第四章

 しとしと、しとしと、曇天より陰雨は注がれる。本降りとなりつつある雨脚に合わせるかのように、行き交う町衆の歩調も早まっていく。

「...おいおい、蓑笠なんて持ってきちゃいねぇってのに...。」

 アシタカの傍らで、牛飼いの一人が頭上を仰ぎ見ながら呟いた。かつて荷送りにおいて携行していた雨具は、蓑も笠も、踏鞴場の炎上と共にそのほとんどが失われてしまっていた。

 見る見るうちに上空を侵食していく鉛色の雨雲。西の空に雲の切れ間は見当たらず、通り雨でないことは確かであった。じわじわと、とはいえ着実に濡れていく衣に、甲六は溜息をつく。

「...あぁあ、急ぎの荷があるわけでもねぇんだ...。旦那ぁ、エボシ様に出立は明日にしましょうと言ってくだせぇ。こんな雨ん中、山歩きなんて俺は御免ですぜ。」

「馬鹿野郎。エボシ様に言いてぇことがあるんなら、その口で言いやがれってんだ。」

 甲六を叱責するお頭。しょげる甲六をよそに、彼はアシタカに向き直る。

「旦那、エボシ様のことです。値の張るもんじゃねぇんだ。きっと蓑も笠もすぐに全員分を揃えて下さるでしょう。気にしねぇで下せぇ。」

 お頭のその見込みは正しかった。エボシは雨脚が強まると見るや否や、一旦は一行を大問屋の土間や軒下で雨宿りさせ、その間に通りの店で雨具を買い揃えた。

「...やっぱ、この雨ん中で歩くのか。気が乗らねぇなぁ...。」

 笠の留め紐を結びながらも、がっかりする甲六であった。
 

 積雨の下、一行は町を出立した。エボシとゴンザは先頭に、アシタカは隊の中ほどに、それぞれ列を成して帰路につく。もといた牛に加え、新たに買い足したもう一頭の車引きの牛を含めた踏鞴場の衆、さらに、手配した馬借衆数名と彼らの馬数頭からなる一団は、ともすれば足を取られかねない泥土を踏みしめつつ、賑わう町を後にした。

 淡い期待も空しく、道中に雨脚が弱まることはなかった。雨水に溢れた道はどこも泥道となり、足元もままならない。日照りの折には乞い求める慈雨も、今このような時にはかえって、余計なお世話というものであった。案に違わず、各自の足取りも重い。同じ脚とて、威勢良いのは雨脚ばかりで、彼らのそれではなかった。道中、小言の一つさえ零れぬほど、一行は消沈していた。


 昼下がり、長めの一服を挟んだ後のことだった。山中では雨の降りもすっかり激しくなってきており、ざぁざぁと土を打ち付ける雨音がやかましく響き渡っていた。

 衣が泥に濡れぬよう、尻を浮かせてしゃがみ込んでいた腰を上げ、再び重い足を動かし始めたこの頃には、道中最後の人里となる寒村もとうに抜け、残りは野営地までずっと山の中腹を横断する登りの坂道となっていた。登って右手が山側、左手が谷側となっているこの辺りの山道は、切土が腰の高さ程であり、その上に広がる緩やかな斜面には薪炭林を伐採したと思われる跡地が、さらに上方には伐採されずに残された黒木林が広がっている。山中を貫く道としては珍しく、一時的に視界の開けたその一帯で、アシタカは物珍し気に上方の黒木林を眺めながら歩いていた。

「...皆同じ木。高さも太さも皆、それほどに変わりなく、均一な林だ...。誰かが植えたものなのだろうか。」

 一人呟くアシタカ。その時、ふと彼の目が動く黒影を捉える。アシタカは足を止めた。

「...誰か、こちらを見ている。」

 点々と株太が残る伐採地を隔てた先、鬱蒼と広がる黒木林を、彼は注意深く見つめる。肥大した黒雲に覆われた天候も相まり、林内は不気味に仄暗い。彼は、そこから何者かの視線を感じているようだった。

「旦那ぁ、どうしたんで?」

 大雨という荒天の下、山肌に茂る林の一点に視線を注いで佇む彼に、追いついた後続の男が気さくに声をかける。

「疲れたんで? さっき一服入れたばかりですぜ。」

 暗い木陰に目を光らせるアシタカ。捉えたと思われた人影も、今は潜み、動きがない。

「何かいたんで?」

「...いや、なんでもない。気にしないでくれ...。」

 素っ気ない答えに、男は不思議そうな表情を浮かべたが、疲労と悪天候とで、もはや気を遣う気力も無いのであろう。「先、行ってますぜ。」と言い残し、アシタカを置いて行ってしまった。

「獣...か。」

 そう口にする彼の瞳には今や、それらしき動く影は映っていなかった。気を取り直し、彼が薄闇籠る木立から目を離そうとした...その時だった。人影が、暗がりに現れた。それも一人ではない。潜んでいたいくつもの影が、一斉にうごめいた。はっきりとした影は、もはやその身を物陰に隠そうとはしていなかった。

 アシタカは、はっとして目を見開く。そして、何も知らずに歩み続ける一行を振り見て、咄嗟に叫んだ。

「待ち伏せだ! 皆、伏せろ!」

 唐突に沈黙を打ち崩した叫びに、一行は何事かと足を止め、顔を上げる。荒天の最中、先頭を歩くエボシとゴンザの二人もアシタカの声に気が付き、後列を振り返る。

「エボシ、待ち伏せだ! 林の中から我々を狙っている!」

 雨音に負けじと、再び声を張るアシタカ。刹那、雨を貫き、数本の矢が彼に襲い掛かる。気が付き、アシタカはすんでのところで身を伏せる。的を外した矢が、泥土に二本、三本と突き刺さる。

「ひっ!」

 傍らにいる男が身をのけぞり、吃驚する。その光景を前に、皆が一斉に事態を呑み込む。

「皆! 身を隠せ!」

 声を張り上げ、即座に呼びかけるエボシ。牛飼いも馬借も我を忘れ、足を滑らしながらも荷車の陰や道端の法(のり)の下に駆け込む。

「ちくしょう! まだ踏鞴場まで遠いってのによぉ!」

 前方の法陰から、甲六の悲痛な叫びが聞こえてきた。

「刀を取って敵襲に備えよ!」

 エボシの一声を皮切りに、牛車に隠れた者達が、荷台に載る刀を取り出し、近くの者達に投げて寄越す。自衛のためとはいえ、長旅において常に武具を腰に下げていては身が重いため、アシタカを除いて皆が平時は荷車に刀や薙刀の類を載せていたのだった。

「師匠連...か?」

 数名の男達と共に後続の荷車に身を隠したアシタカは、荷台の陰からそっと顔を覗かせ、襲撃者の潜む林内を窺う。彼の脳裏には、ジコ坊からの忠告の言葉が浮かんでいるのかもしれない。

「ししょうれん?」

 脇で刀を抱えてしゃがみ込む男が、一体何の話かと尋ねるが、アシタカの耳には届いていないようだった。

「...だが、放たれたのは石火矢ではない...。」

 荷の陰から手を伸ばし、どろどろの土に突き刺さる一本の矢を引き抜く。

「矢じりが古い...。」

 手にした矢の矢じりは古く、すでにぼろぼろである。手入れが足らず、切先は欠けていて、間近でなければ深く突き刺さりそうもない代物であった。

「石火矢を用いていないということは、師匠連ではないのか。だとすれば...」

 仮に相手が師匠連であれば、石火矢を打ち放つことで牛馬もろとも殺すであろうことは想像に難くない。だが、用いられたのは弓矢であり、それも古いものであった。その上、一早く待ち伏せに勘づいたアシタカを狙った最初の一撃以降、攻撃は収まっていた。まるで、牛馬の生け捕りを狙っているかのように、牛や馬への攻撃も無かった。

 アシタカは身を隠しつつ、先頭集団を覗く。

「エボシ、侍か!」

 激しく叩き付ける雨音にかき消されまいと、彼はエボシが身を潜めているであろう隊の前方へと向かって叫んだ。間を隔てず、返答が響く。

「あの動きは侍ではない! あれは野伏せりだ! 侍であれば一番乗りを狙い、とうに切り込んできているはずだ!」

 凄まじい雨脚の中、前方からエボシの必死に叫ぶ声が返ってきた。

「のぶせり...?」

 アシタカは耳慣れないその言葉を呟いた。すると、傍らで身を屈めていた男が彼に言う。

「野伏せりってのは、武装した百姓やら落人のこってす。連中、いつもなら領主が戦に召集した時くらいしか刀なんか持ちやしないってのに、自分たちの暮らしが切迫してくると山に潜んで、道行く落ち武者や同じ百姓相手に追い剥ぎを働いてるんすよ。」

「賊か。...だが、なぜあの者達は我々を襲う。ここに伏せていたということは、狙いは他でもない、はじめから蹈鞴場の民である我々のみということだ。」

「そりゃあ旦那、きっとあいつら、大踏鞴のせいで田んぼも畑も流されちまったからっすよ。中には家まで流されちまった奴もいるとかで...。大踏鞴のための伐採のせいで、雨水がそのまんま川に流れ込んじまって、大荒れしちまって...。嵐の時期には決まって洪水だ土石流だを起こしたもんですから、奴ら怒り狂って俺達を襲うんすよ。前にもあったんだ。地侍共が俺達を襲ってたのも、鉄が狙いだっただけじゃあねぇみてぇで、奴ら領民の怒りを鎮める目的もあったみてぇすよ。」

「そうだったか。踏鞴というものは、それほどまでに...。」

 エボシが営んでいた大踏鞴の影響は、森に生きる者達だけでなく、近隣の人間界にまで及んでいたということに、アシタカは絶句していた。

「そりゃあ、木炭のためにとんでもない量の木が要りましたが、こっちだってむやみやたらに木を切ってたわけじゃありません。山を区切って、段取り組んで順々に切ってました。だけんど、何しろ俺らの踏鞴は他と比較にならねぇくれぇでかかったもんで、燃やす炭や薪の量もそこらの踏鞴とは比べもんにならなかったんすよ。」

 付け加えるように、話を聞いていた別の男がさらに続ける。

「それは砂鉄もおんなじだったんだ。とにかく大量の砂鉄が必要だったもんで、エボシ様の命(めい)で鉄穴流しもそこらの踏鞴と比べりゃあ大分増しで行われていたんだ。そんなもんだから、沢は泥だらけになって下に流れていっちまった。」

