短歌のこと

2023年02月11日

昨日の積雪のため今日は休業ということで、今月分のブログ更新しておこうかと。

こちらは途中から雨になって、結局は今朝に10㎝ちょいくらいしか積もっていなかったので、たいした手間もかからずに地域の雪かきも完了。

生活道はそのうち除雪車が来ますし、うちは私道が無いので、その分いつもお世話になっているお隣のご高齢の夫婦のお宅へお手伝いに行きましたが、そちらも数十分で終了。シャワーだけ浴びて今に至ります。

この辺りの地域に関して言えば、事前の報道よりも大した積雪量ではなかったので助かりました。自分は一軒家を借りているのですが、比較的古い家のため、もし大雪になったら屋根から雪下ろしをしないとヤバいかなぁと思っていたのですが、全然そんな降りじゃなかったので面倒な作業もやらなくて済み、良かったです。

とりあえず、ご挨拶代わりの天候の話はここまでにして、本題に。


ちょっと話のネタが思いつかなかったので、そのうち書こうと思っていた一次創作の話をここで。

タイトルにある短歌。読んで頂いた方がいらっしゃるか分かりませんが、仮置き場にある「藤ノ葉」の中にいくつかオリジナルの短歌を載せているのですが、その補足というか、どういう意図なのか説明したいなぁと。(本当だったら作品について後から説明するなんてのは文章が未熟な証なのですが、いかんせん素人が作った短歌なので、ちゃんと意図通りに出来ているかも分からないため一応補足したいんです。)

要するに、「一応こういうつもりで書いたのですが、もしかしたら間違っているかもしれないので、念のため補足をします」ということです…笑

先に言い訳しておきますが、ほぼ大学生時代に書いたもの(10年以上前)ですし、全く古文とは関係の無い学部の学生が見様見真似で作ったものなので、あしからず。


↓まず最初に出てくるもの。(主人公が、藤ノ葉を引き留めるために詠んだもの…のつもり。)


ひとときと

小家(こいえ)に根差しき

藤花よ

世を尽くすまで

此処に咲かなむ


直訳は「ひと時、小さな家に根付いた藤の花よ。その生涯を終えるまで、ここで咲いて欲しい」のつもり。一応、藤花はもちろん藤ノ葉の例えのつもりなのですが...。 なので、意訳するなら「ひと時と(言って)この小さな家に住まった藤ノ葉よ。その一生を終えるまで、ここで暮らして欲しい。」というつもりなのですが…合っているでしょうか…。

文法は間違っているかもしれませんが、とりあえずそういう意味を込めて作りました。


↓それに対する藤ノ葉の答えということで作ったのが次の歌なのですが…。

藤花や

ただひととせの

夢の世の

あなこと散らば

咲かせまうしと


正しいかどうかはともかく、こちらはなんとなく伝わるのではないかと…。「あな」は感嘆。「こと散らば」は「どうせ散るのならば」ということで、合わせて「ああ、どうせ散るのならば」。「咲かせまうしと」は、「咲かせたくはない」。全文直訳なら、「藤の花(というの)は、たった一年(に一度咲くだけ)の夢のように儚い世のもの。ああ、どうせ散るのならば、咲かせたくはありません。」ということ…で間違ってないで欲しい…笑

こちらももちろん「藤花」は意訳としては藤ノ葉のことを指しますし、本編で描いたような、藤ノ葉が人間でいられるのは生涯のうち一年間だけという縛りを陰に表しているつもりです。「咲く」というのは、恋が実るとかそんな感じの隠喩…のつもり。意図としては、主人公の「生涯共に暮らして欲しい」という願いに対して、どうせたった一年で終わる関係なのだから、それなら始めからやめておきましょう、という感じ。(これまた文法的に合っているかは不明)


↓三つ目。藤ノ葉の返答に、それでもともう一度気持ちを伝える主人公の歌。

ひととせに

憂き世に散らふ

藤花も

まつはるうらは

永久に枯るまじ


「まつはる」は、からみつくという意味で、「想いが絡みつく」という意味合いでも使われるようです。なので、藤の蔓が絡みつくのと想いがからみつくを掛けているつもりです。「うら」は、「枝」や「葉」、「蔓」などの先端を表します。(この辺りの林業界でも、未だに木の梢や先端のことを「うらっぽ」と言います)

「永久に枯るまじ」はそのまま「(きっと)永遠に枯れることはないでしょう」という意味なので、合わせて直訳すると、「(たった)一年で憂き世に散る藤の花でも、絡みつく蔓葉(つるは)は永遠に枯れることはないでしょう。」

意図としての意訳は、「(たった)一年で終わる関係でも、絡み合った想いはきっと永遠に色褪せることはないでしょう。」という感じなのですが…。間違ってないかな…。


↓最後、一年後に別れる日に藤ノ葉が残した歌。

忘れえぬ

そほふる雫

散り垂る音(ね)

雨脚ながむる

君の横顔


今回このブログで最も補足…というか言い訳したかったのは、この歌なんです。この歌だけは、おそらく文法や単語の用法的に間違っているのではないかと、当時から分かっていました。

もしかしたら感じ取っている方もいらっしゃるかもしれませんが、この歌だけは上の三つの歌よりシンプルというか、あまり遠回しな気持ちの表現にはなっていない…直接的な表現になっています。というか、しました。

「そほふる雫」、「散り垂る音」は、雨のことを指すと同時に、藤ノ葉が流していた涙も表しているつもりです。

それはいいのですが、「忘れえぬ」(「忘れられない」という意味のつもり)や、「雨脚ながむる君の横顔」(「雨脚を眺めているあなたの横顔」という意味のつもり)は、もしかしたら古文的には間違った表現かもしれません。

「君」に関して、古文の人称名詞って時代によってだいぶ意味が異なる場合があるのですが、この歌に関してはそういうことはあまり考えずに作りました。

というのは、物語の最後の最後、ここにきて、文法的に細かいことを気にするよりも、大事な場面なんだからそれよりも語感や余韻を重視したいと、当時思ったからです。

比較的シンプルにした理由も、物語的にいよいよ今生のお別れという時に、果たして貴族みたいなちょっと気取った表現で遠回しに隠喩的に気持ちを表現するかな…と疑問に感じてしまって、最後なんだから、純粋に直接的でシンプルな言葉というか表現が出てくるんじゃないかな、と考えた結果、先の三つとはちょっと違う感じになったんです。

それもあって、最後のこの歌だけは、あまり細かいことを考えずにストレートに作ってみました。


最初にも書きましたが、これらはあくまで古文素人である自分が作った短歌なので、いろいろと文法や短歌的に間違っているところがあると思われます。(間違いがあったら優しく指摘してください…笑)

意味的にも、なかなか伝わりづらいところもあったと思うので今回補足として書いてみました。もし、一度「藤ノ葉」を読んでみたけど歌の意味がよく分からなかったという方がいらしたら、ぜひ参考にしてもう一度読んでみていただきたいです。(それでなくとも、「藤ノ葉」自体、七五調をベースにリズム重視のセクションと、普通の文章のセクションとが入り乱れた謎の文章で書いたため、本当に読みづらくカオスになってしまってはいますが…)


なんか、もっと短歌とか作ってみたいなぁと思うのですが、大学時代ほど時間がないのでなかなか挑戦できずにいます。

プロ級の人たちの短歌は、とても比較にならないくらい美しく、雅な技法に満ち溢れていますよね。そこまで行けなくとも、もうちょっと上手く美しい短歌が作れたらいいなと思います。


ということで、今回は一次創作の短歌の話でした~。





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