一葉の灯
中天、黒雲が籠める。一閃の煌きさえも貫かせぬほどに、厚く。
京の都は曇天下にある。未だ雨は降りていない。灰黒い澱みが重みある陰鬱を匂わせるこの仄暗い都は今、確かに真昼時である。虚妄ではない。人流溢れる大通り、其処より沸き出づる喧騒と砂埃がその証である。
京の大路は人の坩堝である。路端には得体の知れない浮浪者が数多たむろし、その生気の無い眼前を何処かの下人が小急ぎに駆け抜ける。そうかと思えば上級官吏を屋形に乗せた牛車が悠々と擦れ違い、脇を固める武士が勝ち顔を浮かべて闊歩し、砂塵を跡に残して去っていく。
人が、溢れている。即ち、言もまた、此の大路には溢れている。
罵言が湧き、陰言が落ちる。巧言が満ち、漫言が噴く。此処彼処、互いに名も知らぬ各々が、漫然と路上に垂れ流し合う言の数々。行き交う口はそのどれもが閉ざされることを知らず、ゆえに都の喧騒は鎮まりを知り得ない。
此処に、一人の浪人がいる。色褪せた灰色衣に身を包み、腰に太刀を差すこの痩せ男が、仕えるべき主を失った武士であろうことは、些か見窄らしい身なりを目にすれば推断するに容易い。削げた頬にまで生える野暮な黒髭と、僅かな愛想の欠片もない乱髪がそれを裏付けている。
都に渦を巻く雑言を寄せ付けまいとしてか、浪人は独り足早に人流を遡っている。およそ、当ても無かろうに。だが、漫然と飽和するこの疾しい言辞の沼から逃れたいとの心持ちは有るのだろう。たとえ、当ては無くとも。
浪人は口唇を結び、うつむいて波打つ人海を行く。彼がこの乾き果てた都の土を粗雑に掻き蹴る度、一片の砂塵が舞い立ち、暗天へと舞い昇っていく。
時に、ひたすらに歩を運ぶ己身の脚先、ただそれだけを映し出していたはずの浪人の黒目に、つと、一線の残影が生じる。頭上から足下へ、一筆を走らせた一粒は音もなく浪人の歩みの寸先に降り立つ。
乾土へと溶け入り、一粒は消える。
絶えずうごめく人流にありながら、はたと歩みを止める浪人。地に遺された滲みを見下ろす。
ぽつ、と、また一粒が降りる。
浪人は天を見上ぐ。
雨が、舞っていた。
うねる黒雲は生き身である。肥え腹の淀みは時を経て厚みを重ね、滲み落とす雨滴を一つ、二つと増やしていく。
浪人は小路へ入る。群衆の溢流する大路を逸れ。行場が出来たのだろうか。足取りに迷いはない。
はら、はら、と舞い落つ雫に、いよいよ湿し始めた髪と衣を案じてか、此の男は足並みを速めている。
寂れた邸の土塀が連綿と並ぶ小路。生き人の姿は無く、腐臭漂わす死人が幾体か、路端に横たわっている。大路とは打って変わり、森閑としている。
行手に、仏寺がある。荒ぶ都にあって、廃れた古寺である。
小なる廃寺は、物淋しい小路の外れに佇立している。境内を囲む土塀は今やその殆どが崩れ落ち、本堂の装飾物は言うに及ばず、石塔、建具、他あらゆる具備物を盗まれ尽くした有り様を世に晒している。界隈に座する幾多の豪なる寺社仏閣からしてみれば極めて矮小な表門も、朽ちて塞がらない口をだらしなく開け放つままにしている。その見目様は形骸であり、甚だ嘆かわしいものである。げに、正視に耐え難い。
盛りつつある雨脚に追われ、浪人は廃寺へと駆け込む。屋下を求めていたのだろう。雨雫から逃れるため。
古びた表門を足早に潜り、仏の座したであろう堂内には一目もくれず、かろうじて体裁を留める本堂の軒下に身を寄せる浪人。安堵したか、一息をつき、曇天を見上げる。無論、雲行きは知れない。
眼前を、雫が散り落つ。軒先より、しと、しと、と。
軽く乱れた息を整えつつ、浪人は定間の拍子を保つ滴りを、漫ろに眺め入る。
なおも増しつつある雨勢。今には軒上より、さぁさぁと雨滴のささめきが始まった。
ふと、人声が割り入る。浪人の、肩口での息づかいも鎮まった頃合のことである。それは、雨声に馴染まぬ、人の呻きであった。
耳をそばだてる浪人。気息を止める。
うう、と今一度。囁くかのように弱々しい呻きは、此の男の後手、つまりは本堂の内より響き漂ってくる。浪人に先じた客がいたようである。
浪人は本堂を振り見る。前言の通り、建具は無い。外縁を挟み、内陣は丸見えである。装飾物もまた、前言に変わりは無い。祀られていたであろう本尊でさえ、行方は知れない。