「とにかく、俺らの踏鞴はそれまでにない大きさだったんだ。俺たちだって百姓です。奴らの怒りも分かっちゃいましたが...。」

 野伏せり側の真意を測ってか、アシタカは瞼を降ろし、「それが理由か...。」とだけ溢すと、何事か考えを巡らしているのか、少しの間、黙りこくってしまった。


 アシタカが思案に耽っていた頃、隊列の前方にあるエボシとゴンザは、野伏せりの出方を探っていた。

「奴ら、動きませんな。」

 ゴンザは荷車の陰から、野伏せりが潜んでいるであろう林内を窺っていた。茂る木々と、曇天による闇が重なり、一行から望む黒木林は、まるでそこだけが夜中であるかのように暗かった。

「エボシ様、ここからでは何も見えません...。」

 眉をひそめ、険しい表情を浮かべるエボシ。

「...まずいな。奴らからは我らが丸見えだ。石火矢さえあればな...。」

「奴ら、なぜ動かんのでしょう。」

「この豪雨だ。おそらく我らの体力が消耗するのを待っているのだろう。無駄な戦はしないということだ...。」

「どうします。」

「案ずるな。時間はあるということだ。少なくとも、日没まではな。...ゴンザ、アシタカは見えるか。」

 ゴンザは身を低くした体勢のまま、アシタカが潜む後方の牛車へと身体の向きを変えた。

「なんとか。」

「そうか。」

 エボシはそう言うと、自らアシタカの潜む後方へ呼びかける。

「アシタカ! そなた、奴らが見えるか!」

 敵方に悟られぬよう、ゴンザが目視でアシタカの返事を確認する。

「...駄目です。あやつ、首を横に振ってます。」

「アシタカの眼でも駄目か...。せめて敵の数だけでも分かればよいのだが。」

「あ、エボシ様。あやつ、何かこっちに言ってます。」

 アシタカがゴンザに向けて、身振り手振りで何やら伝えようとしている。が、ゴンザには皆目見当もつかない。

「なにぃ? 『俺』が? 『あっち』に? 『しゃべる』? 何をわけのわからんことをぬかしおって...。『お前』? 目? あー...、何かこっちを指した後に、目を指さし、その後に敵の方を指さしてますが...。」

「どけ。」

 エボシが身を屈めたままゴンザを押しのける。

「あ、ちょっと、エボシ様。」

 ゴンザと入れ変わり、エボシが直接にアシタカとやりとりする。エボシは即座に意図を汲んだのか、ニヤと軽く笑みを浮かべると、アシタカに向けて頷いた。

「...全く、根拠あってのことか。」

 苦言とも取れる言葉を漏らすエボシが、ふっと吐息をつくと同時に、後方でアシタカが動き出す。

「あいつ、何を...!」

 跳び出そうとするゴンザをエボシが止める。

「待て。奴の好きにさせておけ。お前もよく敵方を観ておくがいい。」

「え?」

 笠から滴る雨雫など気にも留めず、エボシはじっと野伏せりの動きに目を光らせていた。


「あ! ちょっと! 危ないっすよ旦那ぁ!」

 無言のまま、突然牛車の陰から出でて、野伏せりに姿を晒したアシタカに、傍らに潜んでいた男が悲鳴をあげる。

「聞いてくれ!」

 構わず、アシタカは敵方に向かって叫んだ。

「我らはそなたらと戦うつもりはない! 目的は何だ! ここにある荷が欲しいというのなら、まずは姿を見せてくれ! 話はそれからだ!」

 間髪入れず、数本の矢が飛来する。しかし、放たれた矢はどれも、大きく狙いを外していた。

 弓を向けられたアシタカは、一旦荷車の陰に戻る。

「だ、旦那、大丈夫すか!?」

 驚嘆する男に、アシタカは言う。

「ああ。心配ない。...間違いない。彼らの矢は止まっている私を大きく外した。あの外し方は尋常ではない。向こうにこちらを殺める気がないか、あるいは弓の扱いに慣れていない輩かのどちらかだ。矢じりの有り様や、侍ではなく野伏せりだろうというエボシの見立てからしても、おそらく後者だろう。」

「奴ら弓に慣れてないってことすか? にしたって、外すことが分かっていたんで?」

「いや。」

 即答するアシタカに、男は唖然とする。そんな男に構うことなく、彼はエボシのいる前方を見やる。エボシと目を合わせたアシタカは、はっきりとした頷きを見せるのだった。


「ゴンザ、今放たれた矢はいくつだ。」

 アシタカの様子を前方から注視していたエボシが、ゴンザに確かめる。

「えっ。」

 突然の問いに戸惑いながら、ゴンザは今しがた目にした光景を思い浮かべる。

「雨でよく見えませんでしたが、たぶん四、五本だったかと...。」

「私にもそう見えた。しかもその全てが、佇むアシタカを大きく外している。どういうことか分かるか?」

「え、あ、いや...。」

 焦るゴンザ。対して、エボシは冷静沈着に告げる。

「向こうには少なくとも四、五人の射手がいる。そしてそ奴らは皆、弓の扱いが不得手ということだ。」

「は、はぁ...。しかし、ただの脅しでわざと外したということも...」

 ゴンザはいまいち腑に落ちていないようだった。そんなゴンザに、エボシは言う。

「あやつはそうは考えていない。先ほど矢じりを手に取っていた。何か思うところがあるのだろう。そもそも、待ち伏せでの奇襲であれば、一撃目で可能な限り相手の戦力を奪うのが定石だ。にも関わらず、奴らはそれをちりほどにも成しえなかった。まったくもって話しにならん。加えて、奴らが侍でない百姓の野伏せりであれば、それほど腕立つ射手がいるとも思えん。それをあやつが確かめたということだ。」

「では、こちらから打って出ると?」

「そうだ。時はあるとはいえ、こちらとしてはこの雨の下でただ濡れていくのを待つのは望ましいことではない。ましてや、奴らが戦が不得手となれば、こちらの体力があるうちに打って出た方が好ましい。案ずるな、動いていれば矢はそうそう当たらんぞ。運が悪くなければの話だがな。」

「分かりましたエボシ様! このゴンザに全てお任せ下さい! おい、そこの者、俺の大太刀を持てぇい!」

 ゴンザが騒がしく従者に命じる。息まくゴンザをよそに、エボシは後方のアシタカに向かって合図を送った。


 エボシの合図を受けて、アシタカは隊の最後方に呼びかける。

「ヤックルの荷を降ろしてくれないか! 頼む!」

 彼の一声に、最後尾でヤックルと共に待機していた牛飼いが頷く。男はすぐに腰から小刀を抜き、弓で狙われぬよう速やかに法下から飛び出ると、ヤックルの荷物を縛っている縄を手早く切り離した。どさっ、と泥飛沫を上げ、荷が地面へと落ちる。ヤックルは、己の為すべきことを理解しているようだった。その背から積荷が落ちると、鼻を鳴らし、待ってましたとばかりに猛烈な勢いをもって駆け出す。

 アシタカは右の親指と人差し指を口に咥えると、すぅっと胸を膨らませ、力強く指笛を鳴らす。風雨にもかき消されることなく、ピィーッと山中に木霊する指笛。大雨をものともせず、狭い山道を泥水を跳ね散らしながら疾駆するヤックル。馬借や牛飼い達は、ヤックルを避けようと必死に馬や牛を連れて路肩に身を寄せる。

 アシタカはすっと立ち上がり、相棒に自らの居場所を伝える。一直線に駆け寄ってくるヤックル。間合いを図り、アシタカは疾走するヤックルと同一方向に駆け出す。ほんの僅か、足並みを緩めたヤックルと並走する形となったその刹那に、彼はヤックルの背に飛び乗った。野伏せりから放たれた複数の矢が、彼の背後を空しく横切る。

 瞬時に騎乗の人となったアシタカは、すぐさまヤックルの頭を転じ、上方の林へと向けるのだった。


「あやつ、抜け駆けしおって!」

 たった一騎、敵陣へと乗り込むアシタカを横目に、いきり立つゴンザ。大太刀を携え飛んできた従者の手からそれを乱暴に取り上げる。かたや、野伏せりの応戦を目にしたエボシは、その笠の下で不敵に笑みを浮かべていた。

「やはりな。間違いない。」

 そう呟いた彼女は、ふいに荷車の陰から出でると、自ら堂々と敵前にその姿をさらし、声高らかに皆を煽る。

「射手は多くても五人! その全てが狙いは稚拙だ! 今はアシタカが射手の目を一手に引き受けている! 恐れるな! この隙に皆でかかれ!」

 矢継ぎ早に言い放つエボシ。

「ゴンザ、行け! 皆、散るのだ! 互いの距離を保ち、立ち止まるでないぞ!」

「は! 皆の者、遅れをとるなぁ!」

 蓑笠を投げ捨て、太刀を引き抜き、今や用無しとなった鞘をぱっと放り投げると、ぬかるむ足元など気にも留めずに、ゴンザは気炎を上げて斜面を駆けあがっていく。刀を手にした者も皆、ゴンザに続き一斉に駆け出した。


 一方、当てなく飛び交う矢を尻目に、縦横無尽に山肌を駆けあがるヤックルとアシタカ。その顔面を容赦なくうち叩く雨雫も、彼らの勢いには及ばず撥ね飛ばされていく。風の如く、ぐんぐんと野伏せりとの間合いを縮めていくヤックルの背で、アシタカはすっと目を凝らす。

 薄暗い木立に、人影が一つ、二つ...合わせて十程度。激しく揺れる視界においてなお、アシタカの瞳はその中でもひときわ威勢溢れる頭目らしき男を捉える。

「ヤックル!」

 アシタカの一声。それまで、狙いを定めさせまいと敏捷に山肌を駆け回っていたヤックルが、その合図を機に動きを変える。敵方へとまっすぐに頭を向け、駆ける足並みをさらに力強く、かつ速める。野伏せりとアシタカ、互いの瞳を見交わせるほどの残り少ない間合いを、ヤックルはまるで堰を切ったかのように一直線に縮め始めた。

「来たぞ! 射れ、射れ!」

 頭目らしき若い男が必死に叫ぶ声が、アシタカの耳にもはっきりと届く。すぐさま射手が矢をつがえる。が、時すでに遅し、であった。

 その健脚をぐっと踏み込んだかと思われたヤックルは、次の瞬間にはアシタカを背に乗せたままに宙駆け、怒鳴り散らす男の頭髪をかすめ越えていた。堪らず瞼を閉ざし、首をすくめた野伏せり一同。束の間の驚嘆を隔て、再び我を取り戻した彼らは、全員が同時にはっとして背後を振り返る。

