観れた
既に仕事に復帰しているのですが、ようやく体力的にも精神的にも余裕が出てきたので、「君たちはどう生きるか」、観てきました。
当初は秋ごろに観ようと思っていたのですが、前回のブログの通りで結局こんなに遅くなってしまいました…。
観たのは昨日です。
既にこちらではレイトショーしかないということで、次の日が休みの土曜日を待っていたのですが、本日金曜が完全な雨予報ということで、昨日の木曜夕方時点で本日の休業が確定。
ということで、普段は21時に就寝してるくせに、頑張って21時40分からの上映を観るために40分ほど車を走らせて映画館に行ってきました。
以下、個人的感想となりますので、興味ない方はここまでということで。(若干のネタバレがありますが、もはや上映期間も終わりに近いと思いますし、ジブリが好きな人間としては最遅の感想かもしれませんので、あまり気にせず書いていきます)
まず、今回は事前に何の情報もいれず、パンフも買わずにぶっつけ本番で観ました。
そして、これを書いている現在も他の人の感想や考察等は一切見ていません。
昨晩一回見ただけなので、間違ってる部分や見落としている部分等は多々あると思います。それに加え、当たり前ですけど、現時点での感想であって、当然として個人的な解釈に基づきます。でも、自分自身まだその解釈に自信を持っているわけではなく、こういうことなのかなぁ…程度の理解でしかありませんし、他の人の受け止め方を否定するものではありませんので、ご了承下さい。
では……
「君たちはどう生きるか」。
上映中、真っ先に思ったことがあります。
たぶん、宮崎駿監督は、自身を含めた全ての人に、監督自身がこれまで創造してきた物語の世界から、現実世界へと帰って欲しいのかな、と。
それは決して、夢から目を覚ませという類のことではなく、今生きている現実の世界でどう生きていくかを真摯に考えた結果であって、答えを提供するのではなく、かといって問いかけるのでもなく、ただ純粋に、過去に描いた作品群の現実世界に対する無力感や後悔、しかしそれでも創作を通じて何か現実世界に伝えたいことがあるという葛藤から生まれたのが、この「君たちはどう生きるか」なのかな、と自分は感じました。
作中、特に向こう側の世界で、過去の宮崎駿監督作品を想起させるシーンが多々ありましたね。
はじめは、純粋なオマージュなのかと思っていましたが、あまりにも執拗に、わざとらしく、そして不必要にも思えるほどに散在する過去作を想起させるシーンに、これはオマージュなのではなく、その世界そのものが宮崎監督の過去の作品達、あるいはジブリ全般の作品達を表しているのではないかと思えたんです。
自分は、あの建物の向こう側の世界は、過去に宮崎駿監督が創造してきた物語達そのものだと思うんです。
創られた世界。一見美しい世界のことを、登場人物たちは言ってましたよね。それぞれの言葉で。
キリコは、海上の帆船群を指して飾り物だという意味合いのことや、生きている人間は少ないということ、そしてその世界の住民は殺生ができないと。
老ペリカンは、その世界にはどこまでいっても、何もなかったというようなことを。
大叔父は、(本人曰く)悪意のない積み木を積み上げ、維持することで、その世界を成立させてきたと。そして、少しつついて、かろうじてバランスを保っていた積み木をもって、「一日はもつ」と言い、眞人はそれしかもたないのかと。そして世界を創造した張本人である大叔父は、自らに残された時間は少なく、血のつながった誰かにその世界を、あるいは悪意無く積み木を積み上げて世界を創造していくことを継いでもらいたいと、言っていました。
キリコの言葉は、過去に創造されてきた物語達の劇中を華やかに飾った情景や乗り物群が、現実世界には存在しない、虚しいはりぼてだと言っているように聞こえますし、生きている人間が少ないという言葉は、そもそも物語の登場人物は空想上の存在であって現実には存在しない、本物の人間ではないと言っているように、自分には聞こえます。(だから顔も無い?)
