襲撃
「…雨のにおいがする。」
しんと静まりかえったその森に、サンの声は消えていく。ここでは全ての物音が静けさに呑み込まれ、まるで深い森に吸い込まれるかのように消え入ってしまう。練色の毛皮を身にまとったサンは、山犬の背に跨り、暗い森の中の道なき道を進んでいた。それに続くのはもう一匹の山犬だ。そこは、うねるように地を這う大きな根によって埋め尽くされている。太い幹から伸びた根は、水気をいっぱいに含んだ深緑の苔に覆われ、山犬の足元からは地べたを踏みしめる度に水が滲み出てくる。木の葉の間から空を覗くことはできなかったが、おそらく雨雲が垂れ込めているのだろう。心做しか、身を取り巻く空気も重かった。
サンと山犬は、鋼の送りからの帰路にある人間達一行を襲うため、人間の手によって切り開かれた、崖沿いの小道を目指していた。予めサン達に話をしていたモロは先へ行き、すでに人間達を待ち構えている頃だ。
急ぎ目的の地へ向かっていると、案の定、頭上からぽつり、ぽつりと、雨滴が滴ってきた。青時雨だ。それを見たサンは、山犬に語りかける。
「急ごう。」
次第に雨音が聞こえ始め、雨脚が強くなったことを知らせる。サンはふと頭上を見上げた。ふり仰げばそこは、常盤色をした葉で覆われている。まるで一面緑の天井だ。一枚一枚の葉から滴り落ちる小さな雫は、ぴたぴたと音をたて地を打ち、愛雨のしらべを奏でているようだった。
「雨が味方してくれる。…今日で、けりをつけよう。」
暗い墨色雲が垂れ込め、すっかり辺りが暗くなった頃、サンと二匹の山犬は、禿山の頂にいた。雨が降りしきる中、じっと時が来るのを待っているその身は、どしゃ降りの雨に打たれるのをものともしていないようだ。眼下には黒茶に朽ち果てた木々と、土壌の流出で地表に露出した無骨な岩々が広がる。そこが森であったことを教えるような緑は、もうどこにも存在しなかった。
遠方に、足場の悪い山道を、一列になって進む人間達が見渡せた。雨音ばかりが響き渡る中、しばらく無言を貫いていたサンが、ついに沈黙を破る。
「…行こう。」
そう口にした彼女は、手にしていた紅赤の土面を被る。次の瞬間、彼女を乗せた山犬が駈け出した。サンは濡れたその背に両手をやり、しがみ付く。斜面を下る勢いも相俟り、間を置かずしてその速度は急激に上がっていく。枯木や岩々を次々によけ、一気に走る。続くもう一匹もその後を追う。サンの役目は人間達の注意を引きつけることにある。できるだけ目立つよう、大きな動きをする。根株をよけ、倒木を跳び越える。風を切る音が聞こえた。
ふと、前方に目をやる。揺れる視界に人間達が映った。動きが慌ただしい。どうやらこちらの動きに気が付いたようだ。構わず走り続ける。
雨粒が土面を打つ。山犬の呼吸が荒くなる。爪が地を蹴る音が聞こえた。肌を打つ雨は冷たい。
雨脚は激しくなる一方だった…。