 頭目と思われる男の目の前に、アシタカは自らの足で立っていた。男は目を見開いて驚くと、すぐさま後ずさりをして、手にする刀を構えてアシタカへ切先を向ける。アシタカは微塵も狼狽えることなく、真正面から男の瞳を見据え、そして口を開く。

「どうか話を聞いてくれ。私はあなた方と事を構えるつもりはない。」

 言葉通り、アシタカは蕨手刀を構えるどころか、腰に下げるその柄(つか)にさえ触れていなかった。

 頭目らしき男は何も返さず、ただアシタカを睨んでいる。その両の手に力強く握りしめられている刀は、収められそうにない。他方、アシタカから最も間合いの離れた射手の一人が、睨み合う両者を目にし、気取られぬよう、つがえた矢を向けようと試みる。慎重に、じりじりと弓を引きつつ、アシタカに狙いを定めつつあった弓はしかし、不意にその者の背後からぬっと顔を突き出したヤックルに一驚を喫したことで、放たれることもなく妨げられた。

 そうこうしているうちに、ばたばたと走り登ってきたゴンザが野伏せり達の後ろに姿を現す。

「いたなぁ! てめぇら、観念しやがれぇい!」

 息を荒げて太刀を振り上げるゴンザ。その姿を瞳の片隅に捉えたアシタカは、すかさずゴンザに叫ぶ。

「待て! 手を出すな!」

「...って、あぁ?」

 はたと動きを止め、大太刀を振りかざしたまま目を丸くしてアシタカを見るゴンザ。彼の言うことを聞いたというよりかは、その言葉に耳を疑って手が止まったという表現が正しそうだ。

「き、貴様、今なんと言った?」

「この者達に手を出すなと言っている!」

 そう返すアシタカは語気を強めていたが、眼(まなこ)に垣間見える落ち着きは失われていなかった。ゴンザが戸惑っているうちに、他の踏鞴場の男達もびしょ濡れの泥だらけになりながらもぞくぞくと彼に追いつき、野伏せりを取り囲んでいく。各々、刀を手にする彼らもまた、ゴンザの様子に事態を察したか、野伏せり達には手を出さず、アシタカとゴンザのやりとりを見守っている。

「なにぃ!? また訳の分からんことを...。貴様、それが刃を向けられている人間が言う言葉か!? こやつらは俺達を襲ったんだぞ! ...というか、そもそもなぜ貴様がこの俺に命令などしているのだ!」

 がみがみと吐き捨て、苛立つゴンザ。太刀はいつでも振り下ろせるよう頭上にかざしたままだ。

「すまないが、今は私の言うことを聞いてくれ。」

 アシタカは、血気盛んなゴンザをなだめる様に、今度は穏やかに声をかけた。普段は笑顔を振りまきながらも、いざ争い事となると顔を見せるアシタカの強い意志。今となってはゴンザも彼の気性を知っているとみえ、シシ神の一件以来、久方ぶりに顔を覗かせたアシタカの頑固な意思に気圧されたか、理解を示したか、いずれにしてもゴンザは一度派手に舌打ちをして、片方の手で思いっきり頭を搔きむしると、苛立ちを隠さずに言い放つのだった。

「仕方ねぇ。いいだろう。少しくらい時間をくれてやる。だが刀は収めんぞ! いいな!」

 アシタカは特に答えず、再び野伏せりの頭目らしき男に向き直る。

「あなた方は、踏鞴場の下流にあるという村の民なのでしょうか。」

 尋ねられたその男は、アシタカを睨みつけながらも口を開く。

「だったら、なんだっていうんだ。」

「私達は、あなた方に少しでも償いをすることができればと思っています。だから、まずは話を聞いて欲しいのです。どうか、刀を収めてくれませんか。」

「何言ってやがる。これだけの人数でとり囲んでおきながらよ。」

 男の言葉通り、今や野伏せり方よりも踏鞴場側の男達の方が数で勝っていた。

 アシタカは野伏せりを取り囲む男達に声を掛ける。

「皆、下がってくれ。私一人でこの方達と話がしたいんだ。」

「こやつ、また俺を差し置いて指示しおって...。」

 相も変わらず刀をかざしたままのゴンザが、ぶつぶつと不平を垂れた。その傍らにいた牛飼いのお頭も、状況を見かねて声を上げる。

「旦那、それはなりません。いくらなんでも無茶だ。一人になんかなったら、こいつら、いつ斬りかかってくるか分かったもんじゃありません。」

 周りを囲む男達もまた「そうです。」、「違えねぇ。」と頷いて見せる。しかし、アシタカの意思は揺るがなかった。

「ありがとう。だが、私達こそ先に、この方達に行動で示さなければならない。私達自身が生きていくためにもたらしてしまった災いを被ってもなお、私達の話に耳を傾けて頂けるように。」

 凛とした眼に宿るその決意に、踏鞴場側の男達は戸惑いを見せるが、そのうち互いに顔を見合わせ、小さく頷く者が出てきた。その中にあって、唯一ゴンザだけは納得がいかないようだ。

「だからなぁ! そういう話はエボシ様が......」

「分かりました、旦那。」

 唾をまき散らしながらまくし立てるゴンザを、お頭が遮った。えっ、と驚くゴンザをよそに、牛飼いのお頭は続ける。

「ただ、一つ条件をつけさせてくだせぇ...。俺も、話に加えてもらいます。さすがに旦那一人にはさせられません。それに、こいつらと話をすんなら、踏鞴場が今までにしてきたことを知ってる者が必要でしょう。でなけりゃ、俺らに関係ねぇことまで責めを負わされかねません。旦那は人が良すぎます。悪く思わねぇでくだせぇ。」

「分かった。」

 アシタカは今一度、警戒の眼差しを向ける野伏せり達に向き直る。

「今のところ、こちら側に怪我人は出ていません。今ならまだ互いの話に耳を傾けることができるはずです。あなた方さえよければ。」

 その言葉に、頭目と見られる男は苛立ちを隠さない。

「そっち側はな。俺達の方はとっくにあんたらのせいで死人が出てんだ。家や田畑を流されちまったやつだっている。だいたい、勝手に話を進めんじゃねぇ。そもそも今更話で解決しようなんぞ都合が良すぎるってんだよ。何様なんだ、てめぇは。」

「踏鞴場があなた方の村に大きな災厄をもたらし、数々の祟りを招いてしまったことは本当に申し訳がない。全ての元凶は踏鞴場がシシ神の森で鉄を採っていたことにあるというのを承知の上で、お願いしたいのです。...もしもここで、私達の側にも死人や怪我人が出てしまえば、互いが双方に憎しみを抱き、この先、遠い代まで収まりがつかなくなってしまうかもしれません。確かに、踏鞴場があなた方にもたらした災厄の全てを、私達がどうこうしたところで拭いきれるものではないでしょう...。ただ、それでも...それでも今ならまだ、私達があなた方へ出来るだけの償いをすれば、これ以上の増悪も殺戮も、ほんの少しでも、減らすことができるかもしれません、防ぐことができるかもしれません...。どうか、話をさせて頂けないでしょうか。そして、聞かせて頂けないでしょうか。」

 言って、アシタカは頭を下げた。

「旦那...。」

「旦那が頭下げることねぇんです!」

 踏鞴方の男達が驚き、次々にアシタカを止めようと声を上げる。ただ一人を除いて。

「貴様ぁ! 勝手なことをぬかしおって! 我らが償うだとぉ!? 何故そんなことせにゃならんのだ! 貴様ごときがエボシ様も抜きに何を勘違いしおって! 貴様から先に切り捨ててやってもいいんだぞ!」

 顔を真っ赤にして声を荒げるゴンザ。すかさず周りの者が押しとどめる。

「待ってくだせぇ、ゴンザ様。アシタカの旦那は、俺らに代わってあいつらと話をして下さってるんです。踏鞴場のしてきたことは、旦那とは何も関係ねぇってのに...。」

「そうだ。俺らのことをよく考えてるからああまでして止めようとして下さってるんだ。本当なら、俺らがやるべきだったことだってのに...。」

「えぇーい! やかましい! 俺は認めん、認めんぞ! お前ら、今すぐエボシ様を呼んで来い! 今すぐだ!」

「ならゴンザ様。俺らと一緒に呼びに行きましょう! エボシ様を! さぁさぁ!」

 踏鞴場の男衆が、力を合わせてゴンザをその場から引き離しにかかる。それぞれ両側からゴンザの太い腕を取り押さえ、正面からは数名がかりで胸を押し、背後からも裾、襟をぐっとつかんで引っ張り、皆で連れ出そうと力づくでゴンザを立ち退かせる。

「お、おい、お前ら! 何をする! 放せぇい!」

 流石の大男でも、何人もの男を相手に抗うことは叶わず、「お前ら! 許さんぞぉ!」と叫ぶ声が、雨の山中に空しく響き渡るのだった。


 いつの間やら風雨も緩まったか、しと、しと、と、木の葉から雨雫が滴り落ちる音色の他は静けさの勝る暗い林の中に、アシタカ、牛飼いのお頭、そしてヤックルという二人と一頭は居残った。野伏せり方も、踏鞴場側の男達の多くが離れていったことで数的優位に立ったからか、その表情から落ち着きを取り戻した様子が伺えた。

「どうか、お聞き下さい。」

 男衆の多く...とりわけゴンザが...去ったことで流れた束の間の沈黙を打ち破ったのは、他ならぬアシタカであった。無言を貫く野伏せり達にじっと睨まれながらも、アシタカは続ける。

「踏鞴場は今、変わろうとしています。...いえ、変わらなければなりません。皆はもう、鉄を採るつもりはありません。採ることもできません。踏鞴を止め、あなた方と同じように田畑を開き、一つの村として暮らしていこうと決めました。いい村にしていこう、と。本当にそれを実現できるかどうかは、今の私達にはまだ分かりません...。しかし、もしそうすることができれば、私達の生活が変われば、もうこれ以上、あなた方につらい想いをさせることなく、生きていけるかもしれません。もちろん、全てを償うことはできないかもしれませんが...。しかし、それでも皆は、あなた方に償いをできたら...共に生きるために少しでも力になれたらと、考えています。また一から、やり直せたら、と。」

 どうにか会話を試みようと真剣な眼差しで語り掛けるアシタカに、野伏せり方もついに口を開き、会話を始める。

「知ってるぜ。あんたらの大踏鞴は、デイダラボッチにぶっ壊されたんだろ。逃げてきた侍共から話は聞いた。あんな森で踏鞴なんか開くから罰(ばち)が当たったんだ。おめぇが言ってるのは、ただ単に踏鞴がぶっ壊れて鋼が造れなくなっちまったから、当面は田畑を開いて食っていくってだけなんじゃねぇのかい? 自分たちの行いを反省して生き方を変えようとしてるようには見えねぇし、聞こえねぇ。だいたい、いい村にしたいだと? どの口が言いやがる。あれだけ森も川も、俺達の村も滅茶苦茶にしておきながら今更何を...。」

