迎ふ春。

木(こ)の芽時、撫で触(ふ)る春風、峰に野に。吹いて渡れば、ゆらとたゆたう、山の藤波。憂き世に滴る藤房(ふじふさ)の、薫るは淡い紫に、散ると知りつも、咲く儚さか。


今は昔、和泉(いずみ)の国の山中に、一人の薬売りがいた。

名を、村部保郁(むらべのやすか)といった。


春のある日、保郁は時季の菜を求め、奥山に入った。

春陽(はるひ)の照るうちは山巡り、時季の恵みを見つけては、背に負う籠に入れて歩いた。

遅日(ちじつ)にかまけ、汗流していると、知らぬ間に空色うつろい、日輪はとうに、尾根の彼方へ去る間際であった。

「此れは如何(いか)に。」

籠は未だ侘しくも、保郁は山を下った。


陽暮れ影増す、獣道。冴えて山風追い立てる、下る足取り、急ぐ道。息急き駆けるに、ふと気づく、知らぬあいだにさらさらと、紛れて風に、涼やかな、何処(いずこ)せせらぐ、小川の音(ね)。

不思議とはたと、止まる足。添えて片手を、澄ます耳。はても川など在りしかと、気に掛け足向く、音の先。寄ればまさしく、流る沢。


小川が流れていた。未だ水少ない、清流であった。

一人の娘がいた。

藤色衣を身にまとい、黒髪長く、束ねた姿は淑やかであった。山奥には似つかわしくない、美しい娘であった。

娘は独り、沢を隔てて腰掛け、溜まりに脚を浸していた。

保郁は尋ねた。

「如何(いかが)して。」

娘は言った。

「具合優れぬだけ。構わず。」

保郁は首を振った。

「奥山に娘子一人、具合優れぬとあらば、放りおけるはずもなく。よくお診せ下されば。」

言って小川に、足入れた。

「ひらに、気遣いなく。」

怯えて娘は、そう言った。


揺らいで声音、怯える瞳、止まる足。散らして言の葉、ただ見ゆ娘、震える身。うつろう涼音、淀む時。

さればと伏して、彷徨う眼(まなこ)。映る水底、流る色。糸引く紅、八塩(やしお)の彩(さい)。辿れば娘、浸す脚。


保郁は顔上げ、娘に言った。

「その脚を。せめて紅血(こうけつ)、止めねばと。」

娘は言の葉、返さなかった。


春の夕べの凪水面、さわと溜まりがささめけば、露わに白脚、滴る雫。ゆらめく淀み、咲く波紋。


保郁は沢出で、娘の傍らに片膝ついた。

足の首に、傷はあった。濡れる白肌つたい、鮮血が滴っていた。

保郁はつたう紅血を拭い、生薬一撫で、きつく布で巻いた。

「心遣いに、礼を。」

こわばる声音で、娘は言った。


沈む日輪、峰の陰。色落つ夕空、春の宵。浮かびて明星、連れる闇。


保郁は言った。

「陽も遠く。そなたの村は何処にて。」

娘は答えた。

「山超えた先に。」

なればと保郁、片膝のままに背を向けた。

「悪きは言わぬ、我が村へ。お気にせず、任せて下されば。」

娘は他に当ても無く、片時迷えど、今にはその背に、その身預けた。

「名は。」

娘を背に、保郁は尋ねた。

「藤ノ葉(ふじのは)。」

ほのかな温もり宿す、保郁のうなじに頬託し、娘はぽそと、その名(な)一言、呟いた。

振り見て、保郁は言った。

「其はまた、美しき名と。」

聴いて藤ノ葉、ふっと息つき、こわばる頬を、緩ませた。

瞼を降ろし、埋(うず)めた頬を綻ばせ、藤ノ葉は言った。

「礼は、これきりに。」

保郁は笑んで、踏み出した。


背負い背負われ薄暮道(はくぼみち)、二人見送る、おぼろ月。冴えし家路もうなじに覚ゆ、頬の温もり、息吹の音。残り置かれて淋し籠、水辺佇む、侘し籠。

負いて歩けど侘しき背。やわなる軽身(かるみ)に顧みて、人ならざるかと、宵の道途につと思う。


藤ノ葉を背に、保郁は村へ下った。

迫る闇から逃れるように、戸口を跨いだ。

晩、藤ノ葉一人を床に泊め、保郁は独り、土間に臥せた。


染まりて闇に、浮かぶ月。おぼろ月夜に、分かつ床。差して月影(つきかげ)、醸す幻世(げんせい)。越して衝立、香る藤花。

開かば瞳、或いは花も、露と消え、見まく欲しともまたと叶わぬ、夢幻かと憂いては、まどろむ眼(まなこ)に、瞼は下りず。


夜が明けた。

差し入る陽光の下、藤ノ葉はいた。

起き抜けに、ひたひたと虚ろ眼を擦る藤ノ葉を、保郁はただまじろぎもせず眺め、独りこぼした。

「幻かと。」

藤ノ葉は、きょとと、瞳を丸くした。


昇りて春日、迎えてせわし、雀の子。麗らか日和、呼ぶは鶯(うぐいす)、朝雲雀(あさひばり)。


朝、傷を診て保郁は言った。

「内は良きとて、山など行かば、傷の口も開くかと。さりとて、里に身内も待つかと。なればまた、此の背にて、そなたの里へ。」

藤ノ葉は、口籠った。

「身内は何処かへ。里には誰も。」

保郁は言った。

「ならばその傷、癒えるまで、此処にいて下されば。」

藤ノ葉戸惑い、言(こと)に詰まれば、保郁がふいと、悪戯笑みにて、また言った。

「さすればそなた背に、山超ゆこともなく。」

聴いた藤ノ葉、むとして後に頬崩し、見ては保郁も、微笑み返した。


日なかは独り、奥山も、帰りて夕に、戸口くぐれば、香る藤。掛けて声、返る声音は、木霊(こだま)にあらず。見やれど見えぬ、隔つ仕切りも、暮夜(ぼや)に仰げば、一つ屋根。

