頼りに生きていこうとしている…。だから、踏鞴場の皆はもう以前のように森を切り尽くしたりはしない。彼らが生きていくためには、この森もまた生きていなければならないから。」
一呼吸おき、彼は続ける。
「それに、踏鞴場の人々とはまた別の人々の中には、未だにこの森の鉄を狙っている者達がいる。そういった者達がこの地を狙い、再び森が切り開かれるようなことがあれば、その時は必ず、踏鞴場の人々も森のために力を貸してくれるはずだ。彼らは彼ら自身が生きるために、森を守ろうとするはずだ。人が木を、森を頼りにして生きていくことが、この森を守るためにもなる。それが、共に生きるということなんだ。踏鞴場の皆とこの森が、共に生きるということなんだ。どうか分かっておくれ、サン。」
「…分からない、私には…。」
「私は、サンや森の獣達と踏鞴場の人々がこの地で共に生きることを願っているだけだ。」
「アシタカはそう望んでいるだけだ。言っていることは人間と同じだ。そこに、私達の思いは含まれていない。お前達の都合ばかりだ。」
閉ざしていた瞳を見開き、語気を強めてサンはそう言った。
対するアシタカの口調は変わらない。
「そうだ。今のまま私達が身勝手に森へ入り、樹を切ってしまえば、そうなってしまう。しかし、私はそうしたくはない。だからこそ、こうしてそなたと話をしている。」
「アシタカ。お前は、母さんやシシ神様がこの森を去って行ってしまったあの日、私に言った。会いに来てくれるって。…でも、あの日から、初めてここに来たその時から、お前はずっと、森に残された人間達を連れて帰らせて欲しいとか、人間達はこの森と共に生きようとしているとか、そんなことばかりだ。そして今日はまた、人間のために木を切らせて欲しいと言う…。」
うつむき、足元を力無く見つめるサン。彼女は独り言のように尋ねる。
「私には分からない。お前が私に会いに来るのは、あの人間共と私の仲を取り持つためなのか? 人間共の言い分を私に伝えるためなのか? それだけのためなのか?」
「それだけのためではない。決して。しかしそれでも、私が皆のためにやらなければならないことでもある。」
一瞬の静寂。
サンはうつむいたまま、言葉を落とす。
「…やっぱりお前は、人間の味方なんだ…。」
沈んだ声音は、落胆と哀しみに包まれていた。目の前にアシタカが立っているのにも関わらず、そこに佇立する彼女は、まるでこの世界にたった独り置き去りにされた生物かのように閉息し、空虚な影を落としていた。
「私は、どちらかの味方というわけではない。だが、サンと共にありたい気持ちに変わりはない。」
言いつつ、サンへ一歩踏み出したアシタカを、彼女は拒絶する。
「ならなぜ私の言うことを聴かない!! なぜ人間のために樹を切ろうとする!!」
彼女は叫んでいた。一貫して平心を保っている…保とうと努めているであろうアシタカに対し、サンの感情は激しく渦巻いていた。
二歩目は踏み出さず、アシタカは語りかける。
「私を含め、踏鞴場の皆とこの森が共に生きるためには、ここの樹が必要なんだ…。」
「あいつらは森を殺してきた。シシ神様も、乙事主様も、ナゴの守様も、あいつらが殺したようなものだ。母さんだって…。」
波のように打ち寄せる、一つの胸に収めるにはあまりにも多過ぎる感情が、彼女を戸惑わせていた。
「私はいつも、朝起きるのが怖い。穴ぐらから出て目に入るのは、死んだ木々と、今にも消えてしまいそうな小さな緑ばかり…。森がこんなに弱々しくなったのは人間達のせいだ。今、やっとまた猩猩達が樹を植えようと、森を育てようとしてくれているというのに…それなのに…それなのに、奴らは、お前らは、また樹を切ることで生きようとしてる…。おかしい、そんなの…。」
動揺し、憤りや哀しみ、苛立ちや落胆が渦巻き溢れ、堪えられずに瞳に滲んだ輝きが、一つ、二つの雫となって頬をつたう。
「サン…。」
流れ滴る輝きに、アシタカは両の手を差し伸べる。しかし、サンはふいに顔を背け、差し出された手を片手で払い除けるのだった。
「…アシタカは、分かっていると思ってた…。」
サンは小さく、力尽きた様子でぽつりと言った。背を向けた彼女は、「もういい。」と一言、後ろ姿のまま片腕で顔を拭う。
「サン、私は……」
アシタカの呼びかけを、サンは遮る。
「アシタカは他の人間とは違う。だけど、もう誰にもこの森の樹は切らせない。だから、この先も樹を切りたいと言うのなら、アシタカももうここへは来ないでほしい。」