 また別の男も、堪えきれないといった様子でアシタカに言い放つ。

「あそこは昔から、人間が住むような場所じゃねぇって言われていた。神々の巣くう森だから、人が踏み入れば神の怒りを買うってな...。ましてや山を削って砂鉄なんか掘ってやがったんだからなおさらだ。踏鞴師が初めてやってきた頃から、俺達の村はずっと忠告してきた。新しい奴らが現れる度に、何度も何度もな。それを聞き入れなかったのはお前らだってのに。いざこざの煽りを受けるのはいつだって周りにいる人間だ。おかげで、俺らの田んぼや畑は流されちまった。それどころじゃねぇ。濁流に呑まれて死んじまった奴だっているんだ...。侍共は、化け物が怖くてもうお前らとは関わらねぇとさ。そのくせ年貢は納めろ、役務には出てこいと言いやがる。どいつもこいつも、自分らの都合ばかりぬかしやがって。いい加減にしてくれ...。」

「流された田んぼや畑だって、お上(かみ)は何もしちゃくれねぇ。戦ばかりで金がねぇとさ。自分達の手で直そうともしたさ。だがそれも大雨が降るたびに土砂に流されちまう。残された僅かな田畑と内仕事だけじゃやっていけねぇ。町に下って日雇いも請けたが、一人食ってくので一杯一杯だ。年貢分を残しちまえば妻子が食ってく銭も米もありやしねぇ...。もともとこの土地に住んでた俺達がこんな目にあってるってのに、鉄を採って儲かってるのは外から来たあんたらと町の商人連中だけ。ふざけんな。」

 堰を切ったように溢れる、呆れと苛立ちの数々。その手に握る刀や弓を目の前の仇に向けることさえも忘れ、各々が胸の内に溜めていた思いの丈を吐き出し、ぶつけることに精一杯のようであった。

 静かに耳を傾けていたアシタカに、頭目らしき男が言う。

「これまでのいきさつを考えりゃ、あんたらの言うことは信用ならねぇ。第一、今頃になって踏鞴を止めたところで、俺達が失ったものは戻ってこねぇんだ...。仮に償いをしてぇっていうあんたの言葉に嘘偽り何一つなかったとしても、踏鞴を失ったあんた達にどこまでのことができるかなんて分かったもんじゃねぇしな。結局、今を変えるのに誰も当てにならねぇんじゃあ俺らがどうにかするしかねぇだろ。でなきゃ、俺らの村は終わりだ。このままじゃ、いずれ身を売るか、餓え死ぬかのどちらかだ...。だから、今を、これからを生きていくために、おめぇらの食い物や銭になりそうな代物を奪う...いや、奪うんじゃねぇ。おめぇらのせいで失ったものを、少しでも取り返すんだ。この手で。せめて、今ここでな。邪魔をするってなら、こっちだって命がけだ。俺達にはもう、後がねぇんだからよ。」

 そう口にする頭目の拳が、刀の柄を強く、ぐっと握りしめる。そこに滲み浮く手汗を黒目に捉えたアシタカは、頭目の男を見据えてそっと口を開く。

「私達にも、あそこにある荷、そして私達の帰りを待つ仲間や家族がいます。あの荷を持っていかれてしまっては、その皆も私達も、そう遠くないうちに飢え死にしてしまいます。」

「当然の報いじゃねぇか。お前らは俺達と同じ目に遭うべきなんだからよ。」

「しかし、あなた方は今こうしてここに生きています。私達も。...確かに、踏鞴場のせいで命を落とした方もいることに違いありません。私達は本当に取り返しのつかないことをしてしまった。でも、それが私達皆の命を奪う理由になって良いはずがありません。私達も生きたいのです。ここにいる誰しもが、今この場で死ぬわけにはいかないのです。もし、それでもあの荷を力ずくで奪うとおっしゃるのなら、我々は戦わざるを得ません。私達自身を守るために。」

「守るために? それはこっちの台詞だ。俺達こそ村の皆や家族を守らなけりゃならねぇんだ。今すぐにでも、飢えからな。」

「あなた方も私達も、生きたいという想いは共に同じはず。そうだというのに、互いに奪い、殺し争っていては、双方生きていくことなどとてもできはしない...。争いで事を決しようとすれば、お互いにただでは済まないということはお分かりのはずです。だからこそ、私達の償いを受け入れて頂けないでしょうか。どうか、その償いをもって争いを収めて頂けないでしょうか...。」

「どうやって償うってんだ。俺達の代わりに年貢や役務を担ってくれるってのか。戦に出てくれんのか。流された田畑や屋敷を全部元に戻してくれんのか。死んだ奴を、生き返らせてくれるってのか...。」

「...亡くなってしまった方を生き返らせることは、私にはできません...。それでも、他の償いであれば、できることは力を尽くしたいと思っています。食べる物や生きるために必要な物をお分けしたり、田畑や住屋を直すための人手や多少のおあしを担うことはできます。」

「つまり、あそこにいる馬の背や牛車には、そういうことができるだけの食い物や銭が載ってるってことなんだな?」

 やっぱりだ、と言わんばかりの野伏せり一同。しかし、アシタカは落ち着き払い、対峙する者達一人一人の顔を順々に見据え、同じ言葉を繰り返す。

「はい。だからこそ、双方が共に生きるためにも、人を傷つけ、殺めるような争いまでしてどちらか一方が独り占めする必要などないのです。確かに、遠い先のことは分かりません。しかし、少なくとも当面の間に限って言えば、あなた方と私達の双方が食べていけるだけのものが、あそこにはあります。それから先は、互いが共に知恵を絞り、力を合わせていけば、どうにか道は開けるはず。争えば、どちらか一方...あるいは両者が共に、そこで終わってしまいます。こうして向かい合っている今となっては、争うのは私達の償いを受け入れた後でも変わりはないはずです。どうか一度、その手にした刀を置いて頂けないでしょうか...。」

 頭目と見られる男は、その唇をぎゅっと噛み締めている。いざ斬り合いという瀬戸際にあって、ぴんと張り詰めたこの空間において面するアシタカをじっと睨みつけながらも、目の前に物怖じせずに立ち構えるこの男が口にする言葉の一言一句を信用してもよいものかどうか、考えあぐねているようであった。

 アシタカはそれ以上何も言わず、ただ黙って答えを待った。身じろぎは言うに及ばず、呼吸の一つさえも堪えているようであった。

 当人達からすれば永久にも等しく思えた長い沈黙の後、その頭目の男は、まるで独り言を呟くかの如く、暫く閉ざしていた唇をそっと開き始める。

「...あぁ、そうさ。そうだろうよ。おめぇの言いてぇことは分かる。分かるさ。だけどよ、そう簡単じゃねぇんだよ...。そうだろ?」

 そう言い、男は振り構えていた刀を力なく下ろす。ふいに下げられた刀に、アシタカとお頭の両名が安堵する間もなく、次には野伏せりの男は濡れる地べたにも関わらず、すとん、と腰を落とし、そのまま座り込んでしまった。刀の柄は、力無くも右の手に握られたままであったが、その腕はただ地べたへと垂らされ、刃は殺気なく地面に放り置かれている。

 男は続ける。

「分かる。分かるんだよ。そりゃあ本当なら、俺らだって痛い思いなんかしたかねぇし、いくら飢えて生きるのが苦しいったって、命なんか賭けたかねぇ。...それに、死んだ奴を理由に仇討ちだなんだの言って人斬りなんかもしたかねぇさ。それじゃあまるで、この手で人を殺めるってのに、人殺しをその死んだ奴のせいにしてるようなもんじゃねぇか...。でもよ、なら他にどうやって死んじまった奴に報いればいいんだ。俺らが生きるために金や食い物だけもらって、あっさりおめぇらを許しちまったら、あいつや、残されたあいつの妻子に顔向けできねぇんだよ。俺らは。」

 緊張の糸がふつりと切れてしまったかのように打って変わった男の口ぶりに、アシタカとお頭は顔を見合わせる。そんな二人には構うことなく、野伏せりの男は俯き、さらに言葉を繋げる。

「あんたの理屈は立派だろうさ。だけどな、俺達や死んだ奴、残された家の者達の気持ちはどうなるんだよ。今までずっと堪えてきた苦労を、あんたらの都合でそうあっさりと水に流されるわけにはいかねぇんだ。正しいか間違ってるかなんて分かりゃしねぇけどな、それが俺らの気持ちなんだよ。理屈じゃねぇんだ。」

 弱々しく吐き出された台詞に、アシタカは瞳を落とす他なかった。

 束の間、両者の間に沈黙が流れる。

「...分かりました。」

 再びその曇りなき眼を据え直し、アシタカが沈黙を破った。アシタカは腰を下ろし、片膝を付くと、目前に座り込む男と目線を合わせ、語りかける。

「それなら、私達にもその気持ちを、その苦労を、分けて下さい。あなた方が背負ってきた、亡くなった方やその家族への想いや、生きていくことの苦しみを、共に背負わせて下さい。今の私達に。それを受け止め、背負って生きていくことが、かつて踏鞴場という場所に居場所を求めた私達に、できることなのだとしたら。あなた方の苦しみを、本当の意味で理解することこそが、私達にできる真の償いなのだとしたら。どうか私達に、共に背負わせて下さい。その胸に、堪えてきた想いを。」

 男は俯けていた面を上げると、眼前で片膝をつき、自らと視線を合わせるアシタカを目にする。男は一つ、深く吐息をつくと、疲れたように言う。

「...あんたは、悪い奴じゃねぇ。」

 そう口にした男の口調は、落ち着いたものだった。

「思うに、他の奴らは信用ならねぇが、あんたの話だったら、聞いてやってもいいかもしれねぇ...。俺達の話をこれだけまともに聴いてくれたのは、今までであんた一人だけだ。他の蹈鞴師連中も、ここらの侍共も、誰も俺達の話なんか聞いてくれやしなかった...。なぁ、おめぇらもそうは思わねぇか?」

 頭目と見られるその男は、座ったまま面を振り向き、後ろに控える仲間に声をかける。立ち尽くし、静かに二人の会話を見守っていたその者達は、男の言葉に黙って頷く。それを目にした頭目の男は彼らに頷き返すと、再びアシタカに向き直る。