そして、その世界の住民が殺生ができないというのは、物語の主人公や主人公の仲間達は、作品を観ている観客に対して模範的でなければならないがゆえに、劇中で「戦い」を描いた場合でも「敵」を殺さずに事を成し遂げてしまう(成し遂げなければならない)という創作物としての宿命(主人公や仲間に殺人を犯させることができない)のことを言っているのかもしれません。
もちろん、アシタカが弓で野武士の首をすっ飛ばした場面や、アスベルといった例外はいますが、ジブリに限らず少年少女に向けた物語というのは、基本的に主人公達に殺人をさせられないという宿命がありますよね。だからこそ、アニメにしろ漫画にしろ、主人公が何かを守るために戦う描写をする際も、敵役は多くの場合、人間ではない別のものになるわけです。
それこそ、敵が鬼であったり、ロボットであったり、宇宙人や化け物、人間ではない特殊な存在である場合がほとんどです。相手が人間でなければ、存在を消す=殺しても、主人公は殺人をしているわけではないので、模範的でいられるわけです。
仮に敵方が人間であったとしても、大抵は殺しても同情の余地のないほどに超絶悪党として描かれるか、あるいは殺さずに気絶させたり戦意を無くしたりして勝つことが多いような気がします。
物語では、何かを伝えるために「戦い」の場面を描いたとしても、現実的にはほとんど有り得ない(=現実世界の争いでは実現できず、あまり役に立たない)という負い目が、キリコの台詞として挿入されたのかもしれません。
老ペリカンの、その世界(=監督が過去に創造した物語達?)にはどこまでいっても何もなかった…というような台詞に関しては、宮崎駿監督が長年、物語を創造し続けて観客に届けてきたのに、現実世界は何も変わっていないという無力感というか、現実社会で新たな変化として見えてくるものが何も無かったという悔いが込められているような印象を受けました。
自分は、監督の作品が現実社会をほんの少しでも変えていると思っているのですが、もしかしたら宮崎監督はそうは思っていないのかもしれないなぁ、と。
というのも、実は前作の「風立ちぬ」でも、似たような台詞があったからです。
旧東の果て時代の、こちらのブログに、「風立ちぬ」の当時映画館で観た感想があるのですが、ぜひ読んで頂ければ、自分の言いたいことが分かって頂けるのではないかと。
もちろん、当時の推察も今回の推察も個人的な解釈なので、これが正解と言っているわけではないので悪しからず。
また大叔父の言葉は、もう宮崎監督そのものなような気がします。
長年、物語を創造し続けてきたということを、積み木とそれによって維持される世界にそのまま当てはめてますよね。
血のつながった者に継がせようとしたあたり、そのまんまじゃないですかね。
これは全く自信がない推測なのですが、大叔父が眞人に、積み木を三日に一つ積みなさいという言葉をかけていて、上映中になぜ三日なのだろうかと思って、仮に推測通り積み木の一つ一つが過去の宮崎監督の作品なのだとしたら、三日という数字は、新たに作品を創って公開した間隔(制作年月)のことかなと思って、上映が終わってから宮崎駿監督のナウシカ公開(1984年)から前作の風立ちぬ(2013年)までの年数を全て合計(29年)して、作品の数(劇場公開作品に限るので、全部で10作品)で割ってみたんですが、平均して2.9年ごとに作品を公開していたことが分かりました。(正確にはナウシカはジブリ時代ではないですが、便宜上含める)
自信はないのですが、2.9はほぼ3ですし、もしかしたら三日に一つというのは、平均して約三年に一つ作品を公開してきたということを表現しているのかもしれませんね。
あと、13個の積み木(石?)と言っていたので、それも気になって考えてみたのですが、最初はジブリの宮崎駿監督作品で劇場公開作品は全部で10作品なので、やっぱ関係ないのかなと思ったのですが、もしかしたらと思い、劇場公開作品で宮崎駿さんが脚本を勤めた作品数を数えてみたんです。
そしたら、13でした。(やはりナウシカ含む)
全然自信はないですが、可能性はあるのかな、と思っています。
もちろん、もっと正確な別の考察をされている方がいるでしょうし、あるいは同じように受け止めた人もいるのかもしれませんが、個人的にはなんとなくそういうことかな…くらいに受け止めています。