暗い堂内に、人がいる。留守の壇前に、二人。一人は童。床に座す後姿からして、男子である。浪人に劣らずやつれ、見窄らしい身なりである。歳は十ほどか。他方、もう一人は成人である。此の者は病を患っているのであろう。童の眼前で床に臥している。時折、唐突に呻きを発している。先時の声の主であろう。面は童の陰となり、目にすることは望めない。継ぎ接ぎの目立つ古衣から伸び出た手脚は痛々しく痩せこけ、骨が浮き出ている。体つきからして男である。判然とはしないが、肌に刻まれたしわやしみの程からして、齢を重ねた初老の男であろう。
一重の敷物も無しに、板張りに直に横たう病者の呼吸は浅く、乱れている。酷く衰弱しているのが見て取れる。察するに、死時が訪れている。
軒下より、しばらく様子を伺う浪人。
黙して居座り、目前に伏す病者を見つめている童は、其の者を看取っているのか、傍らには水で満たされた素焼きの椀が置かれている。
喘ぎ、息に苦しむ病者をよそに、堂内は閑寂としている。ささめく雨声を除いて。
見かねてか、少時を経て浪人はおもむろに歩を踏む。投足を忍ばせることはせず、土足のまま、外縁に上がると、建具の失われた敷居を跨ぐ。
童の背に、浪人は言った。
「其処なる者は父か。」
童は振り返る。一驚を喫することもなく、至って平然と浪人を見つめる。年相応の稚さを残しながらも、かたや横虐な現世を生きながらえてきた一廉のたくましさをも宿す黒目で。
板張りに黙座する童を前に、浪人は突っ立つ。
浪人は再度尋ねた。
「其処なる者は、汝の父か。」
童は首を横に振る。
ならばと、浪人は問を重ねた。
「血縁の者か。」
再び首を横に振る童。
「然らば、知り人か。」
三度尋ねる浪人へ、変わらず首を横に振る童。閉ざされた唇からは、言の一つも放たれなかった。
浪人は言った。
「知らぬ者と言ふか。」
童は静やかに、ようやく頷いた。返答はそれきりであった。
口を返さぬ童に苛立ってか、浪人は吐かした。
「何ぞ物言へ。」
童は依然として口を利かず、ただ浪人を凝視して、詰問を意に介する様子はない。
静寂を貫く童を熟視し、腑に落ちたらしい浪人は独り呟く。「汝、唖者か。」と。
浮流する沈黙。
静黙は程無く、病者の呻きに裂かれる。案じてか、童は向き直り、黒目に据える。言わず語らず座したまま、なお身じろぎせずに、其の者を。
内陣の外れに立ち、浪人もまた病者へと目をやる。童の肩越しに、臥す者の面が垣間見える。
肉が失われ、頬骨が立つ顔面の肌は色悪く、皮は萎み、しわが寄っている。痩せこけた顔にあって、両の眼球はその白色、窪んだ目元と相まって異様に目立ち、天井を力無く見つめている。他方、口唇は呼吸を止めまいと荒らみ、常に動じて大きく開け放たれている。
その様を目にし、浪人は言った。
「此の者、命終を免れぬ。」
心付いていたか、童は浪人の言を気にしていない。
痩背を向ける童に、立ち詰める浪人は言挙げた。
「今際に言掛くを能はずとも案ずべからずや。言などはえ話さずが良し。」
そしてまた、語り始めた。
「久しく麗しき人言を聞かず。相見ず、陰にて他人を誹り、各々言いたき口舌を垂れ流し易きが今世なり。よくよく思ひ巡らすべきを怠り、衆人の目なども憚らず善がり言を諸人に放ち続く。独り語りがさほどにも楽しやと、此の身、此の口をも省みつつ思はざるを得ず。あな、得難き諸価の失はれし言の斯くも溢るる、いと口惜しき世にもなりにけり。」
怨言である。世々に満ちる、人に仇する言辞への。そしてまた、悔言でもある。それら言辞を発する、己身をも含めた話者達への。
浪人の多弁を後ろ耳に流し、童は無言を保つ。
浪人はさらなる独白を並べた。
「人、遍く其の言辞にて人心をば害し、害せらるが常なり。今生にてまこと否応も無く其の理を思ひ知りき。思ふに、汝も、其処なる者も、定めて同じからむ。然ればこそ、今や言などは口にすとも、字にすとも、些かも良きことはあらず。其れなる病者とて、死際だにも、煩しかる人言など聞かまほしまじ。」
吐息を散らし、知り顔を浮かべる浪人。