「俺達だって、切り合って、殺し合うのが目的なんじゃねぇ。生きるのが目的なんだ。だからよ、あんたがそこまで言うのなら、聞かせてくれ。あんた達に、何が出来るのか。」

 アシタカは「はい。」と力強く頷き、立ち上がる。そして晴れ晴れとした面持ちで明るく言うのだった。

「どうか少しの間、ここでお待ち下さい。今すぐ、私達の頭領に、私が話をつけてきます。」

 それを聞いた野伏せり方の一人が、その場を立ち去ろうとしたアシタカを見て思わず声を上げる。

「まさかとは思うが、そのまま逃げるんじゃねぇだろうな。」

「俺が残る。それなら文句はねぇだろ。」

 そう言って、疑いの声にすかさず言葉を返したのは、アシタカ当人ではなく、彼の傍らに控えていた牛飼いのお頭であった。

「旦那、早く行ってくだせぇ。こいつらの気が変わっちまう前に。」

「ありがとう。お頭。」

 お頭が買って出たのは、紛れもなく人質としての留守番役である。彼が見せた男気に、アシタカは礼を述べるや否や、すぐさまエボシのもとへと駆け降り始めるのだった。


 一方、泥だらけの顔で何やら喚きながらも、何人もの男衆の手により、ずるずると斜面を引きずり降ろされてきたゴンザ。お供の女一人と、比較的高齢であり反撃に加わらなかった踏鞴場の男達数名、そして雇われの馬借衆を再びまとめあげ、山腹を貫く路上から距離を空けて状況を見守っていたエボシは、男衆が下ってきたところで開口一番、「状況は。」と尋ねる。

「上で、アシタカの旦那が奴らと話をしています。」

「やはり、野伏せりでした。下流の村の者のようです。合わせて十名ほど。」

 答える男達の合間を突き、顔も着物も泥まみれのゴンザがすかさずエボシの前に進み出て頭を下げる。

「このゴンザ、エボシ様の期待に沿えず面目次第もございませぬ...! あやつの勝手な真似を止めようと致しましたが......」

「そんなことはよい。皆無事であるのならば構わん。あとはあ奴のお手並み拝見といこうではないか。」

 遮るエボシに、ゴンザは口から出かけた残りの言葉を呑み込まざるを得ない。

「えっ...あ。は、はぁ...。」

 拍子抜けするゴンザを横目に、エボシは男達に尋ねる。

「上にはアシタカの他に何人残っている?」

「一人です。お頭が。あ、あとヤックルも。旦那が、そう望んだもんで...。」

 聞いて、エボシは微かに眉をひそめる。

「そうか。やはり青いな。奴の正直さは仇となりかねん。万が一に備え、こちらもしたたかにやらねばならん。二手に分かれた上で、野伏せり共に気取られぬよう、挟み込む形で物陰に潜んでいろ。二人に何かあったら迷わず斬り込め。しかし、それまでは決して手を出すでない。決してな。それがあやつのやり方なのだろう。よいな。」

「へい。」

 威勢よく返事をした男衆は、蚊帳の外に置かれて呆然とするゴンザをそのままに踵を返すと、濡れた山肌に悪戦苦闘しながらも、再び急ぎ足に登り始めた。

 林へと向かって登っていく男達の背を見届けつつ、エボシはその場に残っているお供の女やゴンザ、年配の者達に向けて言って聞かせる。

「交渉というものは、正直さだけではいかん。正直であることと、したたかさの両方を持って臨まねばならんのだ。でなければ味方を危険に晒すこととなるやもしれん。皆、よく覚えておけ。」

 その場に居合わせた皆が深く頷くのだった。


 お頭とヤックルに場を託し、エボシ達がいる道へ向けて伐採跡地を軽やかに駆け降っていたアシタカは、途中、山肌を急ぎ登り戻ってくる男達と行き合う。

「旦那! 何かあったんで?」

「いや、何でもない! 私が戻るまで、絶対にあの者達には手を出さないでくれ!」

 脚は止めず、すれ違いざまに彼らに声をかけたアシタカ。傾斜を往復してすっかり息が上がっている男達の中の一人が、すれ違うアシタカを振り返りながら「そのつもりですぜ! 奴らが手出ししなければの話ですがね!」と答える。

 背中で聞いたアシタカは、時折足を滑らせながらも、さらに脚の運びを速め、一直線にエボシの待つ山道へと走っていった。


「やっと降りてきたか。一体何を話しているか、説明してもらわねばな。」

 濡れた黑髪をなびかせ、懸命に山肌を駆け降りてきたアシタカのその脚が止まるのも待たずに、まずは二言、エボシが興味深そうに投げかける。最後に一歩、すっと軽やかに路上へと着地したアシタカは、すぐに姿勢を正し、何の前置きも述べずに口を開く。

「エボシ、あの方達の流されてしまった田畑や住屋を元に戻すのに、これではあとどのくらい足りない?」

 言いながら、彼は腰に吊るした巾着を取り出すと、それをエボシに差し出す。何かしらの釈明などは一切なく、突然そう尋ねられたエボシは束の間、呆気にとられながらも、すぐさまその言葉の意味するところ、そしてアシタカが野伏せりと何を話していたのかを汲み取ったようであった。

 巾着を受け取ると、真剣な眼差しで中身を一目覗き、吟味した上でエボシは言う。

「...これだけあれば、それなりの田畑を開くことなど容易(たやす)い。...ただし、住屋を建てるとなると、どれ程のものかにもよるが、ちと足らぬな。」

 沈着に返答するエボシに、アシタカは詰め寄る。

「石火矢が良い値で売れたと言っていた。」

 エボシは、まさかといった面持ちで一瞬ぽかんとする。が、至って真面目なアシタカの眼差しを目にし、この男がが本気であることを察した彼女は、ハッハッハッと高笑いを上げると、次にはやれやれといった表情を浮かべて言うのだった。

「いいだろう! まともな棲家が建つ程度にくれてやろうではないか! 皆を、そして他ならぬ私をも救ったそなたが言うのならば仕方あるまい。...まったく、この銭が全て手元に残れば、この先だいぶ楽になっただろうに。」

 首を振り、呆れた様子ながらも、エボシはアシタカの要求を承諾した。つまりは、貴重な品として極めて高額で売れた新式石火矢の売金を一部、下流の村に住む人々が被った災いに対する謝罪として渡すということであった。

 アシタカは一度頷くと、さらに重ねて求める。

「それと、あの方々の村の再興のために、銭だけではなく人手も出したい。共に汗を流すことは、互いを理解し合う上で大事な役割を果たすはずだ。この先、この地で共に生きていくのなら、私達はそうしなければならない。銭だけを出して済ませるのは容易かもしれないが...。私を含め、何人かで交代で彼らの村に泊まりつつ、彼らの手助けをしたい。構わないだろうか。」

 その言葉に、エボシは瞼を閉じてもう一度吐息をつかざるを得なかった。明らかに頭を悩ませている。再び目を見開き、彼女は言う。

「そなた、我らの置かれている状況を理解している上で、そのようなことを口にしているのであろうな。」

 今一度、頷くアシタカ。

「今が苦しい時であることは重々承知している。だが、あの方達はこれまでもずっと、苦しい境遇に立たされてきた。それがこれまでの蹈鞴場の暮らしによるものであったのなら、私達はそれを共に背負わなければ。」

「我々皆が共倒れとなった時、そなたはその責めを負えるのか?」

「...分からぬ。だがそれでも、今彼らと共に歩まねば、必ず遺恨は残る。それは、鉄を失った蹈鞴場の皆にとって、良い出来事をもたらすものではないのは確かだ。」

 エボシは、しばらくの間ただじっとアシタカを見据えて考え込んでいた。少なくとも、周りの者にはそのように見受けられた。確かに、彼女の黒目はアシタカの両の目を映してはいたものの、実のところ、それが彼女の胸中にまで届いているのかどうか、誰にも計り知れないところであった。

 その心中に何を思ってか、あるいは思い返してか、彼女はアシタカや周りを囲む者達の耳に入るか入らないかという小声で、独りそっと呟くのだった。

「...遺恨。厄介なものだな。振り払うのには。」

 何者にも向けらたれてはいない言葉をこぼし、一旦はひそめた眉をすっと緩めたエボシ。省みるものがあるようだった。

「なるほど。別の道を、歩まねばなるまい。私...いや、我々は。」

 彼女の面持ちの移り変わりを、アシタカは黙して見守っていた。

 ふと我にかえるエボシ。彼女を見つめるアシタカの視線に気が付くと、それまでの心中など微塵も垣間見せることなく振り払い、いつもの彼女らしく至極明瞭に言い放つ。

「いいだろう。そなたの思うようにやってみるがよい。」

 アシタカは頷く。

「すまない。だが償いはしなければ。...それに、踏鞴場は変わったのだと、あの方達に示すことができるかもしれない。それは、私達自身のためにも......」

 未だ半ばにある彼の言葉を、エボシはすかさず左の手で制止する。そして、幾度も頷きながら口を開いた。

「言いたいことはよく分かった。もう十分だ。...だが一つ言っておく。石火矢を売り払って得た銭や人工(にんく)出しの件はともかく、先日言ったようにそなたの金(きん)を今この時に使うのはまずい。方々(ほうぼう)に知られぬよう銭か何かに換えられればよいやもしれぬが、我々の内の者がそれを手に町へ赴き、両替したところで、踏鞴場...いや、あの森を勘繰られるのは間違いないであろう。砂鉄のみならず、金までもが出たとな。」

 気に掛けるエボシの忠告にも関わらず、意外にもアシタカが返答に窮することはなかった。

「心配はない。当てがある。」

 思ってもいなかったとばかりに、微かな驚きの表情を浮かべるエボシ。

「ほう...。町で友人でもできたか。」

 アシタカは答えなかった。

「...まぁよい。そなたにも考えがあるのならば余計なことは言うまい。これで話は済んだか。それともまだ他に何かあるとでも?」

「いや、済んだ。エボシ、私はすぐに戻ってあの者達に話をしてくる。我々に出来る事を伝え、事の子細を詰めてくるつもりだ。少し待っていて欲しい。」

「少しならば構わんがな。急がねば、日暮れまでに野営地には辿り着けんぞ。」

「分かっている。」

 素っ気なく返事をするやいなや、踵を返して再び山肌を駆け登り始めるアシタカ。ゴンザやその周りの男衆、そして居合わせる馬借衆もまた、そんな彼の背中を所在なさ気に見送る他ないのだった。


