陽、夕天に燃ゆ。世を唐紅に染む。

 紺青(こんじょう)、滲む。東空に。彼方より闇寄る。

 白月、出づる。夕烏(ゆうがらす)呼ばわり、火照(ほて)り雲去る。

 影這わす峰々。懐を押延べ、大地を呑まんとす。

 


 峠を行く男が一人。沈む陽を背に、ゆら、ゆら、と。

 薄暮におぼろと浮かぶ男の姿。身に纏(まと)う素色(そしょく)の衣は乱れ、濃灰(のうかい)の括袴(くくりばかま)は泥に汚れている。被り物は無く、髻(もとどり)が露わである。足取りはおぼつかない。倦怠か。

 男はふらと道を外し、すと腰を落とす。力無く、腑抜けて見上げた黒目には、冥色の宙を彷徨う枝葉の黒影が這う。

 色味を落としゆく宙。当て所も無く、天空の世界へと暗影を刺し伸ばす樹枝を辿れば、そこには一樹、老木が佇立する。

 ただ黙然として構える大樹の膝元に、男は居た。暮れ方の天上を呆然として眺める瞳に、虚脱が映る。

 去りゆく陽の行方を追うこともなく、やつれ、くたびれた身なりの此(こ)の者は、奥底(おうてい)に巣食う虚脱を瞼の裏へと収める。

 然(かく)して、男ははたりと、大樹の下にその身を沈めた。

 


 日輪、流る。やがて、稜線に没す。

 地、呑まれる。黒影に。色彩は潜み、静まる。

 闇、至る。漆黒にはあらず。

 星、沸つ。万と煌めく。

 月は満月。淡光にて、夜陰淀む現世(うつしよ)を照らす。



「もし。」

 静夜(せいや)にふいと湧く、女の声音。

 老木の裾に横たう男はもぞと身じろぎ、夢にすがった。

「もし。」

 今一度。年若い、娘の声色であった。

 何処(いずこ)より湧き出づ声音かと、頭中漂う夢想を掻き分けた先、のしかかる瞼をじわと押し退ける男。震えるかすかな隙間から、その虚ろ眼を覗かせる。

 一人の娘がいた。

 腰を下ろし、眼下に横たわる男をさも意を得ずとばかりに覗き込んでいる。その瞳は冥色にしてなおかつ清まされた黒目を宿し、闇にも増し色濃い黒髪は長く、うなじのもとで束ねられ、細腰(さいよう)に垂れる。濃藍(こいあい)の衣手に覗く手肌は月光にやんわりと浮かび、冷ややかに色白い。

 娘は言った。

「如何(いかが)して。」

 男は答えた。

「事にもあらねば、構わず。」

 娘は瞬き一つ見せ、おもむろに腰を上げる。

「然(しか)らば。」

 言って、娘は横伏す男に背を向ける。

 木漏れた月光の下、静々(しずしず)と歩を移す娘。細腰に垂れた黒髪がゆらり、音も無く波を打ち、その艶が月明かりに淡く浮き立つ。

 娘は物言わず、大樹の肥幹(ひかん)を隔てた地べたに、そふと腰を落ち着けると、星夜を仰いだ。初めから、そうしていたかのように。

 のそと身を起こし、男は尋ねた。

「何故(なにゆえ)、闇夜に独り。」

 娘は言った。

「別れし故。貴方(あなた)は。」

 男は答えた。

「俗世、捨てむ、と。人の縁(えにし)、煩わし、と。」

 一重の残心も知らず、静夜に放り上げられた言(こと)に、娘は男を振り見る。淀みなく、底深く清まされた眼(まなこ)。そこに捕らえつつあった夜空の星々を解き放し、娘はじっと男を見つめた。

 娘は尋ねた。

「何故。」

 音無き月夜の下、男は口を開いた。

「疫病、都にて流行る。各々、不信深むれば、争ひ絶えず。人、いと憎さげなり。」

 娘は言った。

「故に独り、此れなる淋し奥山に、か。」

 男は答えた。

「如何(いか)にも。嘆かし人の世、離れて何処かの奥山に独り生かむ、と。」

 瞳を落とし、娘はぽそと零した。

「哀し。」

 娘は顔上げ、尋ねた。

「御名は。」

 男は言った。

「明瀬時白(あかせのときしら)。其方(そなた)は。」

 尋ねられ、娘は再び夜空を仰ぐ。数知れぬ灯が、絢爛(けんらん)にたゆたう今宵の夜空を。

 一度は放った星々を黒目に戻し、娘はぽつと言を落とす。ただ、「宵。」と。



 夜風、立つ。原、さわとさざめく。

 花、ゆらめく。照らすは望月。咲くは桔梗(ききょう)。

 鈴の虫、奏づ。鈴音、小夜(さよ)に溶く。

 宙には海原。散り星たゆたう、闇の海原。



 宵は言った。

「今は昔、疫病、流行りけり。今の都に同じく。時の人々、また今に同じく、不信満ち、争ひ絶えざりけり。」

 吐息一つ、時白は言った。

「然(さ)ればよ。」

 首振る時白をよそ目に、宵は続けた。

「時に、一人の病者ありけり。床に伏し、死、待ちけり。かの者、荒る人の世、荒る人の心を直目(ただめ)に、嘆きけり。我が生きたりきは、斯(か)くも醜やかなるものか、と。我が生かむと望みたるは、斯くも侘びしき世であるか、と。病者、いといと哀しび、無念の内に世を去りたり。」