まぁ、数字の考察なんてのははっきり言って、作品に込められた思いを補完するものでしかないので、全然深く考える必要性はないと思います。
それよりもよほど核心部分であって真剣に耳を傾けなくてはならないのは、最後の大叔父と眞人、ヒミ、アオサギ、インコの王のやりとりですよね。
大叔父の、継いで欲しいという頼みを眞人は断ったわけです。
当初、設定からして主人公である眞人は宮崎駿監督自身のことなのかな、と思いながら観ていました。
でも、物語が進むうちに、眞人は宮崎監督も含めた全ての人なのかな、と考えが変わっていきました。だからこそ、キリコの、眞人は真の人間なのだというような普遍性のある台詞が出てきたのかなと。
全ての人というよりかは、正確には「全ての純粋な子供や若い人達、そしてかつてそうであった監督含む大人達」のことと言った方が、いいのかもしれません。
とにかく、自分は眞人がそういう存在なのかなと思って、その上で彼が大叔父の申し出を断ったという行為を観てみると、それはつまり、監督が創り出してきた過去の物語の世界…非現実の世界が、一見美しいだけの偽物であって大事な現実世界には代えられない…代わるものではないということを、「全ての純粋な子供や若い人達、そしてかつてそうであった監督含む大人達」(=観客)は見抜いていて、さらに自分自身が監督が描いてきた空想の物語とは違って「悪意」のある者だと分かっている(=誠実かつ清廉潔白な完璧な人間ではないことを知っている)と、監督が認識しているということだと思います。
「美しい世界」を創ってきた大叔父の言い方は、少しおごりを感じましたよね。自らが悪意無く、美しい世界を創ってきたと自負していました。そしてそれを、一方的に大叔父の言う「悪意無い者」に継いで欲しいとも。
これに関しては明確に、子供たちのためと思って作品を創り続けてきた宮崎監督自身が、かつてのその「子供達のために清廉潔白な美しい物語を造り、届ける」というスタンスを「おごり」であったと感じている証拠なのではないかと…。まさしく、先述の「風立ちぬ」の中にあった台詞のように。
非現実の世界が、一見美しいだけの偽物であって大事な現実世界には代えられない…代わるものではないということを、そして現実の自分は空想の物語に生きる登場人物達とは違って完璧ではないと分かっている 「全ての純粋な子供や若い人達、そしてかつてそうであった監督含む大人達」(=観客)に、人生の見本となるよう清廉潔白な美しい物語 を創って見せたきたのだとしたら、それは釈迦に説法というか、ただの夢を見せてしまったというか、現実世界を生きる観客に結局は何も渡すことができないということであって、実際にそうであったと、監督は感じているのかもしれません。
実際、劇中で眞人(個人的な解釈ではイコール全ての人々)は、当初から向こうの世界を現実ではないと割り切っていましたし、序盤の偽物の母親も当初から偽物と分かっていました。(さらにはその偽物を見せてきたアオサギに「なぜこんな酷いことをするのか」と問いかけていました)
ならば、そこがどんなに美しい世界であっても、眞人=人々はその世界を受け継いでそこで生きていこうとは考えず、現実世界に帰るというのは当然の帰結ですよね。
その、子供達や若い世代に、現実世界を具体的に変えるような何かを渡すことができなかった無力さとか、かつてのおごりとも取れるスタンスへの後悔とか、しかしそれでも物語を通して何か伝えたいことがあるという想いが、溢れていた作品だったと、個人的に思っています。
もちろん、自分が「宮崎監督作品は現実世界の人々にとってただの夢物語であって無意味だった」と言っているわけではありませんよ?(自分がそう思っていたら、もののけの二次創作をやっている理由が無い)
ただ「風立ちぬ」と今回の「君たちはどう生きるか」を観て、監督自身がそういう風に思っているのではないかと、思わざるを得なかったということです。
あれだけ宮崎監督の過去作を思い起こさせた向こう側の世界(=過去の物語達)を、監督が劇中のラストに崩壊させたということは、そういうことなのではないでしょうか…。