「待たせました。今、こちらの頭領と話を済ませてきたところです。」

 アシタカが息を切らしつつ、急ぎに急いで野伏せり達のもとへと戻って来た時、牛飼いのお頭と彼に対面する野伏せり一同は各々、その口を真一文字に結び、互いをじっと睨み合っていた。アシタカが留守の間、両人の間で一言も交わされなかったであろうことは、誰の目にも明らかであった。とはいえ、殺気みなぎるこの一触即発の関係にある男達をほったらかし、腰掛ける彼らの傍らで安穏と地面の草を貪り頬張っているヤックルの様子から、アシタカは彼が戻って来た今この時まで、両者の間で何事も起きなかったのだということもまた理解したようで、少しばかり安心した口調で先の言葉を発したのだった。

「頭領? ...あぁ、あの女か。で? 話を聞かせてもらおうじゃねぇか。」

 野伏せりの頭目は、駆け戻ってきたアシタカの姿が目に入ったところで、ぎゅっと結んでいた唇をようやく弛ませ、そう言い放った。相変わらず刀は脇に置かれているものの、その仏頂面は変わらず、腕組みもしたまま。解くつもりもないように見える。しかし、そんな佇まいでありながらも、アシタカとは口をきくつもりがあるようだ。

 アシタカは、毅然として腕を組み、かつ濡れた地べたにも関わらず大胆に胡座をかいてる牛飼いのお頭に、「待たせてしまった。ありがとう。」と一声をかける。当のお頭は、野伏せり方から目を離すことなく、「なんてことありません。旦那。」と答えた。

 乱れた息を整えつつ、アシタカはゆっくりとお頭の傍らに歩み寄る。そして片膝を着いてしゃがみ込むと、お頭と隣合わせで野伏せりの頭目と向き合い、視線を合わせる。アシタカは慎重に言葉を選びつつ、努めて穏やかに話し始める。

「まず、洪水により流されてしまった田畑や住屋をもとに戻すため、我々の手元に残っている銭の中から必要な分をお渡しします。」

「銭で弁償するのは当然だが、それだけ渡して良しとするようじゃ困る。分かってるだろうが、そんな簡単な話じゃねぇだろうよ。」

「えぇ。ですので、田畑や住屋が直せるまで、我々の中から毎日、何人か人手も出します。数名の者で、数日ごとに交代で務めようと考えています。」

 アシタカの提案に、野伏せりの男は首を傾げる。

「あんたの言いたい事は分かる。だが、田んぼも畑も作り直している最中に洪水でも来れば、あっという間に流されちまう。今までがそうだったんだ。例え運よく出来上がったところで、シシ神の森があんな有り様じゃ、いずれでかい嵐が来て、増水して、また同じことさ。その時には、ちゃんと作り直してくれるんだろうな。」

「そうならないよう、治水に長けた者を頭領として一人迎え入れましょう。手間は掛かりますが、川を治めさえすれば、そう容易く同じことを繰り返すこともないのでは。これまではそういった者を雇う余裕はなかったことと思います。私達やあなた方自身の手だけでやるよりも、その手の者の力を借りた方が、きっと良い結果を得られるはずです。町に下れば、そのような者も見つかるでしょう。」

 隣で話を聞いていたお頭も、ここで一つ提案をする。

「なら、雇い入れた頭領の下でおめぇらが土方(どかた)として日役をすりゃあ、おめぇらの手元にも幾らか銭が残るんじゃねぇか。だいたい、こっちだって銭が有り余ってる訳じゃねぇんだ。無駄に土方の連中を食わせていくよりかは、そっちの方が銭を有効に使えるってもんだ。」

 野伏せりの男は小難しい顔で考え込んでいる。

「まぁそうかもしれねぇが、まだしばらくは田んぼも畑も忙しい時期だからな...。」

 頭目の男が今一つ答えあぐねていると、彼の後ろにひかえていた仲間の一人が会話に加わってくる。

「いくらか銭が手元に戻ってくれば、それで食い物を買うのはもちろん、年貢にも使えるし、そのまままた治水の頭領を雇う代金に回すこともできる...。どうせ今は田んぼも畑も少ししか残っちゃいねぇんだから、土方として汗を流す暇も作れるんじゃねぇか? そう考えりゃ、そんなに悪い話じゃねぇかもな。」

 何人かはその男に同意したのか、「そうだな。」と頷いて見せる。が、また別の者が疑問を呈する。

「そう上手くいくかねぇ。雇える程度で腕の良い頭領が見つかって、治水工も上手くいって、金が戻ってくるなんてよ。どうだかなぁ。」

 疑う声に、アシタカは理解を示した上で言う。

「正直なお話、我々もやってみなければ分かりません。しかし、私達としては何もしない訳にもいきませんし、あなた方もそれは同じはずです。それに、今ある銭は少しでも有効に使っていかなければなりません。私はこの国の事情をよくは知りませんが、多くの人を集め、飯を食べさせていくのは大変なことであるのは間違いないでしょう。お頭の言った策は良いものと思います。」

 対面する頭目の男は、「そりゃそうだ。良い策かどうかは分からねぇが。」と口を挟む。

 アシタカは少し間を空けて、話を進める。

「ただ、住屋のことについては、町で職人方を雇い入れ、任せる他ないでしょう。長く住むことができるような建屋はなかなか我々の手に負えるものではありません。もちろん、その銭についてもこちらができるだけお出しします。」

「そうでなけりゃ意味がねぇ。ま、俺らみてぇな農民が住むような小屋なんて、あんたらの蹈鞴場と比べりゃあ大したもんじゃねぇ粗末なもんだが、そうは言っても材木揃えるにも大工を雇うにも金が要るんだからな。」

 野伏せりの頭目が言うことは、もっともなことであった。力仕事であれば、体力さえあれば彼らの村の者やアシタカ達が汗水流して補うことができるが、大工仕事については知識も技も材料も、ましてや道具からしてそれなりのものが必要であった。土方のように、頭領一人の知識があれば、多少は精度や早さに差こそあれども、あとは指示に従って力仕事に精を出せばなんとか完成までもっていけるというものではない。それだけに、何人かの職人を雇い、飯を食わせていかなければならないのは必定であった。

 ここにきて、アシタカは頭目に尋ねる。

「あなた方の村で流された家というのは、幾つあるのでしょうか。」

「二軒だ。立派なもんじゃねぇが、それぞれ子持ちが住める程度の小屋だった。」

「分かりました。胸に留めておきます。」

「旦那、大工衆なら、蹈鞴場を建てた際に世話になった奴らが町にいるはずです。そいつらに頼めばいい。」

 二人のやり取りを横で聞いていたお頭が、アシタカに言った。

 蹈鞴場建築の際、エボシは自らの力で賊から持ち出した大量の資金に加え、足りない分を神殺しの約束のもと師匠連から引き出した。その大半は蹈鞴場建築に要したものであり、大工を始め、伐採や製材、資材運搬に携わる者達への支払いだった。もののけの巣食う神の森での危険な仕事であったため、エボシも働き手に大盤振る舞いしただけあり、近隣の蹈鞴場建築に携わった職人達は皆、潤ったという。そんなこともあり、蹈鞴場建築後もしばらくは、エボシの依頼とあらばどんな小さな仕事でも、首を横に振る職人は稀であった。中には、完成後の増築や修繕を見据えて自らエボシに売り込み、蹈鞴場に居着いた大工や杣人さえいた。そういった者達も、大猪との戦やデイダラボッチの一件で皆、命を落としてしまってはいたが。そのことからお頭は、町で蹈鞴場とデイダラボッチの良からぬ噂が流れているこの状況にあっても、当時の職人達なら話くらいは聞いてくれるだろうと踏んでいるようだった。

「それなら、まずはその者達を当たってみるとしよう。」

「おい、あんたら勝手に話を進めるんじゃねぇよ。」

 そう口にする野伏せりの男も、何かと口を挟み、首を捻りながらも、いつの間にやらアシタカの話に耳を傾けていた。

 その後、アシタカは野伏せり方の顔色だけでなく、アシタカ以上に蹈鞴場方の内情を知っているお頭の顔色も横目に確かめながら、着実に話を進めていった。田畑や住屋についての話のあとには、野伏せり方からもいくつか注文が出された。頻発する増水に対しては、根本的な対策として、今後は生き残った蹈鞴場の民がシシ神の残した小さな緑を守り、育てていくことで...かつてのそれと同じとはいかないものの...森を取り戻し、裸山を減らすことで土石流の起きにくい山に戻すこと、これまでの洪水により家族を失った者には、可能な範囲でその者が望む償いをすること、喫緊の弁済として、馬一頭分の食糧をその場で引き渡すこと、そして何より、これから後、その村の民の話を蹈鞴場に生きた者達が真摯に聴き、かつての大蹈鞴によって引き起こされた惨状を理解し受け止め、その教訓を忘れることのないよう、後の世代に語り継ぐこと。

 話が進むに連れ、蹈鞴場の民への不満や非難、要望など、野伏せり方の男達の口数も増えていき、彼らが本当に望んでいることは何なのか、次第にアシタカとお頭の二人に見えてきたこともあり、両者の話し合いは長引いた。

「旦那ぁ! アシタカの旦那ぁ!」

 そうこうしているうちに、ふいに大声でアシタカの名を呼ぶ男の声が響いてきた。甲六だ。何時までも終わらぬ対話に、ついに痺れを切らしたエボシからの使いと見えた。

 甲六はアシタカに呼び掛けながら、話し合いの場に駆け寄ってきた。

「旦那ぁ、エボシ様が日没を気にしてるみてぇで、俺に旦那呼んでこいって...。」

 言って早々、ふぅと一息つき、膝に手をつく甲六。刀も何も持たず一人でやってきた彼に、今や野伏せり達も警戒している様子はなかった。

「あぁ、すまない。そうだったな。ありがとう、甲六。」

 アシタカは、疲労でなかなか膝から手を離せない甲六に一声、労いの言葉をかけると、野伏せり達へと視線を戻す。そして、その場の誰もが思いもしなかった台詞を口にするのだった。

「これより子細は、あなた方の村でお話ししましょう。」

 野伏せり一同は言わずもがな、お頭と甲六、ひいてはそれまで無心に草を貪っていたはずのヤックルまでもが、ぎょっとしてアシタカを振り向いた。

「だ、旦那、どういうことですか!」

 お頭を皮切りに、甲六、野伏せり方の者達も口々に喋りだす。

「旦那、また何言ってるんすか...。」

「あんたに俺らの村に来いとは一言も言っちゃいねぇが...。」

「どういうつもりだ。あんたは。」

 耳を疑い、戸惑う皆に向け、アシタカは微笑みながらも冷静に、こう言うのだった。

「まだ子細は詰めなければなりませんし、あなた方の村の惨状をこの目で見る事は、後の話を進めるのにも大切なことです。それに、口約束だけではあなた方も心許ないことでしょう。私があなた方と共に行くことでその代わりとなれれば。」