癒ゆ間に送る、春のひと時、花咲く季。日毎(ひごと)ひながに、夜毎(よごと)おぼろに。

去りて花時(はなどき)、色沸つ青葉。そよと薫風(くんぷう)、なごみて流れば、褪せて藤房、至りて終春(しゅうしゅん)。


春も暮れのある朝、傷癒えた藤ノ葉は床を出で、保郁に先んじて戸を放った。

外見る藤ノ葉に、保郁は尋ねた。

「何処へ。」

藤ノ葉は言った。

「礼に、菜(な)をと。」

保郁は言った。

「礼などは。」

藤ノ葉は、首を振った。

「我がままにて、構わずに。」

言って残して、戸を出でた。

案じて保郁も、戸を出でた。

「癒えて間もなければ、山など一人では。」

言って追えども、表に人影見当たらなかった。


失せて影、沈む香りに、案じて頼る、土の跡。辿れば山に、ふいと消ゆ、香りし藤花(ふじはな)、人の足。

気をもみ小家(こいえ)に、帰り待つ、憂いも知らずか、のどやか日永に、暮れの春。しきりと眺むる、空表(からおもて)。

気づかば夕に、今と呼ぶ声、藤の色。やれと気抜けて開かば戸、今かと待ちて、佇む藤ノ葉、胸に抱えし、数多の菜。


胸に抱える、沢山の菜を差し出して、藤ノ葉は言った。

「これを。」

にこと綻び、保郁は言った。

「有難う。」

藤ノ葉は、すと眼(まなこ)逸らし、土汚れた繊手(せんしゅ)で髪かき流すと、また瞳向け合わせ、その顔そっと、綻ばせた。


去りゆく焼け空、滲むは群青。行く春惜しみつ、夕闇包む、小家に二人。隔つ仕切りも、今は無く。


夜半、藤ノ葉は言った。

「今宵にて。」

保郁は言った。

「此の春の藤、まこと美しいと思い入ればこそ、これを。そなたに。」


揃えて筵(むしろ)、送る闇夜に、月の灯、響く言(こと)。



ひとときと

小家に根差しき

藤花よ

世を尽くすまで

此処に咲かなむ



閉ざす瞳に、冴えて静寂、霞む現世(うつしよ)。春の夜寒(よさむ)に、声無き藤も、陰に潜まる。


堪えて迎う、終春の暁、明け明星。ぼやり明るみ宿す峰。陽光待たず、去る娘。

降ろす瞼も傾く耳に、引き閉ず戸音、足の音。遠のく歩み、消ゆ香り。淀めば残響、いずれ幻。

求めて名残を、起こして見れば傍らに、残し置かれし返り文。



藤花や

ただひととせの

夢の世の

あなこと散らば

咲かせまうしと



瞳追う、一筋流る、墨川に、思い定めて、出でる足。残され後に、主(ぬし)待つわらじ。放つ戸口も、口開(あ)くままに。


保郁は駆けた。

乱れる息に、ふと、言を落とした。

「今一度。」

と。


駆け追う香り、足の跡。辿る今には、人のにあらずも、関わらず。

風切り急いて、求めて至る、知る小川。かつて出会いし、奥の山。姿無くとも、感ず息差し、香る藤。


保郁は呼んだ。

「藤ノ葉。」

返る葉は、なかった。

構わず、保郁は言った。

「そなたに、これを。」


耳に入(い)る、春の山の音、川辺の音。木の葉ひと撫で、小風の音。ほろと溶け入る、言葉の音。