彼女ははっきりと言った。だが少なくとも、口調は平然と聞こえるよう装っていた。
話を終えようとする彼女の背中に、アシタカはもう一度言う。
「サン、そなたのためにも、踏鞴場の皆のためにも、そしてこの森のためにも、いずれ私が言わなければならないことなんだ…。」
顔を見交わすこともなく、サンは告げる。
「もう、会いに来るな。頼むから…。お前は人間の味方なんだ。だから、またここへ来たらお前も殺す。お前も、あの女も、他の奴らも、みんな同じだから…。」
押し殺しきれていない感情が、言葉の節々に染み付いていた。
「サン…。」
「アシタカは人間だ。だから、私なんかより人間と一緒に生きた方がいい。もう私には、関わらないほうがいい…。その方がいいんだ、きっと…。」
静かに言い残し、足を踏み出すサン。アシタカはそんな彼女の背に向け、実直に言うのだった。
「サン、これだけは聴いておくれ。私は次の半月の日にそなたに会いにここへ来る。必ず。その時まで、考えてほしい。私が言ったことを。再び会ったその時、それでもそなたがまだ私を殺したいのなら、殺してもいい。だが、私がそなたに刃を向けることはない。」
立ち止まるサン。彼女は反射的に叫ぶ。
「殺したくなんかない!! 今だって、お前を殺したいなんて思ってない! そんなの、お前だって分かってるはずだ! だから、来るな!」
背を向けるサンは、再び顔を拭うやいなや、一気に駆け出し、一度も振り返ることなく、枯れ木と若木の混在する森へと姿を消した。
ぶつけられた叫びに、神妙な面持ちを浮かべるアシタカ。しばらく立ち尽くすばかりの彼の頭上を、濃厚な灰色雲が覆う。
ほどなくして、湿り気のある重い小風が通り過ぎた。
アシタカは天を仰ぐ。
雨が、舞い始めていた。
「旦那、なんかあったのか?」
夕刻、一足先に仕事を終えていた甲六は、足取り重いアシタカを遠目に見かけていた。流石の彼も、ヤックルを厩に戻したアシタカがうつむき気味に、それも誰一人とも挨拶を交わさずにとぼとぼと歩いていたことに異変を感じていたのだろう。終始深刻な表情で貧素な仮住まいへと入っていったアシタカを、甲六なりに心配しての言葉だった。
幾枚かの板材を三角形に組み合わせてこしらえた酷く小さな仮住まい。胡座をかいてでさえ頭上間近に迫るその頼りない屋根の下で、甲六とトキは内職に勤しんでいた。
むき出しの地べたに筵(むしろ)を敷き、残骸から見つけ出したと思われる土汚れた藁を手際よく編んで、藁縄を作っている。
手を止めて尋ねた甲六。対象的に、トキは忙しない手を止めることなく答える。
「あの様子じゃあ、山犬の娘とうまく話が折り合わなかったんだろうね…。」
真剣な眼差しで、同情を込めてそう口にしたトキに、甲六は釈然としない顔を見せる。
「話? 話って、なんの話だよ。」
全く見当のついていない甲六に、トキは手を止めて大きく溜息をつく。そして唾を散らしながら、甲六にまくし立てるのだった。
「あんた何馬鹿なこと言ってんのさ! 木を切り出すことに決まってんじゃないか! 他に何があるって言うんだい! アシタカ様は、材木が必要な私達のために、あの娘に話をつけに行ってくれてるんだよ! 森の樹を切らせてくれないかって!」
身を仰け反ってびびる甲六。かたやトキは、すぐさま手先を忙しく動かし始める。
集中するトキの顔色をうかがいながら、甲六は恐る恐る尋ねる。
「…も、もののけ姫に?」
トキはてきぱきと縄を編みつつ、今度は苛立ちを抑えて答える。
「そうさ。あんただってアシタカ様と山犬の娘がいい仲だってことくらい分かってんだろ? あっちからすれば、アシタカ様はきっと、生まれて初めてまともに心の通じ合えた男なんだ。そんな人に、自分自身や育ての親が命を張って守ってきた森の樹を切らせてくれないかなんて言われたら、いくらあの娘でも傷つくさ。だからそれを知ってるアシタカ様はつらいんだ。自分が言わなければならないとは分かっていてもね…。」
同情とともに、アシタカに申し訳が無いという思いまでをも感じさせる物言いだった。それがあるからこその、甲六への口ぶりであったことは、当の甲六以外にならば誰にでも分かるはずであった。
「そうか。旦那も大変なんだな。近いうちにまた町に向けて発つんだろ? 苦労人だなぁ。」
呑気に語る甲六を、トキがすかさず一喝する。
「ったく、今更何言ってんのさ。甲六、あんただってもっと苦労しなきゃいけないんだ。人のことはいいから手ぇ動かしな!」
「お、おう。」
首をすくめ、慌てて縄を編み始める甲六であった。
(つづく)