 居合わせる者の多くがその言葉の意味を理解しかね、顔を見合わせる。ただ一人、野伏せりの頭目を除いて。

「なるほど。人質ってとこか。」

 意を察し、呟く頭目の男。アシタカは事も無げに答える。

「そのようなものです。一通りの算段がつくまでの短い間ではありますが。」

「そりゃまぁ、人質とれば間違いねぇんだろうが...。またずいぶん急な話じゃねぇか。」

 頭目の男が話していると、横からお頭が割り込んでくる。

「そうです旦那。戻ってこんなこと言っちまったら、みんな腰抜かしちまいますよ。それに、人質なら別に旦那でなけりゃならないわけじゃねぇ。もし本当に誰か行かなけりゃならねぇってんなら、俺が行きます。」

 アシタカに聞き入れる様子はない。

「ありがとう、お頭。だが、私が行く。」

「それはなりません。」

 たまらず、甲六も口を挟む。

「お頭の言う通りっすよ、旦那ぁ。だいたい、もし旦那を人質として置いてきたっておトキのやつに知れたら、俺、あいつに殺されちまいますよぉ!」

 まるでこの世の終わりかのように頭を抱え、情けない声を山中に響かせる甲六。憂いの焦点のずれている甲六に、すかさずお頭がげんこつを喰らわせる。

「お前はすっこんでろ!」

「あたっ!」

 頭を押さえ、痛みに身を悶える甲六には目もくれず、お頭はアシタカに向き直り、どうにか説得を試みようと詰め寄る。

「どうか考え直して下せぇ。」

「気遣いはありがたいが、私の思いは変わらない。私が行くよ。」

「旦那、どうしてそこまでするんです。これは過去の踏鞴場の問題で、俺達の問題です。旦那には直接関係のねぇ話だ。あなたがそこまでする理由はねぇんです。いくらなんでも、お人良しが過ぎます。」

 食い下がるお頭に、アシタカは穏やかに語りかける。

「お頭、それは違う。私は、そなた達と共に生きると決めた。踏鞴場の皆と共に、この地で生きると。それなのに、過去のことは知らぬなどと言うことは私にはできない。共に生きるのならば、そなた達の問題は私の問題なんだ。過去も、今も、そして、これから先も、全て共に背負うと、私は決めたのだから。」

「旦那...。」

 アシタカの口から語られた決意と覚悟に、お頭は言葉を失っていた。感心か敬いか、あるいはあり余る想いへの戸惑いか、しばらくの間、お頭は返す言葉を見つけられず、ただただアシタカを見つめて立ち尽くすばかりであった。

「...分かりました。」

 やっと一言、そう発したお頭。譲ったかに見えた彼はしかし、まだ言葉を続けるのだった。

「だが旦那一人に行かせやしません。俺も行きます。」

 この発言に驚いたのはアシタカだけではない。むしろ彼が口を開くよりもずっと早く、すっとんきょうな一声を上げる男がお頭の隣にいた。

「えぇっ!? な、何言ってんすかぁ、お頭までぇ!」

 甲六はつい先程までの痛みも忘れたのか、喫驚し、アシタカとお頭の二人を交互に見つめてあたふたとする。

「じょ、冗談っすよね...。アシタカの旦那一人ならまだしも、お頭まで置いてきたっておトキに知れ......」

 お頭の二発目が飛ぶ。

「あたぁっ!!」

 再度、身悶える甲六。相変わらずそんな甲六には脇目も振らず、お頭はアシタカに向けて言う。

「ついていく分には構わないでしょう、旦那。」

 身を乗り出し、真剣な眼差しを向けるお頭を前に、その心意気を真摯に受け止めたのか、アシタカは真っ直ぐな瞳で彼と視線を交わすと、ただ黙って頷くのだった。

 同意を取り付けたところで、お頭は今度は野伏せり達を振り見て、声高に言い放つ。

「決まりだ。おめぇらも話は聞いてただろ。俺と旦那の二人が人質になってやる。それと馬一頭分の食い物も今この場で渡すって言ってんだ。今日のところはこれで引いてくれ。先のことはまたおめぇらの村に行ってからだ。文句ねぇな。」

「文句ねぇってことはねぇが...いいだろう。今回のところはそのあんちゃんに免じて手を引いてやる。」

 そのあんちゃん...とはアシタカのことである。頭目の男はさらに続ける。

「それと言っとくが、人質よこせなんてこたぁこっちは頼んじゃいねぇし、一人が二人になろうと別に構いやしねぇ。だがな、俺らの村にいる間は、てめぇらの食い物も寝床も、てめぇらでなんとかしろよ。言い出したのはあんたらなんだ。面倒かけさせんじゃねぇ。」

「はい。承知しています。」

「そうと決まれば話は早ぇ。旦那、とりあえずエボシ様に知らせに行きましょう。」

「どっちかは残れよ。じゃなきゃ意味がねぇ。」

「お頭、行ってくれるか。」

「いえ、旦那。エボシ様には旦那の口からも直接話をしてもらいてぇ。勝手に話をつけちまった手前、ここは二人揃ってエボシ様にお知らせした方がいいでしょう。」

「だがそれでは......」

「心配しねぇで下せぇ。ちょっとの間なら、人質になってくれるって奴がここにいますんで。」

 お頭はそう言って不敵な笑みを浮かべ、傍らに佇む一人の男を振り返る。アシタカもつられて、その男に視線を向ける。

 話が見えない甲六は、ただきょとんと立ち尽くしていた。


「ひでぇ! ひでぇよぉ! お頭も旦那もぉ! 俺を一人置いてくなんてぇ!」

 遠く、甲六の悲痛な叫びが聞こえてくる。迷惑そうな顔を浮かべる野伏せりの男達に両の腕を掴まれ、引き止められながらも喚き散らす甲六を一人置き去りにして、二人とヤックルは再びエボシの元へ戻ってきていた。

「......エボシ、私は一度、あの者達の村に行く。お頭もだ。そこで、彼らの過去と、これからの話をするつもりだ。」

 山間にこだまし続ける甲六の叫びを背中で聞き流しながら、アシタカとお頭はエボシに事の経緯を伝えた。

「全く...。勝手なことを言ってくれた。今は他人のことなど気に掛ける余裕などないのだが。」

「すまない。」

「仕方あるまい。これもいずれ我らのためになるというのならばな。子細が決まり次第すぐに知らせをよこせ。早急に人と銭を送る。よいな。」

「あぁ。」

 アシタカの返答に頷きを返したエボシは、次にお頭へと向かい、彼にもまた言葉をかける。

「男達のことは私に任せてよい。この中ではお前が一番しっかりしている。今の我らの状況もお前ならよく分かっていることであろう。アシタカを頼むぞ。」

 お頭は「へい。」と力強く頷く。

「えっ...あ、えぇ?」

 エボシの抱くお頭への確かな信頼に、脇に控えていたゴンザが思わず彼女を二度見し、声を漏らした。その場の誰にも見向きもされず、どうみても絶句している。

「すまない、付き合わせてしまって。」

 アシタカがお頭に向き合い、いかにもすまなそうな面持ちで声をかけた。

「どうってことありません。それよりも旦那の身に何かあっちゃなりません。あなたみたいな人を失うようなことがあれば世も末。俺達は終わりです。」

 そう口にするお頭の表情は至って真面目であったが、アシタカはそれは流石に買いかぶりだといわんばかりに、控えめながらもハッハッと笑うと、少し可笑しそうに「ありがとう。」とだけ言葉を返すのだった。

 実質的な人質となるアシタカとお頭の二人に加え、共に明け渡すこととなっている食糧については、ヤックルが運搬する段取りとなった。馬借の馬を連れて行くわけにもいかない上に、ヤックルであれば、本来はこれまで来た山道を目的地である下流の村へ繋がる分岐点まで戻っていかなければならないところを、わざわざ道を戻ることなく、谷を下って直行することが可能であったからだ。それに加え、ヤックルの気性からしても、主人であるアシタカと離れ離れにすることは望ましいことではなかった。結局、一手間かかることを承知の上で、男衆が総出で馬借の馬の背に負わせていた一頭分の食糧を素早くヤックルの背に積み替えた。
 

 一通り準備が整ったところで、アシタカとお頭は戦いの意思が無いことを野伏せり達に示すために各々の刀を他の男衆に預けた。そのうえで一旦ヤックルを道端に残し、野伏せり達のもとへと戻っていった。そこで一時的に二人に代わり人質となっていた甲六...明らかに不満気ではあったが...と入れ替わり、その甲六が独り山を下ってエボシ一行に合流するのを待った。野伏せり達の近くに潜ませていた男達も、エボシが頃合いを見て退かせていた。

「その者達を殺してくれるな! 我々にとって、替えの利かぬ者達だ!」

 甲六が皆に合流し、いよいよアシタカ達を残して蹈鞴場へ再出発するというところで、エボシが野伏せりに向け声を上げた。

「それはお前ら次第だ! 俺達がただこいつらを殺したいだけなら、とっくに殺してる!」

 遠目にエボシ一行を監視していた野伏せりの頭目が、大声で叫び返した。彼の返事を耳に入れたエボシは、一行に「皆、行くぞ。」と一言を掛け、ヤックル一頭をその場に置いて出立するのだった。
 

 エボシ達の姿がすっかり見えなくなったところで、野伏せり達はアシタカとお頭の二人を連れ、道端に佇むヤックルのもとへと下った。

「私達の話を聴いてくださり、ありがとうございました。」

 どうにかその場を丸く収めることに成功し安堵したのか、アシタカは野伏せりの頭目にそう言った。

「勘違いすんじゃねぇ。あんたらを許したわけじゃねぇし、到底許せっこねぇ。あくまで俺達が生きるため、そんであんたらに、俺らや死んじまった奴、残された家族の想いを分からせるために、同じものを背負わせるためにこの刀を収めるんだ。今はな。それを、忘れんな。」