ひととせに

憂き世に散らふ

藤花も

まつはるうらは

永久に枯るまじ



呼ぶ風も、はらと一片(ひとひら)さざめかぬ、藤の花葉(はなは)に、落とすは瞳、水底に。

今一度。

俯き散らす、その一葉(いちよう)。彷徨う言の葉、行き場なく、水面へ落つを、儚きと、霞む瞳に眺むれば、ゆらと影差す、水鏡(みずかがみ)。

見ればふと、水面ゆらめく、人の影。木陰出でたる、藤色衣。念じて眼(まなこ)、垂れた頭(こうべ)を、上げて見やれば、そこに佇む、愁い藤ノ葉。

隔てて小川、互いに向かい、しかと見交わす、焦がれる瞳。宿すは共に、変わらぬものと。


保郁は言った。

「今一度。」

藤ノ葉は頷き、応えた。

「今一度。但し、ひととせに。またの春まで。此れなる見目形(みめかたち)にあれるは、此の一期に、ひととせのみゆえ。その後(のち)には、此れには戻れず。それで、構わぬとあらば。」

その手差し出し、保郁は言った。

「ひととせなれども、傍らに。」

藤ノ葉は、心定めて、また頷いた。

流れに踏み入り、保郁の手を取り、沢を渡った。


ひととせと、握る柔手(にこで)に、滲む想い。離さず寄せて、合う瞳。黒目に映る、行く末を、瞼の裏へ、押して浮かべる微笑みに、はにかむ二人、春日和。携えその手を、下る道。春の終わりに、始まる歩み。


二人、小家に過ごした。

去る季を送り、訪る季を迎え入れた。

廻り至る、またの春まで。


知らずか永久(とわ)を、吐息にうつろう、泡沫(うたかた)の、ただのひととせ、過ぐる時。共に駆けゆく、廻る時。



迎ふ梅雨。

灰曇り。退(の)けて陽を、飽かずに流す、五月雨(さつきあめ)。湧き出づ青葉、育てむと。

雨田(あまた)の水面、小さき輪。雨滴にそわと、生まれ消え入る、儚き輪。揃い立つ子は青き稲。雨田に育つ、青き稲。

二人連れ合い畦の道、一傘(ひとかさ)もとに、歩む道。行く手に敷かれし水鏡、慈雨の溜まりに梅雨曇り、二人歩けば傘の花。雲に彩りゆらゆらと、波打ちたゆたう、傘の花。

畦の止まりは杉木立、暗緑豊かに肥えし幹。彩(いろどり)添えるは紫陽花の、乱れ咲きたる青に紫、淡い桃。雨露、雫、滴る葉。濡れる葉うろうろ蝸牛。ゆるりと巡る、蝸牛。


一傘のもと、藤ノ葉は言った。

「露浴びる紫陽花は、美しい。」

と。

保郁は笑んだ。

「藤色衣も、ひときわに。」

と。

藤ノ葉は、保郁見つめて、くすと小さく、笑みを漏らした。


しとしと、ひたひた、雨垂れ奏でる、小夜の闇。歌い合わせる、田の蛙。三日月と、夜(よ)に乞い願うは夢の世の、終わらぬ今か、変わらぬ来世か。

夜もすがら、煩わしきか、当ても無く、歌い唱えし皆々の、祈りに消えた、雨雫。零れる音色も、今は聞こえず。はて今や、涙尽きたか梅雨夜空。さてもさても田の蛙、今しばらくは喉休め、我に静かな眠りをと、願う内にも瞼下り、まどろむ二人もいつしかは、夢の世界の、旅の人。