列ねられた諦念の言。しかしながら、吐かされた言辞に大いに感応を見せたのは、口を向けられた当人たる童ではなかった。
病者が、呻いた。一声で。疼きの呻きではない。まるで、呼びかけであった。
身動ぐ病者。おもむろに、床にありながらも、乱れる気息を圧し、力を尽くして頭首をもたげる。己の死期を悟ってか、あるいは浪人の諦念を耳に留めてか、初老の此の者は何事か言いたげである。
首をもたげる病者を留めようと、童は身を乗り出し、片耳を病者の口元に寄せる。
いよいよ儘ならない息継ぎ。それも顧みず、病者は童へ一言を告げる。
間もなく、もたげていた頭首を重やかに落とすと、胸のつかえが降りたかのようにふいと力抜け、すと眠り入るように瞼を閉じる。併せて、荒れた息遣いも鎮まる。
それきり、気息は潰えた。
初老の男は逝った。一言を、見知らぬ傍人へ遺し。
亡者を見つめる童。瞳に、悲哀は無い。
静寂を隔て、浪人は言った。
「往にしか。」
聞いてか聞かずか、頷きの一つもせず、やおら腰を上げる童。一目を残し、亡者のもとを去る。
向かい来る童に、浪人は尋ねた。
「何処へ。」
投げかける浪人の傍らを、童は素通る。
目で追う浪人。
童は黙して板間を抜ける。雨声ささめく中、床の軋めきが堂内に鳴る。敷居を跨ぎ、縁に立つ童。ふいと、軒下へ飛び降る。裸足にて濡土を掴み、軒より滴る雨垂れをも潜り、今には屋下を出ていく。
未だ、雨は降りている。天空は今も、曇天が占める。
雨下を行く童を追い、浪人もまた屋下を発つ。気にかけているのか、表門へ足を差す童に、浪人は投げかけた。
「何処へ。此に在らば、人言とは縁無しにいらるぞ。」
投言は童を掠める。鰾膠も無い。注ぐ天水を、儘に頭髪に浴びてなお、童の脚が留まることはなかった。
頓着ない童に見切りをつけたのだろう。浪人は追う脚を止める。
そして、尋ねた。一つ、掛かり事を。童を唖者と判じ、返言は無いと承知であろうに。
「今際にて、あれなる者は何と。」
雨の境内に響く、一つの問。無下にされるかと思われた問言はしかし、雨下に置き捨てられることはなかった。
ひたと、唐突に足止まる童。小片の間を置き、浪人を見向く。望外の挙に、浪人は息を呑む。
童は、口唇をおもむろに解いた。浪人の黒目を見据え、すと一息を挿んだのち、俄に言を放った。
「有難う、と。」
紡がれた一言。唖者と思われたその者の発話に虚を衝かれ、立ち尽くす浪人。
更に重ねて、童は言った。
「有難う、と、今際にて、あれなる人は言へり。」
そうして、童は語り始めた。
「蓋しくも、汝(いまし)の言ふ理もまた違はずやと思ふ。実に、今の程まで吾も同じ思ひ抱きぬ。言とは、其れと知れども知らずとも、口放つ程に人に傷与へ、諍ひ生み、遺恨を残すなり、と。吾も口舌にて人々に害為し、また為されき。故に、人遣りならず、此の口を鎖しつ。又と、言放つまじ、と。されども、今や然は思はず。散りぬる一片の言の葉に、吾は人心を見き。謝する思ひ伝へむと、あれなる人はただ一葉に皆がらを委ねき。今は思ふ。言とは、人心を通はす縁(よすが)なり。人心通はす言を此に放つこと、二つ無しなることなり。」
雨下、天水に打たれる二人。差し向かって佇む浪人へ、童は毅然として直言を投げ返した。
「今一度、生きむとぞ思ふ。言と、共に。」
さわと、一風が立つ。童の尽言に合わせ。
小風に乗り、曇天が移ろう。淀みを失った黒雲はやがて、その内より白光を滲ませ、ついには溢れ出す光により引き裂かれる。狭間に、青天が覗き、光芒が降ろされる。
すと、一閃は射し入る。一片の晴間に、照雨が煌めく。
都が、光に包まれる。天光に照らされた世界に、なお雨は降りる。一閃の下、細やかな雫はさらさらと天を散り瞬き、光の塵となって地上へ舞い注いだ。
童は再び歩み出す。浪人に背を向けて。そして、表門を前に今一度振り向くと、問いかけたのだった。
「汝は、如何に。」
一言を残し、童は去った。
浪人は天を仰いだ。顔面を、輝塵が叩く。濡れる額を、頬を、雨雫が伝う。
滴りも拭わず、浪人は雲谷に覗く細切れの青天へ言を上げ放つ。「あな、ただ一葉の、此程にも眩かるなりけり。」と。
門へと投足を差す浪人。廃寺を、後にするのだった。