 アシタカは、男の瞳から決して目を逸らすことなく、じっと見返して深く頷くのだった。


 アシタカとお頭、ヤックル、そして野伏せりの一行は、蹈鞴場へと続く道には別れを告げ、山中の急斜面を幾度となく折り返しながら下っていく獣道を通って村へと向かった。

 天候も相まって薄暗い山林の中を、互いに口も効かずに黙々と下る一行。やがて谷間の小さな沢へと至ると、今度はそれまでよりも多少は緩やかな傾斜の中を沢沿いに歩く。しばらく経ったところで、薪炭林らしき若い雑木が目につくようになる。そこから村までは近かった。雑木林は程無くして終わり、替わりに棚田と段々畑が一行の目の前に広がった。山間の谷間にあるその村は、上流の蹈鞴場から流れてくる川の間近に位置していた。川辺から一段高い場所にある僅かな平地に小家が幾つか集まっている他は、川沿いから山の中腹にかけて田畑が広がっていた。

「ここで待ってろ。」

 村の外れに到着すると、野伏せりの頭目が他の者達に指示し、自らは先に集落の中に入って行く。

 残された野伏せり達...つまりはこの村の農民達である...はアシタカとお頭、ヤックルを囲み、じろじろと彼らを見張り始める。お頭は長い山下りが膝に堪えたと見え、立ち止まるやいなや、野伏せり達の目も気にせずさっさと道端に腰掛ける。

「静かな場所だ。良い村ですね。」

 かたや興味深そうに辺りを見回すアシタカが、柔らかな口調で口を開いた。

「その良い村を、あんたらが壊しちまったのさ。」

 投げ返された皮肉に、アシタカは何も言うことができなかった。


 それほどの時も空かずに、野伏せりの頭目の男は戻ってきた。男は他に数人の村人達を連れて戻ってきたが、何やらその者達と口論をしている様子であり、騒々しく歩いて向かって来る。

「なんて馬鹿なことをしてくれたんだ!」

「他にどうしろってんだ! このままじゃ何も変わらねぇよ!」

「侍の連中に任せて置けばいいものを...。勝手に刀なんぞ持ち出して、どこへ行ったのかと思えば...全く。」

「侍の奴らが何したってんだよ! 当てにならなかったろ! あんなの頼ったところで意味なんかねぇさ! 自分達でやるしかねぇんだよ!」

「これが侍の親方に知れたら咎められるかもしれんのだぞ! 戦でもないのに武器を手に取るなど! それだけでなく人質まで取るとは!」

 要するに、この野伏せり達は村の者や領主の地侍の同意を得ずに独断でエボシ一行を襲撃したということであった。

「やっぱりこうなったな...。」

 近づいてくる言い合いの声に、アシタカの脇に立つ野伏せりの一人がこぼすのだった。

 頭目と見られる男と共にアシタカ達のもとへやってきたのは、この村の年配の男達であった。若い男衆が無断で実行したエボシ一行襲撃に対して、たいそうな怒りを抱いているようだ。とはいえ、その年配者達もアシタカと牛飼いのお頭の姿を捉えると、一旦は荒げていた声色を二人の耳に届かぬよう潜ませ、平静を装って面会に望むのだった。

「あんたら、上流の蹈鞴場の人間か。」

 年配の男達が二人の目の前で立ち止まると、中でも齢を重ねているであろう代表者と思しき年寄りが一歩前に出て尋ねた。

「はい。」

 警戒して口をつぐむお頭に代わり、アシタカがはっきりと答えた。年寄りは続ける。

「すまないことをした。ここにいる若い衆が村の皆に相談もせず勝手にしたことだ。どうか悪く思わないでくれ。我々も事を荒立てるつもりは無かった。このままお帰りなさい。」

 恨みはあるがいざこざを起こしたくはない...そんな複雑な心境からか、言葉の内容とは裏腹に、口調は至って冷ややかなものであった。

 アシタカはそんな年配者の言葉をすぐに訂正する。

「長老様、私達は自らの意思でここにやってきました。この方達に連れてこられたわけではありません。蹈鞴場への帰路で刃を向けられたのは確かですが、私達の仲間も、あなた方の若い方達も、誰一人命を落とすようなことはありませんでした。どうか誤解無きようお頼み致します。」

 村の長と見られる年配者は、アシタカの発言に少し呆気にとられたのか、ぱちぱちと瞬きを見せると、今一度確かめるようにゆっくり口を開く。

「自らの意思で、ここに来たと?」

 アシタカは頷いて見せる。

「私達が過去にしてきたことを、そして、これから先どのような償いをするべきかを、確かめるためです。」

「償い?」

 年配者達は、どういう風の吹き回しかと、互いに顔を見合わせる。それを見た若手の頭目は、ここぞとばかりに口を挿む。

「償いをしたいんだってよ。今までの。こいつら、勝手に付いてきやがったんだ。俺らが連れてきたわけじゃねぇんだよ。自分達のしてきたことを見返して、この先は変わっていくつもりなんだとさ。別に、悪い話じゃねぇと思うけどな。こいつの言ってること。話くらい聞いてやったらどうだいね。爺さんよぉ。」

 無断で実行に移した自らの行動の正当性と、加えて何らかの成果を確保したいというのもあるのだろう。若手の頭目は、村の長にアシタカの話を聞くよう促していた。

 横から口を挿む若手を睨みつけながらも、村の長はしばし考え、黙り込む。

「食い物や銭だけよこすんじゃなくて、田畑や家を直すのも手伝うってさ。」

「お前は黙っていろ。」

 口が減らない男を一喝しつつも、長の態度は決まったようだった。

「あんたの考えは分かった。いいだろう。来なさい。」

 静かに、だが確かにアシタカとお頭の二人にそう告げた長は、踵を返して小道を戻り始める。周りの男衆もまたそれに従い、その場を離れ始めた。

「おい、俺と話したこと、あの爺さんにちゃんと話せよ。いいな?」

 長の背についていこうと歩き出したアシタカに、若手の男はこっそりと耳打ちするのだった。


 村の長の棲家で、話し合いは行われた。長を中心とした年寄り衆は、アシタカとお頭による謝罪と償いの提案を思いのほかすんなりと受け入れた。糾弾を浴びせる者もいたが、それも当然のことと、二人とも黙して聞き入れたのだった。その後の主な内容は若手の頭目と話し合ったものを再確認するものであり、多少の詰めはあったものの、とりあえずはまず蹈鞴場側が実際に行動に移すのが先ということで皆が一致した。そうでなければ、話は進まないと村の人々は考えていた。それはつまり、裏を返せば蹈鞴場が信用されていないということでもあった。さらに、年寄り衆からは、食べ物や銭、人手などの提供による支援よりも、蹈鞴場の主であるエボシ御前の直接の謝罪を重要視する声が多く挙がった。これに対しては、アシタカはともかく牛飼いのお頭が難色を示した。エボシは蹈鞴場の皆から大いに慕われており、その慕う人物に頭を下げさせるというのは、お頭や蹈鞴場の他の者の心苦しい想いを汲めば、それもまた道理であった。この点に関して、お頭がどうにかして避けようとすればするほど年寄り衆は反発し、大きな争点となりつつあったため、とりあえずはまずエボシ自身の意思を確かめるのが先決と両者を説得することで、アシタカはなんとかその場を丸く収め、話を進めたのだった。


 一通りの話し合いを終えたところで、アシタカやお頭はもちろん、村の長や若い衆をも含めた数人で、村の被害を見て回った。主にお頭が状況を見極め、村の者達と共に大まかな修繕費や必要な人工数、日数について見通しをたてた。

 村中を見て回っていると、時折、村民が物珍しそうに二人に視線を向けた。野良仕事の手を止め、何事かと見つめる村人に、同行している村の長は度々足を止め、二人の素性を明かすのだった。二人が何者か、そしてこの村を訪れた理由を知った者達は皆、二人へ冷たい視線を浴びせた。

 最後、二人は村の外れに位置し、この村で最も川に近く、上流側にあるという狭い土地に案内された。そこには、洪水により流されたという棲家の跡があった。家そのものは殆どが失われていたが、わずかに覗く基礎石と少しの残骸から、そこに家が建っていた名残を見て取れた。

 お頭が村の者と棲家の再建についての算段を話し合っている間、彼らの脇で所在無さげに人の暮らしの痕跡を眺めていたアシタカの目に、ふと一人の村民の姿が映った。遠くから彼ら...とりわけアシタカとお頭...を見つめていたのは、年若い女であった。女は、まだ小さな赤子を胸に抱きつつ、じっとアシタカを見ていた。それはとても冷ややかな目であった。アシタカが微笑み、軽く会釈をすると、彼女は遠くからでもそれと分かるほどに彼を睨みつけ、すぐに背を向けて立ち去ってしまった。

「あんちゃん、やめときな。」

 その様子を見ていたのか、アシタカの隣りにいた若い男が声を潜めて言った。

「ありゃあ、ここの家に住んでた娘だ。土砂が流れてきた時、あいつの旦那さんと、二人の子供のうちの一人は逃げ遅れて死んじまった。あの娘と赤ん坊だけが、すんでのところで巻き込まれずに逃げることができたんだ。まだ若いし、二人目の子供が生まれたばかりだったんだがな...。可哀想に。」

 男の話に、アシタカは言葉を失う。一度は落とした視線を再び上げた時、女が去り、今や人影の無い空間を、彼はただ静かに見つめるのだった。


 一通り村の惨状を確かめ終えた頃にはすでに、陽は山の向こうへと暮れ始めていた。村の長の指示により、アシタカとお頭の二人は結局その長の家に泊まることとなった。結局、老齢な夫婦から貴重な食べ物と寝床を分け与えられた二人は、重ね重ね感謝の言葉を口にした。食後、身体の疲労からか、あるいは村の被害に絶句したからなのか、共に口数も少ないまま筵に伏すのだった。

 夜半、暗い古家の屋根の下、隣に眠るアシタカに向けて、お頭はどこか寂し気に言葉をこぼす。

「...旦那、言い訳はしません。しかし、これだけは分かって下せぇ...」

 筵の上に仰向けに横たわるお頭は、天井を見上げたまま言う。

「...エボシ様は、こんな災いをもたらすために蹈鞴場を造ったんじゃねぇんです。ただ皆が、俺らみてぇに居場所を追われて生きることに途方にくれていた皆が、苦しむことなく生きていける場所を、国を造りたかっただけなんです。エボシ様が売られた女を何人も引き取ってきたのだって、そういうことなんです。俺だって、エボシ様と出会っていなかったら今頃どうなっていたか、知れたもんじゃありません。だから、どうか分かって下せぇ。あの方は、悪い人じゃねぇ...。」

 少しの沈黙を挟み、アシタカは答える。

「...あぁ、分かっている。きっと、そうなのだろう。世に生きる、誰しもが。」

 その会話を最後に、夜の静寂がアシタカとお頭を包みこむ。それきり、二人は寝静まり、波乱の一日に別れを告げるのであった。

(続く)


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