伏せたる瞳、貫く陽。明ければ梅雨雲、何処へか。戸口放てば溢れ射す、久方ぶりの、陽の光。暇(いとま)終えたか日輪の、生気みなぎる眩(まばゆ)さに、片手かざして応えれば、瞳に残るは煌めく田。陽光放つ、棚田の水面。

ああ止みたり、長雨止みたりと、出で踏む歩。濡れ土(つち)陽気にむわり立つ、肌触(ふ)る湿り、地の香り。凪水辺、溜まりに映る、澄みし青。



迎ふ夏。

からり空、入道もたげる白影も、彼方にあらば、幻に同じ。

雨蒸す日々と、別れ告げ、来たるはうだる、真夏の陽。夜は短し、明易(あけやす)き。花木虫、色濃き生命(いのち)、ほとばしる。みんみんと、つくつくぼうしと、身を焦がす、枯れぬ声音も夕暮れに、冷めてか何時(いつ)しか、さわさわと、耳に残るは夕風に、さざめく稲田、流れる穂。横切る涼風(すずかぜ)、流す髪。

辿るは家路、揃い歩けば薄暮空。ふと雨匂う、ぽつぽつと。来るかと瞳、見合わせ駆け出す暮れの道。遠く雷鳴ごろごろと、とどろき合図ににわか雨。たまらず二人、夏木立。濡れ袖寄せて、雨宿り。


夕立望む大樹の下、保郁は言った。

「通り雨にて、束の間のこと。きっと。」

と。

藤ノ葉は頷いた。

哀し気に、小さく、うん、と。

肩寄せる保郁の、雨脚眺める横顔を、その雨止むまで、ただただ静かに見守った。


小雨(こさめ)待つ、仰ぐ横顔、つたう露。

地を冷ます、白雨にかすむ、陽炎(かげろう)も、重なる現も、変わらぬ運命(さだめ)と夕立に、うたかたの如く、雫と消ゆ。

遠雷呼ばわる、夕の雲。つられて過ぐる、雨の脚。置いていかれて南風(みなみかぜ)。残るは薫る、恵み土。沈む夕の陽、茜空。

木陰出でれば橙に、唐紅(からくれない)の、燃ゆる天。色づく現世(うつしよ)、歩む道。夕の涼風立ち吹けば、濡れた青葉を心地よく、舞わす木立のさざめく音。黄昏の、夢の通い路、かなかなと、二人見送る、ひぐらしの、夏を惜しみつ、落ち入る声音。



迎ふ秋。

空澄み青き、秋晴れの、ひやり身に入(し)む、朝方に、恋し日照りも、今は短き。

実り月、揃えて佇む黄金の、頭(こうべ)を垂れる、稲田の子。礼はいらぬと育て親、頭垂れ込み刈る稲穂。

日毎(ひごと)濃く、色づく橙、黄に紅(くれない)、褪せて尽きれば世に散らう、ただ束の間の、燃ゆる命と思えれば、迎えて落葉、積もるは愁い、枯る現。

落ち葉鳴らせて秋の山、せわしく回るは芋掘る猪、茸頂く子連れ鹿、柿の木登る、親子猿。登りて梢、里眺むれば橙に、軒先飾る、柿簾(かきすだれ)。ゆらりゆら、色なき風に、彩り振れる。

ささと横たう日輪も、待ちわびてかと、十六夜(いざよい)の、引きゆく灯、嘆じる旋律。秋の夜長に鈴鳴らす、小さき奏者、鈴の虫。


十六夜を仰ぎ、保郁は言った。

「降り月は、儚げで美しい。」

と。

藤ノ葉は言った。

「此の身には、望月が愛おしい。輝き、満ち足るゆえ。」

と。

「いずれも美しい。添いて仰げば。」

保郁は言って、かすめ触る繊手(せんしゅ)に、その手を添えた。


満ちては美し、満ち足らざれども美しき、澄み夜佇む、秋の月。闇の海原、萬(まん)の煌めき、波の随(まにま)に。誰ぞ捲きしか、流星も、追えばゆらめき薄原(すすきはら)、夜風に漂う、薄原。