(そうなると当然、監督の手によって生み出されてきた過去の作品達は裏切られた気分になりますよね。それが、インコの王の存在理由なのだと思います。インコの王は、宮崎監督が生み出してきた物語達の代弁者だと思います。だからこそ、大叔父と眞人のやり取りを見て、裏切りだと逆上し、自らの手で積み木を積んでいったのかなと)
結局は全てただの推測なので、本当のところはわかりませんけど。
こういう、比喩的な表現を用いた作品の場合、ついつい登場人物達を制作者本人である監督やその関係者(監督が過去の人生で出会ってきた人々)と重ね合わせて、誰が誰のことだと当てはめて考察してしまいがちです。
最初、眞人のことを監督自身だと思っていたという話はしましたが、そのあとにはアオサギが、そしてその次には大叔父が、監督自身のことかなと思ったんですよね…。
でも、最終的には、誰か一人が監督なのではなく、眞人やアオサギ、大叔父、そして石も含めてその全てが監督自身なのかなと考えなおしました。
それぞれの役回りをもって、監督が複雑な心境を代弁してもらっているということなのでしょうね。(監督の手によって創作された作品なので、ある意味当然といえば当然なのですが…)
他にも、観ていて色々思ったことや疑問に感じた場面があったのですが書ききれませんし、大部分は集中して観ていたので、今となっては思い出せないことも多々あります。
ただ、細かいことを考えるばかりでは最も大事なことを見失ってしまいますよね。
何より大事なのは、作品を観て何を感じたのか、何を想ったのかであって、頭の中で物語の辻褄を合わせようとあれこれ考察することではないですよね。
その点では、「君たちはどう生きるか」は本当に良かったと思います。
当然ですが、それはもののけ姫とはまた違った良さで、個人的にはどちらかというと「かぐや姫の物語」のような存在に近いです。(もちろん二つともまた違った面で大事な作品なのです)
比べるのもおかしいですが、もしかしたら宮崎駿監督作品の中では最も「大事な」作品になったかもしれません。
何度も観るようなことは無いかもしれませんが、おそらくBDが発売されたら買うと思います。
ジブリ好きとか言いながら恥ずかしい話ですが、自分はあまり円盤を観ることがないので、ジブリ作品でBDを持っているのはもののけとかぐや姫だけです。
そこに、「君たちはどう生きるか」に加わって欲しいなと思います。
また、人が少ないこの時期に、レイトショーで貸し切りに近い状況で観れたというのも良かったです。
作品の雰囲気的には最高のシチュエーションだったかもしれません。観終わって、夜中に車を走らせながら、久々に感傷に浸ってしまいました。
それほどに、観て良かったと思える作品でした。
何度も言いますが、今回の感想と推察は個人的解釈なので悪しからず。
でも、仮に宮崎駿監督が、自分がこの作品から受け取った思いを本当に抱いているのだとしたら、監督に言いたいです。
あなたの過去の作品は、ちゃんと現実世界でも生きて、私達が人生において前を向くきっかけを、記憶の中に残していますよ、と。
眞人が考え方を変えるきっかけとなった小説の本家本元「君たちはどう生きるか」、興味が出て、少し読んでみました。まだ全部は読んでいませんが、今後もゆっくり読み進めていきたいなと思います。
さて、今年のブログ更新はこれで終了とします。
この一年は、二度の大けがや、ここに書かなかった出来事を含め、これまでの人生で最悪の一年でした。
その中で、最後の最後に「君たちはどう生きるか」と出会えて、本当に良かったと感じています。
この作品が、この一年の救いになりました、
来年は…いや、やめておきます。もうなるようになるんでしょうね。
今年の仕事でのケガは、今後の人生にずっと影響を残すだろうなと思います。現に、膝は違和感だらけで、曲げ伸ばしするたびにがっかりします。
それでも、今の仕事が好きですし、仕事に限らず物事の見方も含め、まだ当面はこの生き方で生きていきたいと思ってます。
どう生きるか…そう問われれば、今のところは答えを返せますし、しばらくその答えを変えるつもりはありません。
でも、いずれまた、どう生きていくかを考え直す時が来るのだとしたら、その時にはまた、「君たちはどう生きるか」を本当の意味で観るのだと思います。
まぁ、そういう事態にならなくても観ますけどね!
今年も一年間ありがとうございました。
来年、またお会いしましょう!
それでは皆さん、良い年末年始を!!