 時白は言った。

「現世、然ばかりにて、驚かず。此の身も、其の身も、違はず。皆人(みなひと)に同じ。」

 ほと、と男の口より零れ落ちた諦念(ていねん)を、宵は黙して受け容れる。

 森閑(しんかん)とした夜の世。そこに、さらと一撫で、小風がすれ違う。

 宵は野を、夜風にそよめく一凛の桔梗を指し示し、尋ねた。

「其処(そこ)に花笑(はなえ)む桔梗、貴方は如何に。」

 時白は答えた。

「しをらしく、美し。」

 宵は笑み、言った。

「現世、斯くも美し。いと無垢なり。然(しか)るに、卑しく映り、哀しく覚ゆる所以(ゆえん)は、ただ人にあり。同じ人の為す所行なればこそ、病に伏し、世去る者、嘆き哀しかるなり。」

 時白は言った。

「術無し。」

 漏れ出でた一言に、宵は時白を見つめる。

 射し入る月明かりに、淡くもしめやかな煌めきを宿す純朴な瞳。それをしとりと濡らしつつ、そふと笑みを見せた宵は、穏やかに語った。

「世の有り様(よう)は人の有り様なり。我は知れり。人の心、荒るのみならず。直(す)ぐなる情念、深奥(しんおう)なる慈(いつく)しみをも宿すなり。然ればこそ、現世の者、必ず世を優しく、美しき処に取り直してむ、と。」

 つうと一筋、雫つたわせ、宵はまた言った。

「然れども、亡き者には叶はず。世を、取り直せむとも。亡者が、そこ笑む美しき桔梗を、触(ふ)るに及ばぬやうに。」

 繊手(せんしゅ)に一粒(いちりゅう)を拭い、宵は言の葉を重ねた。

「人の世に生きたらば、其れを現のものと叶へてむ。然れば、貴方にも。」

 時白は惑い、つと面(おもて)そらし、つれなく返した。

「ならば其方が。其の手にて。」

 宵は、答えなかった。

 伏目に、時白は言った。

「語らず、己の手にて事を為すべし。疲るる身ゆえ、此れにて。」

 ささと背を見せ、時白は老木の膝下にその身を横たえる。

 やがて、男は寝入った。

 独り、降(くだ)る星夜を仰いで見送る娘。

 宵は、ささらぐ天の星川に、はらと一葉を散らす。ただ、「うらめしや。」と。



 夜、引く。西へ。

 霞む望月。星は宙に沈み、消ゆ。

 暁天(ぎょうてん)、浮き立つ。東より、明星連れて。

 稜線、白む。世界、現る。

 黎明。光溢れ、生彩もたらす。

 朝陽、昇る。新たなる日と、共に。



 すと、陽光は差す。

 押し入る眩さが疎ましいか、時白は舞い昇る朝陽をよそに、そそと気怠(けだる)げな寝返りをうつ。

 意も知らず、照り込む陽光。日の始まりを、鵯(ひよどり)の囀(さえず)りが迎える。

 早朝の世を溢れ満たす輝きと囀りに、ついには時白も耐え兼ね、緩やかにその瞼を退ける。

 見れば、宵の姿はなかった。

「其処の御方。」

 起き抜けの耳に滲み入る男の声音。時白はもそと起きた。

 初老の男がいた。杣人(そまびと)であった。

 杣は尋ねた。

「此処で夜明かしきや。」

 時白は答えた。

「違はず。」

 杣は言った。

「娘、姿見せざらけむや。」

 時白は頷き、言った。

「娘は何処へ。」

 杣は指差し、言った。

「其処に。」

 杣人は去った。

 時白はゆらりと腰上げ、老木を回った。

 蒼然(そうぜん)なる肥幹を隔て、石はあった。苔生し、風雨にやつれた、名も無き墓石(はかいし)であった。

 言を失い、時白は瞳を落とした。



 木漏れ日、入る。褪(あ)する石を照らす。

 小鳥、囀る。蒼天を喜ぶ。

 白雲一つ漂い、小風の名残を追う。

 木の葉、そよめく。野、花、波打つ。

 世、移ろう。人も、また。



 峠を発つ男が一人。昇る陽を背に、すら、すら、と。

 さらと木漏れ日そそぐ木陰にたった独り、ひそと佇む名も無き墓は残る。

 褪せた墓石に、光は差す。

 そこに、花が添えられている。

 一凛の、桔梗であった。


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