迎ふ冬。

至りて北風、吹いては流す、世の生彩(せいさい)。目にも肌にも、応えて凛と、冬の寒(かん)。短日に、焦がる温みも、当てはなく、過日に在りし、生の息吹も、今は潜めて。

地には霜、小川に氷柱(つらら)、峰には白笠。ふわと鼻先、横切る雪の子、綿(わた)の虫。連れて寒空(さむぞら)、冬の雲。仰げば我が身に、舞い降る白雪。

しんしんと、黙して世を染む、まだら雪。上がりを待たず、閉ざす戸の先、密やかに。失くして音を、去る陽(ひ)気づかず、寄る夜を知らず。

いつしか闇に、暮れて今、如何ばかりかと、開かば戸、連れて雪夜に、出でれば目に入(い)る、煌めく雪原、白銀に。踏み出し藁沓(わらぐつ)、雪締む音。照らす寒月、冬夜空、立ち眺むれば、はらと消え入る、小夜の白息。


吐息白めて、藤ノ葉は言った。

「此の眺めも、いずれ幻に。」

と。

保郁は答えた。

「此の身の内には、変わることなく。」

と。

藤ノ葉は、寄せ触る肩に、そふと額を添え預け、ほそと瞳を閉じて塞いだ。


冴え澄む冬夜、宙(そら)は暗黒、地は白銀。凍てつく世でこそ、触れる温もり、心芯に。

堪えて寒を、凌ぐ一冬、囲炉裏の端に。昇り彷徨う白煙(しろけむり)、哀れと雪雲、連れ立つ彼方。跡には風待つ、梅つぼみ。眠る山野に、垂(しず)り雪。起こして山を、告ぐ終冬(しゅうとう)。

迎えて融雪、流る水。始まる鼓動、息吹く彩(いろどり)。輝き戻す空の陽に、潜む獣も誘われて、駆ける山鳥、穴出づる熊、高鳴く鳶、孕み鹿。振り向き見れば、緩む寒さに、帰る鳥。



梅のち桜、散りて藤。廻りて迎ふ、またの春。

還りて花時、気づかばゆらめく、藤波も、迎ふ今には、かくも懐かし。

ついに訪る春陰(しゅんいん)に、散るを愁いて、白雲流す、昼の春雨(はるさめ)、穀の雨。名残惜しみつ、揃えて眺む、雲の行く末、露の末。携え座る、縁の側。


二人、膝を並べた。

初虹を待ち、雲行く空を仰ぎ見た。

保郁の、雨脚眺める横顔を、藤ノ葉は横目に見つめていた。

藤ノ葉は尋ねた。

「袂分かつと知りてなお、出会いしことを、あなたは如何に。」

振り見て、保郁は言った。

「哀しく、つらきこと、と。そなたは。」

藤ノ葉は言った。

「此の身も、同じく。あの歌に、変わりはなく。」

保郁は、笑った。

「それでも、此処に。」

藤ノ葉は、すんと、頷いた。

言は詰まり、出でなかった。

笑み静め、保郁はまた、春雨眺めて言った。

「来む世の春には、そなたのもとへ。きっと。」

顔伏せて、藤ノ葉は、うんと、幾度も、頷いた。


止まぬ雨、軒先滴る、春の露。しとしと、しとしと、落つ雫。濡れる衣手(ころもで)、膝の上。

流る雲、駆け追い沈む、天(あま)の灯。宵にも明かぬ、そぞろ雨。迎ふ一夜に、惜しみて今を、向き合い添え臥(ふ)す、影はおぼろに。藤花に、つたう夜露を、払いのけ、添える柔手に、重なる繊手、微かに濡れて。


訪る暁、春の有明。尽きてか雫、暮夜の間(ま)に。明けて差す陽に照る床も、彩る影は、今は無く、ほのかに漂う、藤香り。留む温もり、傍らに。

起こせばその身、映る筵(むしろ)に、ひとひらの、読み手ただ待つ、残し文。未だ乾かぬ、濡れた文。辿れば溢る、想い零れる墨の川。滲む現に綴られる、はらりはらりと綴られる、浮きて流れし、藤の言の葉。



忘れえぬ

そほふる雫

散り垂る音

雨脚ながむる

君の横顔




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