鬼神の如き

 荒れる息遣い。目の前を走る農民もまた、息を切らしながら死に物狂いで逃げていた。横目に見える女もそれは同じだ。

 ジコ坊は、急斜面に脚を取られながらも必死の思いで坂を駆け上がり、林へと急ぐ。すでに地侍達は背後まで迫ってきていた。

「…なんとも…あきらめの悪い奴らだ。」

唐傘片手に走るジコ坊は、とうに息が上がっている。侍達の叫ぶ声や女達の悲鳴、そして村のいたるところから、刀と刀の交わる音が聞こえてきた。そんな周辺の喧騒の中、どこからともなく一際大きな声がジコ坊の耳に聞こえてくる。

「やめろー!!」

 男の叫ぶ声と同時に、走る馬の蹄が地面を叩く音が遠方から近づいてくる。ひたすら森へと向かって逃げるジコ坊は、地侍達との間合いを測るため、走りながらも背後の様子を窺った。

 転んだ一人の女が少しでも侍から離れようと、必死に地べたを這っていた。その後ろでは刀を高く振りかざした侍が、今にもその刀を振り下ろそうとしている。

 しかし、刀が女を斬ることはなかった。刹那、刀を持つ侍の腕がふきとんでいた。

 ジコ坊は思わず目を見張る。侍は一瞬の出来事に何が起きたのか理解できていないようだった。そして間を置かずに、その侍の眼前を見慣れぬ生き物に乗った男が駆け抜けていく。侍ではなかった。

 ジコ坊は瞬間、その者の目を見たような気がした。若い男のようだった。

「…あの少年…。」

坂を駆け上がりながらも、目でその男の後を追う。見慣れぬ容姿をし、弓を手にしたその男は、赤鹿の背に跨っていた。その姿は、まさに鬼神のごときであった。

 男はすぐに見えなくなった。

 地侍達が先の出来事に気をとられている間に、ジコ坊は林の中へと逃げ込む。追手を振り払い、薄明かりの中で森を進む彼の頭には、ある古い書の一節が浮かんでいた。

「...東の果てに赤鹿に跨り、石の蕚を使う勇壮なる蝦夷の一族あり...」

 かの男を見てからのち、この一文を思い出さずにはいられなかった。 

Since 11 May 2010
Powered by Webnode
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう