表現の仕方
今日は家を出ようとしたところで、お手伝い先の会社から雨天につき休工の連絡が来たため、急遽お休みに。
今朝になってから、昨晩の予報よりも雨の降りが酷くなるとの予報となったため、仕方がないですね。(実際こちらはかなりの大雨です)
山での仕事なのでよくあることですが、なかなか予定が立てられないのがちょっと…。
いきなり時間が出来たので、もののけその後の続きでも書こうかと思ったのですが、なんだかその気も起きず、とりあえずブログでも気ままに書こうかと。
で、先週くらいでしたか。
とある文字書き支援ツールのようなものを発見致しまして、おもしろそうなので使ってみようと思い、最近試しに利用しています。
その名も、小説家専用エディタツール「Nola」。
すでに知っている方もいるんでしょうけど、自分は本当に先週知ったばかりです。
登場人物や世界観などの設定をまとめるのに便利なツールになっていて、執筆自体もできるようになっています。(いろいろと便利そうです)
ネット上にデータを保存するため、パソコンでもスマホでもどちらからでもアクセスして使えるので、ちょっと思いついた設定などをその場でメモ・整理するのにもいいです。
このNolaの運営会社は株式会社indentさんというらしいですが、上限文字数2000字の短編小説投稿サイト「Prologue - プロローグ -」というサイトも運営されているようです。
2000字となると、そこまで時間もかからずに書けるし、投稿し易そうだなぁと、興味を持っています。
ただ、多くの方がご覧になるサイトに投稿するとなると、個人的にいろいろと迷いが…。
ここで、ブログのタイトルに繋がるのですが…。
まず、個人的には、『小説』とはどのようなものか、といった定義を知らないですし、そんな明確な定義は存在しないと思っています。
その上で下記の考えを読んで頂ければ…。
二次創作とはいえ、文字書きをする上で、表現方法や形式といったものはやはり気になりますよね。
具体的には、文章を書く上でのルールや慣習です。
当初、二次創作を書き始めて間もない頃は、「小説の書き方って、これでいいんだろうか…」と、いろいろ気になっていました。個人のサイトにだけ載せるつもりだったとはいえ、小説的にどこかおかしいところがあったら、それはやはり恥ずかしいなと思っていたんです。
なので、最初のうちは段落分けとか句読点とか、「…」とか、「ー」とかの使い方とか、う~ん、これでいいのだろうか? と、考えながら書いていました。
でも、そんなこんなでやっていると、だんだんとそういうのが煩わしくなってくるんですね…。
お気づきの方もいると思いますが、近頃載せた作品ではもはや段落分けさえやっていないです…はい…。(初期の頃はやっていたんですよ!)
いや、もう、なんというか、自分のサイトで載せるものだから、もうそこらへんはいいや、と。
内容が伝わってくれれば、あとは好きにやってしまえ! と、堕落したわけですね…。
この前書いた「藤ノ葉」だって、文体はカオスですし。たぶん、書き方的には、ちゃんと調べればもっと慣習やルール的なものが出てくると思うんですが、ここのサイトに載せる分には、文体もいろいろ混ぜちゃってもいいやと。
古語だって、地の文の中で、現代文の中に単語として古語を使うのはいいとして、セリフの中で現代語と古語が混ざっているのは、最初書いているうちは「おかしいよな」と思っていました。
でも、それを気にして古語・古文をちゃんと用いて書いていると、リアリティはあるかもしれないですけど、一方で現代の人が読んだときに、果たしてセリフの内容が伝わっているのかと、疑問に思えてきたんです。(もちろん、だんだん調べるのが面倒くさくなったってのも、ありますけどね!)
あくまで、創作ですから。
どこまでリアリティや史実的な忠実さを求めるのかというと、その基準はそれぞれだと思います。
自分の場合は、「現代に生きている人が読んで、内容が伝わる」という前提で書いているので、結果的にセリフの中に現代語と古語が混ざっている、という状況に至りました。
その中で、古風な雰囲気が出ていれば、いいかなという感じです。
あと、セリフの「」内の最後に句点をつけるかつけないかという問題もあります。つけない方が主流なんですが、個人的にはつけてる方が美しいと思っています。
それと、改行についても、本当はちゃんとした慣習みたいなものがあるのかもしれませんが、正直ここでは好き放題やっています。(ただ、こちらのWebnodeさんの場合、改行すると上の行との間が広めに空いてしまうという特徴がありまして…まぁ、そもそもブログ用のテンプレートなので仕方がないのですが…その点で改行を連発すると結構見にくくなってしまっているという自覚はあります。)
とりえず、いろいろと文章を書く上で、気になることが多々あるのは事実です。
でも、今までは個人のサイトに載せてきたから、その辺りは深く考えずに好きなようにやってきました。
ところが、上述した「プロローグ」さんのような投稿サイトに投稿するとなると、話は別なんですよね…。
より多くの人が見るサイトで、いわゆる「小説」の慣習やルールみたいなものに見慣れている方々のところに載せるとなると、やはり合わせた方がいいのかなと。
文体なども含めてちゃんとした書き方をしないと、ずいぶんな恥をかきそうだなぁ、と、勝手に迷っています。
ま、ここでは今までと変わらず、自分で良いと思う表現で書かせてもらいますけど!
表現方法ばかり考えてしまうと、肝心なこと見落としそうですし…。
別に表現方法や文章を書く際の慣習を軽く見ているわけではないですよ!
ただ、そもそも何のためにそれを書いてるの? ってのがまず第一ではないかと思っているってだけで。(何のためっていうのは、みんなそれぞれですし、同じ人でも作品によっていろいろだと思います。)
これを読んでいる方からすれば、「大したものも書けない人間が何を言ってるんだ」という感じなんででしょうけど、毎度のように似たようなこと言っているのには、わけがありまして…。
というのは、自分の両親はどちらも美術系の学校を出た(片方は中退で、中退した分のお金で作品創作のための高い道具を購入したという…)人で、それなりに創作活動をしてきた親です。
母は絵を(祖母の家にあったのは油絵だったので、油絵が主?)、父の方は銅版画をやっていたそうです。特に父は、自分が生まれて何年かまでは銅版画で頑張っていたそうです。でも、なかなかうまくいかなくて、結局現在の石材加工の仕事に。ところが、その石材加工の仕事で、銅版画などで培ったセンスや技が活きて、会社でかなり評価されたらしく、たった2、3年で独立。マイホームも立てローンも支払い終えたので、けっこう成功した方じゃないでしょうか…。話は変わりますけど、努力して必ず夢が叶うわけではないけど、何らかの形で報われるというのはあるんでしょうね…。
で、大学時代にそんな両親とたまたま芸術の話になって、二人ともその道の人だったので(両親共にお酒が入っていたこともあり)話が盛り上がったのですが、その中で、二人の作品を見て自分が感じたことをストレートに言ったところ、父に関してはかなり図星だったようで、若干しゅんとなってしまいました。
二人のうち、母はどちらかというと好きで趣味として描いているという感じで、作品を観ていても、純粋な想いというか、楽しさというか、そういうのが伝わってきて、見ているこちらからすれば非常に受け止めやすい作品でした。その時、いい意味で「子供の描く絵みたいで純粋に楽しさが伝わってくる」というようなことを言ったら、隣で父が笑って「子供みたいだってぇ~!」というようなことを言って茶化していました…笑
では、東京にいた頃に路上で自分の作品を売ったり、小さな個展までやったという父の銅版画はどうかというと…。
ストレートに、「構図とか色合いとかは、(技術的な意味で)おもしろいし、上手いけど、伝わってくるものがない。何が言いたいのかわからない。」ということを言いました。
すると、隣で聞いていた母が、「だって、○○(父の名前)、作る時すごい考えてたも~ん」と。
要するに、父の場合は作品を作るときに構図など技術的な部分をすごい考え込みながら作っていたそうです。
たしかに、作品の作り込みというか完成度では、母の絵とは全然違いました。(油絵と銅版画なので一緒にはできないですが…。)
でも、肝心なものが、そこに無かったような気がします。(図星だったのか、父は一瞬かなりシュンとしていた記憶があります。)
自分は創る立場としては全く人のこと言えるような人間じゃないですけど、観る側としてなら、他の人たちと同じように自分の感想を言うことはできます。
評論家ではないですし、芸術のことも分からないですけど、皆さんと同じように感じたことを口に出すことはできます。
有名な画家の作品も、知識はないですけど、素直に感想を言うことはできます。(それが合っている合っていないは別の話ですが。)
その上で、有名な画家だからといって必ずしも全ての作品がすごいとは思わないですし、一方で、すごいなぁと素直に感じる作品もあります。
あまり画家を知っているわけでもないのでなかなか例が浮かばないですが、ピカソの「ゲルニカ」とか「泣く女」は、すごいと思いました。伝えたい本質を、「絵」として表現して描き切っていると思えたからです。写実的かどうかではなく、そこにある内面…本質を表現できているから、高い評価をされているのかなぁと、感じました。(写実的な上手さは関係ないですよね。それを求めるのであれば写真やCGで描けばいいわけですし。写真家の方だって、ただ撮ってるわけじゃないですよね。そこにある伝えたいものを表しているほんの一瞬を…感動の風景とか、アスリートの喜怒哀楽の表情や、戦場の一場面とか…を、捉えることで、伝えようとしていることの本質を表現しているわけですよね? ただ撮ればいいってもんじゃないですよね。)
音楽も似たような感想をもったことがあります。
例えば、気分を高揚させるための音楽。
仮に、自分の学校の何かしらのチームが、大事な試合に出発する時、応援として行進曲のようなものを演奏して送り出すとします。その時、技術的にうまい楽団が丁寧に演奏する行進曲と、演奏技術が未熟な学生が元気に気分よく演奏する行進曲では、全然雰囲気が異なってくると思います。
自分が送り出される立場なら、後者の方を聞きたいです。
おととしだったか、年末年始に祖母の家に行ったときに、「芸能人格付けチェック」の特番がやっていて観ていたのですが、その中で、やはり行進曲(?)のようなものを学生の楽団とプロの楽団が演奏し、どちらがプロかというのを当てる問題がありました。
もう、すぐにそれとわかるくらいに演奏に違いがあって、答えを見る前にプロと学生さんの演奏の違いがはっきりわかるくらいでした。
ただ、その時明確に感じたのは、プロの方達の演奏は、確かにうまいけど、丁寧で繊細すぎるということ。
一方で、学生さん達は、演奏している自分達が気持ちよく、のってきてのびのびと演奏している感じでした。
あの行進曲(?)の曲調からすると、仮にさっきのような場面で演奏されるとするならば、自分は絶対に学生さん方の演奏で試合に赴きたいなと思いました。
プロの方達の演奏では、なんだか気持ちが高揚せず、なんとなく試合に向かってしまうような気がします。
これだって、曲を上手く演奏することが目的なのではなくて、何のためにその曲を演奏しているのかが大事で、その曲を通して何を相手に伝えたいのかが大事なのかということの表れなのではないかと。
あのプロの楽団の方達は、あの曲をあのように演奏して、そこに込められた本質を表現できているのかと、ちょっと疑問に感じました。(もちろん演奏する場面にもよると思いますが、あの曲調であれば、しとやかな場面で演奏される曲ではないような気が…。)
現代アートとか観ても思うことがあります。鋭く現代社会を風刺している作品もあれば、ただ単に構図や見た目をおもしろくしているだけで、何が表現したいのか、伝えたいのか分からないのに、ただ人の目だけは引いているというものもありました。
そういう点で言えば、父の作品は、伝えたいことが描き切れていなかったか、あるいは初めからそこに伝えたいものがなかったのか、ということなのかもしれません。
趣味で個人的にやるのならともかく、人に観てもらい、さらにお金を出して買ってもらいたいのであれば、うわべだけでなく、観た人に何か伝わるものがなければ、厳しいのかなと思います。
技術的なうまさや表現方法を考えることは大事ですが、それ以前の根本的なものを中心に据えないと、なんだかよくわからないものになってしまうのではないか…という考えは、以上の個人的感想から来ています。
そりゃあ何事も考え方は人それぞれですから、別にここにこんなこと書いてどうということはありません。
ただ、こうとだけ言っておきましょう……
ここでは、俺がルールブックだ。 笑
…長々と書いておきながら、結局、言いたいのはこれだけでした…笑
終わり!